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暗い近未来人の日記  作者: 立川みどり
就職決定
9/32

就職決定

超不況の21世紀末に生きる女性が日記を書いているという形式の「暗い近未来人の日記」。今回は主人公の就職が決まり、入社前にそこでアルバイトをする話です。

前回の「安藤さん事件」の最後のほうよりも、時間は前に戻ります。

二〇九三年一月十一日


 やっと就職の内定が取れた。オロファド社ってとこ。就職が決まらないまま年を越しちゃったから、どうしたものかと心配してたんだけど、よかった。ホッとした。

 オロファド社は、サイトの運営とか、サイトの作成とか、出版系とか、カルチャースクールとか、いくつかの事業を複合的にやっている会社だ。あまり大きな会社じゃないけど、零細企業ってほど小さくはない。社員と準社員と非正規従業員を合わせて百五十人ほど。本社と三つの分室がいずれも都内にある。

 事業内容はおもしろそうだし、条件や安定性も悪くはない。そりゃあ、大企業に比べればだいぶん劣るけど、入るのが無理そうなところや不採用になったところと比べたってしょうがないし。なんといっても、受かったんだし。

 で、「ほかの人に不合格通知を出したあとで、『やっぱりやめます』といわれたら困るから、就職する意志があるのかどうか、いま返事をもらえますか」といわれて、「よろしくお願いします」と答えちゃった。

 でも、よかったのかなあ、これで。

 履歴書を送ったり、試験や面接を受けたりして、まだ結果の来ていないところが四社ある。そのうちの三社はまあともかくとして、大手の角潮往来館がまだ結果待ちなんだけど……。

 角潮往来館、事業内容はオロファド社と大差ないけど、出版系の比重が高いし、だれでも知ってる大手だし、給料なんかの条件もオロファド社よりだんぜんいいし……。

 うーん、でも、有名企業だから信頼できるとはかぎらないってのは、いやってほどわかってるしなあ。

 それに、角潮往来館、いちおう十一月に試験はしたけど、実際の採用は毎年夏休みまでに決まっているって噂もあるし。ほんとうはそういうの違法なんだけど、実際には、大企業ではふつうのことらしいし……。

 十一月末に試験して、面接もまだなのに、ひと月以上たっても何の連絡もないってのは、望み薄そうだし……。

 それなら、やっぱり、内定が取れたところに決めたほうがいいよねえ。



二〇九三年一月十三日


 角潮往来館から第一次面接の通知がきた。どうやら試験に受かったらしい。

 一月二十二日が面接日になっている。うーん、どうしよう。ここに就職できるものならしたいんだけど。

 でも、オロファド社にもう返事しちゃったしなあ。二日しかたっていないから、いますぐになら断ってもそれほど波風立たないと思うけど、角潮往来館の結果を待ってから断ったりしたらまずいだろうな、やっぱり。まだ第一次面接だから、最終結果が出るのはだいぶん先になりそうだし。

 だとすれば、やっぱり角潮往来館のほうを断るしかないかな。オロファド社を断ったあとで角潮往来館に落ちて、別の就職先が見つからなかったりしたら、目も当てられないもの。

 そんなリスクの高い賭けをするほど、角潮往来館がいい会社とはかぎらないしなあ。知名度の高い会社がいい会社とはかぎらないっていうのは、いやってほど経験したし。



二〇九三年一月十八日


 ものすごく迷ったんだけど、やっぱり角潮往来館のほうに、「就職先がすでに決まってしまったので」と、断りの連絡を入れた。

 電話に出た人は、気を悪くしたようすもなくて、感じがよかった。そうしたら、なんだか惜しくなった。

 先輩たちがやさしくて、いい会社なんじゃないのかなあ。ここ、いい本をいろいろ出してるし、サイトも充実しているし。

 うーん、これでよかったのかなあ。



二〇九三年一月二十一日


 数人でお昼を食べにいったとき、アヤとナコが「就職先が決まった」と言ったので、わたしも「オロファド社ってとこに決定した」って話した。

 そのとき、「角潮往来館の書類選考にも通ったけど、オロファド社に決まったあとだったから断った」って言ったら、ナコに「ばかねえ」と言われた。

「そんなの、角潮往来館も受けるだけ受けてみればいいのよ。落ちたらそのままオロファド社とかに入社すればいいんだし、受かればそっちは断ればいいんだしさ。妙に義理立てするなんて損だよ」

 アヤと加納さんはナコの意見に賛成し、西本さんは眉をひそめた。

「決定してから断ったら、先方はまた求人しなおさなくちゃいけないわけでしょ? そんなことするのって、どうかと思うけど?」

 西本さんが言うと、加納さんはチッチッと指を振った。

「企業はそんなことで困らないって。それぐらいのことは想定して、ずるくやってるよ。何人か補欠にして、すぐには不採用の連絡を入れずにほっとくとかね。そのオロファド社とかだって、どたキャンに備えて補欠をキープしてるよ、きっと」

 加納さんの言葉で、角潮往来館からの通知がずいぶん遅かった理由に思い当たった。

「そうか、じゃあ、角潮往来館は、わたしがその補欠だったのかもしれないなあ」

「べつにいいじゃん」とナコが言った。

「補欠だろうがなんだろうが、入ってしまえばこっちのものよ。とにかく、こういうご時世なんだから、要領よくドライに立ちまわらなきゃ。どうせ、企業なんて、わたしたちのことをそんなに考えてくれてるわけじゃないんだから」

 ナコの言葉に加納さんもうなずいた。

「そうよ。うちの姉なんて、試用期間が過ぎたらクビにされてね。理由は、表向きは『期待したより仕事が遅い』だったけど、ほんとうは、採用を決定したあとになって重役の娘をコネ入社させたので、人があまったからよ」

 うわっ、そりゃひどい……と思っていたら、西本さんがずいぶん辛辣なことを言った。

「でも、それって、おねえさんのいいわけじゃないの? 『仕事が遅い』って言われたんでしょ? 試用期間が終わったときにクビになったんだし、やっぱり、おねえさんの能力に問題があったんじゃないの?」

 加納さんが怒りで顔を赤くし、気まずい空気が流れた。

 西本さんって、こういう人だったっけ? まあ、一対一で話をしたことはあまりないし、人柄の深いところまでわかるようなつきあいはなかったけど、如才なくて人づきあいのうまい人だと思ってたので、なんだか意外だ。

「あの、で、西本さんや加納さんは就職先決まったの?」

 その場の雰囲気をほぐそうと思ってそう言ったら、加納さんは「まだ」と答えた。よけい気まずかった。

 西本さんは決まったという。おとうさんの叔父さんが経営している会社なんだそうだ。

 それで納得した。西本さんは経営者の側に立ってものをみているわけだ。

 それに、加納さんが腹立たしげに言った「専務の娘をコネ入社」云々に反応したのかもね。大叔父さんが経営する会社に就職といえば、バリバリのコネ入社だもん。ひょっとすると、そのために能力があっても不採用にされた人だっているかもしれないし。

 ま、それはともかく。

 なんか、彼女たちとしゃべっていると、ナコや加納さんが言うように、オロファド社をキープにしておいて、角潮往来館も受けたほうがよかったかという気になってきた。

 企業が従業員に対してどんなに身勝手で非情かは、よくわかってるもの。それなら、求職者に対してはもっと非情よね。義理立てなんてすることはなかったかもしれない。

 とはいっても、全部が全部、ひどい企業とはかぎらないし。わたしは偶然、最悪の会社を知っちゃったけど、たぶん、たいていの会社はもっとましだろうし。

 でも、同じぐらいひどい会社だってあるかもしれない。で、それと気づかずに就職してしまうかもしれない。

 問題はそこなんだよな。従業員に対しても、社会的にも、できるだけ良心的な会社に勤めたい。いくら大きな会社でも、条件がよくても、非情な会社やあくどい会社は避けたい。

 でも、肝心のそういう点は、オロファド社も角潮往来館もよくわからないんだよね。前もってわかればいいのになあ。



二〇九三年一月二十四日


 オロファド社から電話がかかってきた。二月は決算期で忙しいので、アルバイトにきてほしいっていうんだ。

 とはいっても、二月はわたしも忙しい。二月六日まで後期試験で、十二日は卒論の口頭試問だもの。

 で、そう言ったら、『七日からでいいし、十二日は休んでもいい』っ言われた。それで引き受けた。

 遊べるうちに遊びおさめをしておきたいって気もあったんだけど、『バイトは二月中だけでいいから、三月は新生活の準備にあてられるよ』って言われて、まあいいかなって思ったんだ。

 こういうのを断って、あとあと気まずくなったら困るし、新しい職場のようすは早く知っておくに越したことはないって気持ちもあったし。

 それに、バイト期間中、寮の空き部屋を借りられるってことなので、寮の部屋を申し込むかどうか検討できるしね。

 お金のことを考えれば、実家から通うのがいちばん安上がりだけど、片道二時間以上かかるから、それはいやだ。それに、いまさら親といっしょに住むのは気乗りがしないし。

 かといって、ふつうのアパートは家賃が高いから、寮の居心地が悪くなければ、寮に入るにこしたことはない。寮費は月に二万五千円だそうだから、アパートよりずっと安くてすむ。

 その寮費、バイト期間中は日割り計算で、一日八百三十円として計算し、バイト代から差し引くってことだった。

 バイト代は時給千円だっていうし、バイト期間中の生活費は親が出してくれることになったから、けっこういい小遣いになるかな。



二〇九三年二月六日


 きょうで後期試験が終わり。試験が終わったあとって、いつもアヤやナコとちょっとした打ち上げをするんだけど、きょうは一時間ほどお茶を飲んでだべっただけで切り上げた。

 いや、だって、あしたからバイトだし。それも、いままでやったようなふつうのバイトじゃない。四月から就職する会社でのバイトで、今夜は寮に泊まるんだもんね。夜遅くなるってわけにはいかないよ。

 教えられた寮は、学校からは一時間半ほどかかった。寮の最寄り駅はF駅。会社にいちばん近いK駅より一つ手前だけど、通勤するときは、わざわざ電車に乗るより歩いたほうが早いと思う。たぶんね。

 で、その寮ってのは、もとは古い雑居ビルって感じの建物だった。

 古くなったのでオフィスとしては利用しづらくなったビルを改装し、フロアをパネルで細かく仕切って、通路とたくさんの個室に分けてあるのた。

 で、鍵を渡された部屋に入ったんだけど、空き部屋にしては生活感があって、なんだか妙な感じがした。

 測ったわけじゃないけど、ざっと見た感じで、幅一・五メートルほど、奥行四メートルほどといったところだろうか。

 壁の片側に靴入れとロッカーが並び、その向こうにベッドがある。ベッドの反対側の壁には、ベッドを椅子代わりにするとちょうどよさそうな位置にテーブルがあり、その隣に食器棚がある。

 いま住んでいる学校の寮の部屋と似たような広さだ。いや、たぶん長さが少し短いと思う。寮の部屋は同じような配置だったけど、ベッドの向こうに机があったから。

 広さだけじゃなく、つくりも学校の寮より落ちる。建物がかなり古いうえ、仕切りが壁じゃなくてパネルなので、学校の寮よりボロくてお粗末な感じがするのだ。

 でも、寮費は学校の寮より高いんだよなあ。なんでかなあ。都心に近いからかなあ。

 だけど、それはまあいい。それより気になったのが、そこかしこに人が住んでるって形跡があったことだ。

 寝乱れた感じのベッドの上にパジャマが丸めて放り出してあるとか、テーブルの上に飲み終わったティーカップが置いてあるとか……。

 わたしみたいに臨時に使う人間が入れ替り立ち替り出入りしているにしては変だ。だれか特定の人間が住んでいるという感じがする。

 しばらく迷ってから管理人さんに確認しようと思い、部屋から一歩出たとき、「だれ?」と金切り声が上がった。

 みると、通路にいた女の人がものすごい形相で駆けつけてくる。

「人の部屋で何してるの?」

「あの、明日からのバイトですけど、ここに泊まるようにいわれて……」

 管理人さんに渡された部屋の鍵を見せて説明すると、女の人は眉を釣り上げた。

「それ、わたしぐらいの年の若い女じゃなかった?」

 うなずくと、彼女は「あの女!」と毒突いた。

「あの人、管理人さんじゃなかったんですか?」

 おそるおそるたずねると、女の人は、「あ、いや」と苦笑しながら手を横にひらひら振った。

「いちおう管理人よ。管理人らしい仕事はほとんどしていないけどね。ときたまこういう意地悪をするぐらいのもので」

 どういうことなのかといぶかっていると、彼女はわたしをにらんだ。

「で、あんた、この部屋を見て変だと思わなかったの?」

「変だと思ったから、管理人さんに確認しにいこうとしてたんですけど」

「あ、そう」

 女の人は、少なくともわたしに対しては怒りを静めたようだった。

「つまり、その管理人さんは、まちがえたんじゃなくて、わざとあなたの部屋の鍵をわたしに渡したんですか?」

 たずねると、彼女は大きくうなずいた。

「なぜ、そんなことを?」

「いじめよ。い、じ、め」

「仲が悪いんですか?」

「んー、わたしとしてはいろいろがまんしているつもりなんだけどねえ。相手は社長の娘だし」

「社長の娘さん?」

「そ。ただで広い部屋に住んで高い給料をもらうばかりの形式的な管理人。社長の娘だからやりたい放題よ」

 彼女の言うとおりなのか、たんなるミスを悪く勘ぐっているだけなのか、判断がつかなかったけれど、この人が社長令嬢の管理人さんを嫌っているのはわかった。

 なんか、この会社に就職を決めてほんとによかったのかという不安が、本格的に押し寄せてきた。

「あ、わかってると思うけど、わたしがこういうことを話したってだれにも言ったらだめよ。密告なんてしたら仕返しするからね」

 ストレートな脅し文句に、「しません、しません」と答え、管理人室に戻った。

 管理人さんに対しては、ほんとうなら怒涛のように文句を言いたいところだけど、社長の娘のうえに、気に入らない相手にこんな異常ないやがらせをするような人となれば、うかつに衝突するとあとでどんな目にあわされるかわからない。

 で、「この部屋には住んでいる人がいました」とだけ言って鍵を返したけど、顔は強張っていただろうな、たぶん。

「あら、そう? うっかりまちがえたようね」

 管理人さんはしれっと答えて別の部屋の鍵を渡してくれた。驚いたようすもなければ、あやまりもしなかった。

 どうやら、あの部屋の主が言っていたのはほんとうのことだったようだ。

 今度はまちがいなく空き室だったけど、どっと疲れた。この寮に住むのは避けたいなあ。



二〇九三年二月七日


 今日からバイトだ。いままでにやったバイトと違って、春からずっと働く会社だもんな。緊張して出社した。事務ははじめてだし。

 で、会社に入って、最初に出会った人にあいさつして名乗ったら、総務の場所を教えてくれた。

 それで、そちらに向かいながら、すれ違った人に「おはようございます」とあいさつしてたんだけど、そのうちのひとりにいきなり呼び止められた。中年の男性だ。五十歳ぐらいだろうか。

「おいっ、朝きたら、ちゃんとあいさつせんか!」

「へっ?」と思わず問い返した。

「なんだ! その言い方は! 『へっ』とは!」

「いや、いま、あいさつしましたけど?」

 そのおじさんは顔をしかめた。

「声が小さくてよく聞こえんかったぞ。あれを見ろ、あれを」

 おじさんが指差すほうを見ると、「あいさつはきちんと、元気よく」と書いた標語が貼ってある。

 何、あれ? 学生時代にバイトをしたところでは、あんなもの見たことないけど、会社ってこういうものなの?

 おじさんの後ろにいた女の人が、ちらっとこちらに目くばせをして、「まあ、まあ、課長」と、そのおじさんに声をかけた。

「その子、きょうからアルバイトの新人なんですよ。ビジネスマナーはおいおいに覚えるでしょうから」

 ビジネスマナー? 就職関係の雑誌なんかでさんざん見かけた言葉だけど……。

 ちゃんとあいさつしたわたしがビジネスマナーができていなくて、あいさつした人間にあいさつも返さずにからんできたあの人が、ビジネスマナーができてるっていうの?

「ふん、新人か。じゃあ、まあ、こんなもんか。最初は大目に見てやるが、いつまでも学生気分でいちゃ、困るぞ」

 そう言うと、そいつはその場を離れ、自分の席に着いた。

 助けてくれた女の人にお礼を言おうとしたら、その人が先に口を開いた。

「あいさつはかなり大きな声でしたほうがいいよ。この会社、そういうのにこだわる人、けっこう多いから。それに、管理職の人に何か言われたら、理不尽だと思っても、あやまっといたほうがいいよ。腹が立つのはわかるけど、損だからさ」

 いまの一件でげそっとはしていたけど、この人が親切なのはわかった。

 それで、こんなところで働くのかと思いながらも「はい」と答えたら、その人は肩をすくめて、ちょっと舌を出した。

「じつは、わたしもそういうの苦手なんだけどね」

 で、総務部のほうに向かいながら、意識して大きな声で「おはようございます」とあいさつしたら、「ああ、おはよう」と答えた女の人がけげんそうに言った。

「なに喧嘩腰になってるの?」

 どうやら、いまの一件でけわしい顔になっていたらしい。そんなつもりなかったんだけど。

「すみません。ちょっと緊張してまして」

 あやまると、女性は表情をやわらげた。

「牧野さんになにか言われたのね」

 納得顔で彼女がそう言うと、横にいた男の人があいづちを打った。女の人は川口さん、男の人は羽田さんという名前だと、あとでわかった。

「あの人、きついからなあ」

 ああ、あの課長って呼ばれてた人は、牧野って名前なのか。

 そう思いながら、遠くのほうにいる先ほどの課長のほうに視線を向けた。

「牧野課長っていうんですか、あの人?」

 言ってから、しまったと思った。羽田さんが眉をひそめたからだ。

 何かまずいことを言ったかな? あいさつの声の大きさにこだわるような会社なら、「いう」じゃなくて「おっしゃる」って言わないといけなかったんだろうか?

 そう思ったけど、羽田さんが眉をひそめたのは別の理由だった。

「あの人は村山課長。いまさきあなたと話していた女の人が牧野さんだよ」

 あれっ?

「牧野さんって方は、助け船を出してくださったんですけど。村山課長さんにからまれていたときに」

「からまれるって……」

 川口さんと羽田さんが顔を見合わせた。

「課長に対してすごい言い方するのね」

「まったく……。ま、新人ならしかたないけどさ」

 どうやら、課長にからまれたとき、「からまれる」って言い方をしてはいけないらしい。でも、羽田さんが牧野さんのことをカゲで「きつい」なんて言うのはいいんだ。

 変な会社。それとも、会社って、こういうものなのかな?

 ま、それはともかく。

 バイト期間中のわたしの仕事は、おもに経理部の手伝いで、別の部署の仕事が入ることもあるかもしれないということだった。

 で、きょうは経理部で仕事をしていた。データ入力三割、その他の雑用七割ってとこかな。

 入力した数字がまちがってて、最後の合計が合わなくなって、チェックしたりするのもたいへんだったけど、ほんとうに疲れたのは気疲れのほうが多いと思う。

 仕事のミスを注意されるのならともかく、コーヒーカップの洗い方がどうとか、歩き方がどうとか、制服のスカートが長すぎるとか、どうでもいいようなことで文句をつけられるんだもの。

 なかでも納得いかないのが制服云々。制服を用意したのって会社側なのに、わたしに文句を言われてもねえ。

 おまけに、「親にちゃんとしつけられなかったのか」とか、「そんなんじゃ、どこの職場でもやっていけないよ」とか、「近ごろの若い子は……」とか、文句の言い方がなんだか陰湿だ。

 しかも、そういう文句を言ったのは、わたしが配属された経理部の人たちじゃなくて、総務部の人とか、どこの部かよく知らない人とかだ。

 たぶん、この会社の人がみんなそういう人たちってわけじゃないと思う。おおぜいいるなかにほんの数人、そういう人がいるだけなんだ。

 それは察しがついたけど。でもねえ。ここでずっと働くのかあ。会社ってこういうものなのかな?

 ま、でも、昼休みに、同じく来年からの勤務でいまはアルバイトって人たちと話す機会があった。この人たちとは仲良くやれそうでよかったんだけどね。



二〇九三年二月九日


 きょう、経理部の先輩たちに、「あしたバレンタインデーのチョコ代を集めるから、そのつもりで」と言われた。

 金額は九千三百円! 秘書課の人がすでにネットで注文していて、わたしら臨時のバイトも含めて頭割りしたんだって。

 なんだかな~。おおかたの職場で、こういう類の風習があるってのは聞いたことがあったけどさ。まだ本採用になっていないうえ、仕事をはじめてまもないバイトに請求するかな? しかも九千三百円も!

 職場の義理チョコって、こんなにお金をかけるものだったの?

 理不尽だと思っていたら、先輩たちが口々にいった。

「あ、『なんでわたしらも?』って思ってるかもしれないから、先に言っとくね。バイトも頭割りのうちに入れたのは、あんたたちのためなのよ。チョコにはお金を出した人全員の名前を書くからさ。そこに名前が入ってなければ、上のほうの人たちに、『今年の新人は協調性がない』とか思われちゃうのよー」

「上のほうの人にはちょっと気難しい人もいるしね。わたしらとしても、あんたらにまで集金するのは気がひけるんだけどね。悪く思われたらいやだし。でも、あんたらのことを考えたら、やっぱり数のうちに入れたほうがいいと思ったからね」

「もちろん、強制はできないから、払いたくないっていうなら、それでもいいよ。また計算しなおすから。でも、ほんとにあんたのためなんだよ」

 そう言われたら、断るわけにはいかないじゃないのよ! だって、もし断ったら、「天野さんがお金出さないっていうから、ひとりあたり何円アップね」なんて、社内の女子社員全員に連絡がいきわたるわけでしょ?

 だから、「あ、いえ、お支払いします」って答えたよ。

 で、それからしばらくしてトイレに立ったとき、給湯室で話し声が聞こえてきた。

「どう? バイトと派遣の人たち、お金出すって言った?」

「うん、いちおう全員ね。ま、でも、しぶしぶって感じの人が多いね」

「そう、そう。露骨にいやそうな顔したやつもいたしね」

「そりゃあ、HQが低いね」

 うっわー、やな言い方。「HQ」ってのは、「IQ=知能指数」のもじりで、「人間指数」のことでしょ。むかしは「ヒューマンスキル」とか呼んでいたらしいけど、それを数字で表すようになって、いまでは「HQ」のほうが定着しかかっている。数字ったって、知能指数みたいに学校で検査したりはしないし、国際的なもんでもないけどさ。

 実際のところ、集団主義的な傾向の強い人や、集団を支配する側の人が、自分の主観で決める数字にすぎないと思う。それを、まるで人間性の優劣を示す絶対的な尺度でもあるかのように表現するんだもんな。

 「ヒューマンスキル」って言い方もいやだけど、「HQ」よりはまだましよね。「スキル」ってことは、技能の問題だとちゃんといってるわけだし。

 だいたい、企業なり上司なりの目から見て好ましいかどうかとか、そりが合うかどうかって問題に、どうして「ヒューマン」だの 「人間」だのって言葉を使いたがるかな?

 企業ウケがよくないタイプの人は人間じゃないとでも言いたいわけ?

 そういえば、求人広告でも、採用の基準として、よく「人間を見る」だの「人間重視」って言葉をみるなあ。「自分が使いやすそうかどうかをみる」とか、「うちの会社と合いそうかどうかみる」って、事実を客観的にちゃんといえばいいのに。どうして、人間性の問題でもあるかのようにすりかえたがるんだろ?

 それにしても、「露骨にいやそうな顔したやつ」って言われてたの、だれのことかな?

 もしも経理の先輩が言ってたのなら、わたしのことかもしれないけど、あの声は違った。わたしのほかにもいたんだろうな、変だと思った人は。

 そんなことを考えながらトイレの用をすませて出てくると、先輩たちの話はつづいていた。

「彼女、『お気遣いありがとうございます』って」

「へえ、なかなかみどころあるじゃない。ほかのコは、いやがらないまでも、内心でしぶしぶって感じなのに」

「んー、でもぉ、最初からあんまり如才ないっていうのもねえ」

「またまたぁ。厳しいんだから」

「でも、たしかに、そういうコが入ったら、ちょっとやりにくいかもね」

 どうやら、チョコ代請求されたときに「あんたのためだから」って言われて、「お気遣いありがとうございます」って言った人がいるみたい。だれかわからないけど。

 で、そういうふうに言えば、それはそれで気に入らないのか。

 まあ、そういうそつのない人は、もっと上のほうの人に好かれそうだから、先輩たちとしては警戒心をそそられるんだろうな。

 やれやれ。難しい先輩たちだなあ。


二〇九三年二月十日


 きょう、トイレの個室に入っていたとき、派遣社員の人たちらしい会話が聞こえてきた。

「ねえ、義理チョコ代、九千三百円でしょう~~。高いよねえ」

「ほーんと。わたし、三月十日までの契約なのよねえ。ホワイトデーにもらえないのに、なんだか損」

「わたしもよ。三月十日までの契約。十二月からたった三ヵ月の契約なのに」

「わたしよりましよ。わたしなんて、一月十六日からの契約なのよ」

「たいした違いはないじゃないの」

 そこで彼女たちの会話はぷっつり途切れた。ここに人が入っているって気がついたのかもしれない。

 で、水を流して個室から出た。

 何か言ったほうがいいかなと思ったけど、どう言えばいいのかわからない。

 彼女たちの腹立ちはもっともだと思う。わたしだって腹を立ててるんだ。

 でも、「わたしも同感です」って声をかけるほど親しくないし。だいいち、それじゃ、いかにも聞いていましたって感じだし。

 迷っていると、派遣社員の人たちは、無言のまま互いにちらちら視線を交わし、そそくさとトイレから出ていった。とても気まずかった。



二〇九三年二月十四日


 会社で仕事をしていたとき、本社から少し離れたところにある営業所の人から電話がかかってきた。会ったこともなければ電話で話したこともなく、名前を聞くのもはじめての人だ。

 けげんに思いながら電話に出ると、その人は、「会ったこともないのにチョコをくれるなんて」と、ひどく感激している。どうやら義理チョコは、営業所にも配られたらしい。

 そんなに喜ばれると、「強制的に義理チョコ代を請求された」なんて、ほんとのことは言いにくい。しょうがないから、あいまいに受け流して、「どういたしまして」とか「よろしくお願いします」とか適当に返事しておいた。

 ま、ふつう、会ったこともない人にバレンタインのチョコなんてあげないよね。いくら義理チョコでもさ。

 あんなに喜んでいたところからすると、あの人はまだこの会社に勤めて日が浅く、この会社に染まっていないんだろうな。勤めてだいぶん経っていそうな人たちは、もらって当然って顔をしているもの。

 なんだか複雑な気分だった。



二〇九三年二月二十八日


 アルバイトは今日まで……のはずなんだけど、誰にも何も言われない。昼休みに他のバイトの人たちと話したけど、みんな同じ。

 夕方、経理課長に訊ねてみると、「あれっ、十日までじゃなかったの?」と、逆に聞き返された。

 で、総務に訊くように言われて、総務課長に訊ねると、三月十日までだって。

 それならそうと言ってくれればいいのに。二月の末って言っておいて、それっきりなんだもんな。いいかげんだなあ、この会社。それとも、会社ってこういうものなのかな?



二〇九三年三月十日


 派遣社員の人たちが、夕方ごろからなにやら深刻そうだ。これまであまり親しいように見えなかった人どうしでも、集まってこそこそ内緒話をしていたりする。

「なにかあったんですか?」

 気になったのでたずねると、「べつに!」ときつい口調で答えたり、こちらをにらみつけたりして散っていく。

 短いつきあいとはいえ、このひと月ほどのあいだに雑談ぐらいはしたことのある人たちなのに、妙に敵対的だ。

 しかも、わたしのほうをちらっと横目でふり返りながら、「あの人でしょ?」「やだねえ」などと話しているのが耳に入った。

 わけがわからないと思っていたら、派遣社員の人たちが最後のあいさつをして帰ったあとになって謎が解けた。正確にいえば、半分だけ事情がわかった。

 終業時間になって挨拶がてらに同期の人たちとしゃべっていたとき、派遣社員の人たちの話題が出たのだ。

「きょう、感じ悪かったでしょ、派遣の人たち。なんか、査定が悪かったらしいよ」

「あ、わたしもちらっと聞いた。会社の悪口言ってたのがばれたんだって?」

「ま、悪口には違いないね。わたしが聞いた話だと、なんでも、バレンタインの義理チョコ代が高いってこぼしてたのが、ばれたんだって」

 それで、派遣の人たちがわたしのほうをにらんでいた理由の説明がつく。

 すっかり忘れてたけど、おそらくトイレでのあの一件だろう。あの人たちが義理チョコ代についてこぼしていたのを、わたしが偶然聞いちゃったものだから、告げ口したと勘違いされたんだ。たぶんね。

 そんな誤解をされたのは気分が悪いけど、まあそれはいい。べつにそれほど親しかった人たちじゃないし。たったあれだけのことで、わたしが密告したと決めつけるような人たちに誤解されたって、いちいち気になんかしてられない。

 それより気になるのは、そういう愚痴が上のほうの人たちに筒抜けになったという事実だ。

 たぶん、あの人たちは、ほかの場所でも同じような話をしていて、誰か会社の人に聞かれたんだろう。

 ってことは、小耳にはさんだこの手の愚痴を上司にご注進するような人が社内にいるってことだ。

 まあ、いるかもね。以前に「HQ」云々といった話をしていた先輩たちなら、ああいう愚痴を黙って聞き流したりはしないかも。

 でなければ、まさかとは思うけど、盗聴器がしかけられているって可能性も考えられる?

 どっちにしても、やだなあ、そういうの。




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