安藤さん事件・その5(解決編)
ミステリー風の「安藤さん事件」はここで解決します。「暗い近未来人の日記」はまだ続きますが、「安藤さん事件」だけでも中編の近未来ミステリー(かな?)としてお楽しみいただけるかと思います。
二〇九二年十二月七日
DDドリンクの面接に行った。一ノ瀬さんもいっしょだ。
「いちおう安全対策は立てたけど」と、一ノ瀬さんが言った。
「でも、いま言うのはやめとくわ。まんいち試験場にテレパスがいたら、あなたの考えてることは読まれてしまうから。これだけ渡しとく」
渡されたのは万年筆と携帯電話だった。わたしは携帯電話を持っていないのでよくわからないんだけど、見かけないタイプのような気がする。
「これ、ふつうの携帯としても使えるけどね。ここんとこにボタンがあるでしょ?」
一ノ瀬さんが携帯の画面の上部を指し示した。
「危なくなったらここを押して」
「そうしたらどうなるの?」
「それは、いまは言わないほうがいいんじゃないかな」
「……で、万年筆は?」
「スーツの内ポケットにでも入れておいて」
「何に使うの?」
「入れとくだけでいいわ。どういうものかは、テレパス対策として言わないでおくね」
好奇心が湧いたけど、聞くのはやめた。だって、会場にテレパスがいたら困るし。
いや、でも、それでもこの携帯電話と万年筆に秘密があるってことはばれてしまうんじゃ……。
「ひょっとして、これのこと、考えちゃまずい?」
「うん。できれば考えないでほしいけど、うっかり考えてしまって、テレパスに読まれてしまったとしても、ま、なんとかなると思う」
そう言われて説明会に臨んだ。
説明会では、人事担当の男性社員が、自社の商品がどれほどすぐれた製品かとか、どれほど社会に貢献するものかとかを熱っぽく語った。
反吐が出そうになった。発ガン物質が入っているかもしれないものを売っておきながら。口封じのために社員を殺しておきながら!
安藤さんは、発ガン物質が入っているかもしれないってのが社内の噂になってるって言ってた。だったら、その噂がこの人の耳に入っていないってはずはないだろう。それなのに、どうしてこんなに臆面もなく、そんなシロモノが社会のためになっているなどと語れるのか?
この人は、平然と大ウソをつける人なのか? それとも、噂を本気にしていなくて、自分の会社を信じきっているんだろうか?
一ノ瀬さんになら、そういうことがわかるんだろうな。
そう思ってから、一ノ瀬さんのことを考えないように、自分の思考をほかに向けようとした。だって、DDドリンク側のテレパスがこのなかにいたら、一ノ瀬さんがテレパスだってばれてしまうもの。
わたしがDDドリンクを疑っている……っていうより、安藤さん殺害の犯人と確信してるってことも、ばれないほうがいいんだけど。ばれたら危険だから。
いや、でも、これだけいろいろ仕掛けてきてるってことは、こっちがかなり気づいてるって、向こうは思っているんだろう。
ああ、真剣な表情で聞いている面接の学生みんなにほんとうのことをぶちまけたい。
そんなことを思っているうちに、説明が終わって、三人ずつ面接に呼び出された。七組が面接し、最後にわたしと一ノ瀬さんが残った。
いかにもわざとらしい。一ノ瀬さんにそう話しかけたかったが、ぐっとがまんした。もしもテレパスがいなくたって、盗聴器ぐらい仕掛けられているかもしれないもんね。
で、部屋に入ると、面接官は三人。三人とも四十代か五十代ぐらいの中年男性で、年齢の差はわからないけど、上下関係はなんとなく見当がつく。
ばかばかしいと思いながら、名前を名乗って「よろしくお願いします」という定番のあいさつをした。
すると、どうやら地位がいちばん上と見られる真ん中に座っていた男が、向かって右端の気弱そうな人に言った。
「田村くん。ここはもういいから」
それで、その人が就職課の人と会った田村課長なる人物だとわかった。
「は?」と田村課長が聞き返した。よほど意外だったのだろう。
「このふたりはおれたちが面接する。きみは席に帰りたまえ」
「え、いや、しかし、わたしは人事担当ですから」
「それがどうした? 常務のおれがいいと言ってるんだぞ」
すごむように言われて、田村課長はすごすご部屋から出ていった。
なるほど。あの人はほんとうに何も知らないんだ。いや、そりゃあ、自分の会社の製品に発ガン物質云々の噂は聞いて知っているだろうけど、わたしと一ノ瀬さんがマークされていることは知らない。それで、就職課の人は変だと気づかなかったんだな。
相手が中年男二人なら、いざ格闘になったらなんとかなるだろうか?
取っ組み合いのケンカなんて、小学校低学年のころ以来やったことはないし、わたしは運動神経がとろいから、自信はない。まして相手は男だ。とはいえ、ふたりともけっこう年のおじさんだし、デスクワークばかりやっている管理職なら、わたしよりとろいかもしれない。
そう思ってたら甘かった。部屋には、田村課長が出ていったドア、つまりわたしたちが入ったドアのほか、もう一つドアがあったんだけど、そこから若い男がふたり入ってきたのだ。
さきほど説明会で説明していたのとはまた別の男だ。がっしりした体格の男たちで、ちょっと勝ち目はなさそうだ。
ひるんでいると、常務だというその中年男がにっこりした。
もしも事情をまったく知らない人が見れば、この人はわたしたちに好意的に接しているように見えるかもしれない。そんな笑顔だ。海千山千ってのは、こういう人をいうんだろうな。
「さて、あんたがたはわが社の製品をどう思っているのかな?」
「どう……とは?」
「面接にきたからには、わが社の製品に関心があるのだろうね?」
「それはもちろん」
あたりまえだ。ものすごく関心を持っている。関心の方向は、面接にきたほかの人たちとはまったく違うけどね。
中年男ふたりはすばやくめくばせし、常務ではないほうの男が脇のイスに置いた鞄から例のドリンク剤を二つ取り出した。
「それなら飲んでみたまえ。わが社の製品に関心があるのなら飲めるはずだ」
なにを言ってるんだ? 関心があるからこそ、そんなシロモノを飲めるものか。
「これまで面接にきた人たちはみんな大喜びでそれを飲んだよ。飲めないというなら、きみたちはあやしいね」
あやしいのはそっちだろうが。このおっさん、自分でそれがわかっていないのか?
「それなら」と、一ノ瀬さんが口を開いた。
「あなたがたがまずそれを飲んでみてはどうですか? 飲めないというなら、あなたがたのほうがあやしいんじゃありませんか?」
中年男ふたりが顔を歪めた。吐き気がするほど醜悪な表情だった。
「取り押さえろ」
常務の命令で、若い男たちがわたしと一ノ瀬さんをそれぞれ後ろ手にして取り押さえた。もちろん抵抗したけど、相手はすごい力で、あっというまに取り押さえられてしまった。その前に上着のポケットに手を入れて、なんとか携帯のボタンを押すことができたけど。
「何を持っている?」
常務ではないほうの中年男がわたしの上着のポケットに手をつっこんで、携帯電話を取り出し、折り畳まれていた画面を開いて一瞥すると、常務をふり向いた。
「だいじょうぶです。どこにも発信されていません」
「そっちの小娘もポケットに手を入れようとしたぞ」
常務に言われて、そいつは一ノ瀬さんの上着のポケットも探り、携帯電話を取り出した。
「内ポケットも調べとけ」
そいつは、一ノ瀬さんの上着のボタンをはずして内ポケットをさぐり、手帳とペンとハンカチを取り出した。わたしが預かったのと似たペンだ。
男はそれを床に放り出すと、にやりとした。
一ノ瀬さんの悲鳴が響いた。いまにして思えば、実際に声を出して叫んだだけでなく、テレパシーの悲鳴もあったと思う。恐怖というより、おぞましくてたまらないといった感情がじんじん伝わってきた。
たとえていうなら、ゴキブリが十匹ぐらい飛んできて顔にたかったよりももっと気色が悪い。そんなおぞましさだ。
理由はひとめでわかった。彼女の悲鳴に一瞬遅れて、そいつが彼女の胸をつかんだからだ。一ノ瀬さんはテレパスだから、そいつの意図が先にわかったんだ。
「何をやっとるんだ? そんな貧弱な小娘相手に?」
常務があきれたように言ったが、部下を止める気はないらしい。
「いやいや、ブラのなかに何か隠しているかもしれませんからな」
それが口実だと一目瞭然の表情で男が言う。
一ノ瀬さんの感じているおぞましさが伝染して、こっちまでおぞましく、彼女を助けようとじたばたもがいたが、屈強の男に押さえつけられていて身動きがとれない。
と……。
いきなりバタンと扉が開いて、だれかが飛びこんできた。わたしと一ノ瀬さんを押さえつけていた男たちが手をゆるめ、その人物に向かった。飛びこんできたのは、若い女の人で、空手のような技を使って、先に飛びかかってきた男を倒した。
一ノ瀬さんは、手が自由になると同時に、中年男にアッパーカットを食らわせ、イスを持ち上げてなぐりつけた。
それを目の端でとらえながら、わたしもやっぱりイスを持ち上げ、常務になぐりかかった。だって、武器になりそうなものって、イスしかないもんね。
「この小娘がっ!」
常務にイスをつかまれ、その反動でわたしは尻餅をつき、イスから手を離してしまった。常務が殺気立った顔つきで、わたしから奪い取ったイスをふり上げた。
形成逆転だ。殴られる!
そう思ったとき、さきほど飛び込んできた女の人が常務に当て身を食らわせ、腕をつかんで投げ飛ばした。一本背負いってやつかな。
強い! かっこいい! この人、だれ?
そう思っていると、その人は、まだ逆上して中年男をなぐりつづけている一ノ瀬さんの肩に手をかけて言った。
「もう、そのへんにしときなさい」
攻撃の手が止まったところで、中年男が金切り声を上げた。
「お、おまえら、暴行罪で訴えてやるからな」
このおっさん、自分が犯罪者だという自覚がないのか?
「訴えられるものなら訴えてみなさいよ。そっちこそ殺人未遂罪よ。わたしたちに毒を飲ませようとしたんだから」
一ノ瀬さんが言い返した。
「そうよ。発ガン物質入りのドリンク剤をむりやり飲ませようとしたじゃないの」
わたしが言うと、一ノ瀬さんがふり向いた。
「違うのよ。こいつら……」
そのとき、バタバタ足音がして、部屋に何人もの人たちが飛び込んできた。
新手がきたかと思ってぎくっとしたが、そのうちのひとりは関口さんだった。
関口さんは、警察官だと証明する携帯パソコンを見せた。
「おおっ、警察を呼んでくれたんだな」
目を覚ましたらしい常務がしれっとしてうれしそうに言った。
関口さんとそのすぐそばにいる男の人は厳しい顔をしており、それ以外の数人の男女は当惑げに顔を見合わせた。どうやら、刑事はふたりだけで、ほかの人はこの会社の従業員らしい。
「この三人を捕まえてくれ。面接の学生を装って、いきなり暴れだしたんだ。暴れて金品をゆすろうってんだ」
あきれた。とっさにしろ、よくこんなでっちあげをすらすら言えたもんだ。
「殺人未遂よ」と、一ノ瀬さんが関口さんに説明した。
「そのドリンク剤が証拠よ。モンルクシムSとかって致死量の毒薬が入ってるわ。飲んでから二十時間ほどすると心臓発作を起こして死ぬって量の毒薬よ」
顔から血の気が引いた。さっき一ノ瀬さんが何か言いかけていたのはこういうことか。飲んでから効くまで二十時間ほどかかるのなら、なんとでもごまかせると思ったんだな。
青くなったのはわたしだけじゃなかった。常務ともうひとりの中年男もまっ青になっていた。
「ど、どうしてその名を?」
常務ではないほうの男が言い、常務がそれを遮った。
「口から出任せだ! そんな毒薬の名は聞いたこともない」
「これを調べてみればわかることです」
関口さんはハンカチを出して、注意深くそのドリンク剤を包んだ。
「調べるも何も、それは……。そう、それはこの女たちが持ち込んだんだ。わが社をゆする目的でな。毒薬が入っているとしたら、そいつらが自分で仕込んだんだ」
「もしも彼女たちが持ちこんだのなら、壜に指紋がついているはず。壜の指紋を調べればわかることです」
「そ、そんなものは……、壜の水滴で消えてしまっているだろうが」
「ほかにも証拠はあるんですよ」
関口さんが携帯パソコンを取り出した。
すると、「それなら飲んでみたまえ」と中年男の声が聞こえた。続いて、関口さんたちがやってくる前のやりとりが再生された。
それで気がついた。面接前に渡された万年筆は盗聴装置で、関口さんのパソコンに会話を送り続けていたのだ。
で、常務ともうひとりの中年男、それにわたしと一ノ瀬さんを取り押さえていた若い男ふたりは、殺人未遂の現行犯で逮捕された。そのときわかったのだが、常務ではないほうの中年男は総務部長だった。
わたしたちを助けに飛びこんできてくれた女の人が刑事だったってこともわかった。女子学生のふりをしていたけど、ほんとうはわたしたちよりだいぶん年上みたいだ。携帯電話のボタンは、この人にSOSを求めるためのものだったんだ。
「危険な目にあわせてしまったね。悪かった。これがせいいっぱいだったんだ」
関口さんがわたしと一ノ瀬さんにあやまった。
どう言っていいのかわからない。だって、ひどい目にあったのは一ノ瀬さんのほうだから。もとはといえば、わたしと偶然出くわしたために巻きこまれたんだから、申しわけない。
それでも、やっぱり、ふたりとも殺されずにすんでよかった。
それにしても気になるのは……。
あの常務が主犯なのか? ほかに黒幕がいるんじゃないのか? 共犯者だってもっといるんじゃないのか?
関口さんにそう言ったけど、関口さんは肩をすくめて、「彼らを取り調べてみないとね」と言っただけだった。
二〇九二年十二月八日
きのうの事件のことがいろいろなメディアで報道されていた。
だけど、あのドリンク剤の危険性のことには触れられていない。たんに、面接にきた女子学生二人を毒殺しようとしたとされている。
きのうのきょうだから、こんなものなのかなあ?
二〇九二年十二月十一日
寮の談話室でテレビを見ていてむかついた。評論家らしいおじさんが例の事件の解説をしてたんだけど。
「最近の若い女の子にはたちの悪いのもいますからねえ。就職したくて、なりふりかまわず企業の担当者を誘惑したり、脅迫したり。殺意を抱いたからには、よほど目にあまるものがあったんでしょう。会社のことを思って、思いつめたんでしょうねえ」
ちょっと、何よ、これ。仮にも解説してるんなら、事件のことを把握しているはずでしょ?
なぜドリンク剤のことを持ち出さないの? 安藤さんや岡野くんのことに触れないの?
この人、何も知らず、事情を確認もせずに、憶測でこんなことを言ってるんだろうか? それとも、真相を知ったうえで、DDドリンクに加担している?
二〇九二年十二月十八日
きょう、一ノ瀬さんと会った。電話がかかってきて、わたしのほうも彼女としゃべりたい気分だったから、彼女のアパートを訪れたのだ。
喫茶店かどこかで会ってもよかったんだけど、一ノ瀬さんがアパートに来ないかというので、そうすることにした。
彼女の部屋を訪ねるのははじめてだ。ひそかな相談をする必要があったあの事件のさなかに外で会って、事件が終わってから訪ねるというのも妙なものだけど。でも、あの事件のさなかには、わたしたちが協力しているってこと、DDドリンクになるべく悟られないようにしようと思ってたもんね。
で、訪ねてみると、一ノ瀬さんはなんだか浮かない顔をしている。
「どうしたの?」
たずねると、「五郎ちゃんが左遷されちゃった」と言う。
五郎ちゃんというのは、関口刑事さんのことだ。
「なぜ?」
「あの事件のせいよ。じつは、五郎ちゃん、DDドリンクから手を引けと言われてたの。上のほうからの圧力ってやつよ」
驚いた。まるで刑事ドラマみたいな話だ。
「DDドリンクって、警察の上層部に手をまわせるようなコネを持ってたの?」
「……っていうよりはね」
そう言って、一ノ瀬さんは声をひそめた。
「あの一件でね。あの常務とかの心を読んで、とんでもないことを知っちゃったの。ものすごくやばい話なんだけど、聞く覚悟ある?」
思わずつばをごくりと飲み込み、それからうなずいた。
「ひょっとして政治家がらみとか?」
「えっ、なぜわかったの?」
「いや、だって、警察の上層部に圧力をかけるとかいうと、やっぱり政治家ってのが定番かと思って。テレビでわたしらのほうを悪者にしたがっているあの評論家もなんだかあやしいし」
一ノ瀬さんはうなずいた。
「そう。その定番。黒幕は政治家だった。狸原よ」
狸原といえば、福祉厚生省の大臣じゃないか。
「……黒幕って、安藤さんを殺した黒幕?」
「そこまで狸原が細かく命じたかどうかはわからないけど……。ドリンク剤にモンルクシムSを意図的に仕込ませたのは狸原よ」
「えっ? わたしらを殺そうとしたのが狸原?」
「ん? いや、わたしたちに飲ませようとしたあの一件じゃなくてね。ドリンク剤に微量のモンルクシムSが混入されているの。飲みつづけているうちに心臓の老化が早まって、本来の寿命より早く死んでしまうの」
思わず口を開けたまま一ノ瀬さんを凝視してしまった。
「なに、それ? じゃあ、あのドリンク剤に入ってたのは……」
「発ガン物質じゃなくて、心臓の老化を早める物質なの。それがどうやってできたのかまでは読みとれなかった。偶然みたいだけど。ともかく、ドリンク剤からそれを除去しようと思えばできるのに、そうするどころかわざわざ増量して混入させてるのよ」
「何、それ? じゃあ、あのドリンク剤を飲んだ人はみんな……」
「製品の全部かどうかまではわからなかったけど。少なくとも、高齢者用の施設やホームレスの施設で無料配布しているのには混入されてる。わざとね。そうすれば施設に空室が早くできるし、年金を払わなくてもすむから」
開いた口がふさがらなかった。
そういえば、ネットのどこかのページで、税金として強制的に徴収されている国民年金や更正年金の保険税のうちかなりの金額が、狸原や福祉厚生省の高官たちのふところに流れているという話を読んだことがあったっけ。
「自分たちのふところに入れるお金をつくるために、施設のお年寄りやホームレスの人たちを殺そうとしてるってこと?」
「そういうこと」
たいへんだ。夏にあった高校の同窓会で聞いた話を思い出した。
「高校時代の同級生で、ホームレスの施設に入った人がいるのよ。おとうさんがリストラされて社宅を追い出されたの。いまでも施設にいるかどうかはわからないけど」
「その人はだいじょうぶだと思うけど。それを無料で配っているのは高齢者に対してだけみたいだから」
知り合いが無事とわかって少しほっとしたけど、安心している場合じゃなかった。こうしているあいだにも殺人が行なわれているのだ。だれにもそうと悟られないようにして。
「それ、だれかに話した?」
「五郎ちゃんとあなただけよ。五郎ちゃんには、だれにも話すなと釘を刺された。危険だからって。それを知っているってばれたら、命を狙われるかもしれないって。でも重くって……」
そりゃあ、そうだろう。殺人が実行されているとわかっていて何もできないなんて。
事件は全然解決していないじゃないか。
*福祉厚生省というは二十一世紀末の省庁の一つです。省庁│が何度か改編されてこういう省庁ができたと思ってください。
二〇九三年六月二十九日
DDドリンクは思いがけないところから告発された。ある大学の研究者とニュースサイトの一つが、モンルクシムSのことをすっぱ抜いたのだ。
その研究者は、DDドリンクの秘密を知った岡野くんにドリンク剤の毒性を示唆する資料を渡されて分析を依頼され、岡野くんが謎の変死を遂げたあとも分析研究をつづけていたという。
そういえば、DDドリンクは岡野くんが隠した何かを捜していたっけ。
つまり、たぶん、岡野くんは何か証拠になるようなものを手に入れ、大学の研究室にいた知り合いにそれを託したんだ。そういうことを頼んだぐらいだから、その人と親しく、信頼もしていたんだろう。
その研究者によると、例のドリンク剤の一般に市販されているものには微量のモンルクシムSが含まれており、毎日一本ずつ飲みつづけた場合、心臓の老化速度が推定一・五倍から二倍ほどに速くなる。高齢者の施設やホームレスの収容施設で六十歳以上の高齢者に配られている分にはその数倍ほどの量が含まれていて、心臓の老化速度が推定八倍から三十倍ほどに加速されるというのである。
仮に年をとってもまったく病気をせず、事故にあわなかったとしても、心臓はいつか寿命を終えて自然に鼓動を止める。いくら医学の発達した今日でもそこまで生きられる人はまれだが、仮に六十歳の人で、心臓の寿命まで五十年か六十年残されているという場合、毎日支給されるそれを飲みつづければ、二年後から七年後ぐらいにその心臓の寿命がやってくる。なにも病気をしなくても、六十代のうちに老衰死するというわけだ。
以前に一ノ瀬さんから事件の真相を聞かされてはいたけど、具体的に聞くとえぐいな。
それにしても、DDドリンクのあの常務、安藤さんを殺すときに、どうしてこれを使わなかったのだろう?
やっぱり、自社の社員が心臓の異常で突然死したら、殺人とばれなくっても、過労死だろうってことになるからかな?
二〇九三年七月二十一日
狸原の息がかかっているらしいあの評論家は、モンルクシムSのことを明るみに出したあの研究者とニュースサイトをやたらに攻撃している。でっちあげだとかいって。
DDドリンクは、例のドリンク剤が回収されたり、それ以外の商品もさっぱり売れなくなって経営難となり、パートタイマーが大量解雇されたんだけど、評論家氏はそれも攻撃材料にしている。「彼らは社員やパートタイマーたちの困苦を考えなかったのか」って。
何を言ってるんだか。パートタイマーたちの解雇は、企業犯罪を暴いた人のせいではなくて、犯罪を犯した者のせいでしょうが。
それにしても、犯罪に加担していない人たちがクビにされたっていうのに、首謀者は安泰だってのは納得いかない。わたしと一ノ瀬さんを殺そうとしたあの四人はたしかに逮捕されたけど、黒幕に政治家がいたのなら、犯人が彼らだけってことはないと思う。経営者が何も知らなかったってはずはない。
なのに、DDドリンクの社長は相変わらず社長をやっているし、狸原は大臣のままなのだ。
二〇九三年八月二十七日
DDドリンクの件、あの研究者と同様の発表があった。それに内部告発ってやつも。
内部告発のほうは、「もっと早くしろよ」と言いたいところだけど、告発者のほうは、事情をうすうす知ってはいても、告発できるだけの証拠を持っていなかったようだから、しかたがないのかもしれない。
もうひとりの告発者は警察の鑑識の人。一ノ瀬さんに聞いたんだけど、関口さんの親友らしい。上からの命令を無視して調べていて、岡野さんの友だちの告発がヒントになったのもあってついに確証をつかんだので、クビを覚悟で告発に踏み切ったらしい。
そういえば、ずっと忘れてたけど、関口さんは例のドリンク剤を調べてもらっているとか言ってたような気がする。たぶん、この人のことだったんだ。関口さんが左遷されたあともずっと研究を続けていたんだ。 こういう時代でも、そういう人もいるんだなあ。関口さんもだけど。
二〇九三年九月十二日
DDドリンクは倒産して、狸原は辞任した。でも、その辞任のときのコメントをみたかぎり、「遺憾だ」とかひとごとみたいにうそぶいていて、全然悪いとは思っていないように見える。
二〇九三年十月十九日
狸原が刺されて死亡した。なんでも、徴収した年金を資金にして設立されたダミー会社みたいなのがいくつもあって、狸原は、大臣の辞任後はそこに天下りして、月収四百万円ほどの取締役におさまっていたんだって。
あきれた話だ。
で、彼を殺した犯人は七十二歳の老人なんだそうだ。いっしょに高齢者福祉施設に入っていた奥さんが心臓の発作で亡くなって、狸原に妻を殺されたと思いつめたらしい。
夫婦が例のドリンク剤を支給されて飲んでいた期間は約八ヶ月。そこで岡野くんの知人の研究者による告発があったので、夫婦は恐くなって飲むのをやめた。その三ヶ月後に奥さんは亡くなった。
死因は心臓の病気だから、例のドリンク剤が原因というわけではない。識者のひとりはそれを「浅慮」と書いていたが、「彼にとっては、妻はたしかに狸原元大臣に殺されたのだ」とコメントしている学者もいた。
わたしは後者の意見に賛成だ。だって、八ヶ月のあいだ夫婦で飲みつづけていたそのドリンク剤は、彼らの寿命を縮める目的で支給されていたのだ。奥さんの直接の死因じゃなくても、「殺された」と感じるのは当然だろう。
でも、狸原みたいなのは、ちゃんと法律で裁いて欲しかった。こんな形での決着は残念だ。殺人犯になってしまったそのお年寄りもかわいそうだし。
だけど、いまのこの国でそれを望むのはむりなのだろうか。
最後のほう、月日がぼんぼん飛んでいますが……。事件の背景を書くには、どうしてもこういう形のエピローグが必要だと思い、このようにしました。なので、次の話では、時間が少し逆行して、エピローグ部分の前に戻ります。