安藤さん事件・その3
二〇九二年十一月二十二日
きょう、一ノ瀬さんに会った。約束の喫茶店に行ったら、男の人といっしょだったので警戒したけど、その人は警察官の身分証明代わりの黒い携帯パソコンを見せた。
「ことがことだから、いとこに相談したんです」
一ノ瀬さんはそう説明し、その人は関口五郎という名の刑事だと名乗った。
そう言われても、すぐには信用できなくて警戒した。水谷さんのところに来たあやしい刑事の件もあるし、そもそも一ノ瀬さんを信用できるかどうか、よくわからなかったしね。
「ちょっとよく見せてください」
そう言ってその携帯パソコンを手に取ろうとしたら、関口さんははあわててそれを引っ込めた。
なんだかあやしい……と思いながら、じーっと見ていたら、一ノ瀬さんが口をはさんだ。
「それ、見せるだけで、人に手渡したりしちゃ、いけないらしいんです」
「でも、よく見なければ、本物かどうかわかりませんよ。……っていうか、よく見ても、本物と判断していいかどうか、よくわからないんですけどね」
そう言ったら、関口さんは苦笑した。
「用心深いですね。それでかえって彼らの警戒心をあおってしまったようですが……」
その言い方がますますあやしく感じられた。皮肉を言って、警戒心をもつのがいけないことのように思わせようとしているんじゃないかと思ったんだ。
「用心深いのが悪いんですか?」
「あ、いや、もちろん、用心深いに越したことはありません。ただ……。あ、それはこれから説明しますが、その前に、ぼくが本物の警察官と確認する方法を言っときます。帰ってからでも、署に電話して呼び出してもらえればいいんです。もしも留守中なら、伝言しておいてもらえればかけなおしますよ」
そう言うので、関口さんのフルネームと所属部署直通の電話番号を控えた。ここまで言うからには本物だろうと思ったけど、いちおう念のためだ。
そのあと、関口さんが説明してくれた。
一ノ瀬さんのことを探ろうとした男がいて、調べたところ、わたしが何か警戒を要する相手で、一ノ瀬さんがその仲間と思い込んでいるらしいという。
「調べたってことは、その男を捕まえたんですね。何者だったんです?」
「あ、いや、それだけでは逮捕するわけにもいかなくて……」
「でも、不審訊問とかしたんでしょう?」
「いや、ちゃんと訊問したわけじゃなくて……」
どうも歯切れが悪い。で、一ノ瀬さんについて、ひょっとしたら……と思っていたことを思い出した。
「テレパシーですか?」
ふたりは明らかにうろたえたように見えた。
「な、何の話ですか?」
とりつくろった表情で一ノ瀬さんがそう言ったけど、隣に座っているので、冷汗をかいているのがわかった。
それで確信した。やっぱり彼女はテレパスだったんだ。
一ノ瀬さんはしばらく頭を抱え込み、それから顔を上げて、しぶしぶといった口調で答えた。
「そうよ」
「おい?」と、関口さんが驚いたように一ノ瀬さんをふり向いた。
「しょうがないわ。隠せそうにないもん。……あーあ、人助けなんて、ガラじゃないこと考えるんじゃなかった」
「だれにも言いませんよ。プライバシーだし。こんなことバラしたってしょうがないし」
「ええ、お願い。……それにしても、よくわかりましたね。テレパシーなんて、本気にしていない人が多いのに」
「最近増えているって、本で読んだことがありましたから。……で、そのあやしい人から、何を読み取ったんです?」
「その男は、あなたがDDドリンクのことを調べようとしているのかどうか、確かめようとしてたみたいなんです。軽く探りを入れようとしたときに、あなたが用心深い対応をしたので、そういう可能性を疑ったみたい。で、わたしも仲間かもしれないと思ったみたいです。わかったのはそれだけです」
DDドリンクってのは、安藤さんの勤めていた会社だ。
「じゃあ、やっぱり安藤さんは殺されたのね……」
つぶやくと、一ノ瀬さんと関口さんが目を丸くした。
「殺された? 殺人事件が関わってるんですか?」
「安藤さんってのはだれだ? くわしく話してくれ」
ふたりが口々に言うので驚いた。
「えっ? テレパシーで読んだんじゃなかったの?」
「テレパシーって、そんな万能じゃないんですよ。相手がそのとき考えていることしかわかりません。相手の知っていることが全部わかるってわけじゃないし、相手の知らないことは、もちろんわからないし……」
そりゃまあ、相手の知らないことなんて、いくらテレパスでも読み取れないよね。一ノ瀬さんの周囲を探っていたのは、くわしい事情の知らない下っぱかもしれないし。
で、ふたりにこれまでのいきさつをくわしく話した。一ノ瀬さんがテレパスとなるとつじつまが合うので、信用できるって気がしてきたし、岡野くんが危険な状況にいるのだったら、ぐずぐずしていないほうがいいと思ったんだ。
りーちゃんや水谷さんの名前は、さすがにプライバシーと思って伏せておいたけど、岡野くんの名前は出した。岡野くんが自分の意志で姿を消したんだったらプライバシー侵害かなって思ったけど、危険が迫っているかもしれないんなら、救出を考えたほうがいい。
「わかった。調べてみる。管轄外のエリアだけど、放ってはおけない」
関口さんはそう約束してくれた。
で、ふたりと別れて帰ってから、一時間ほどおいて、関口さんがほんものの刑事かどうか確かめるのに、勤め先の警察に電話してみた。もちろん、教えてくれた電話番号ではなく、その所属署の電話番号をネットで調べて電話した。関口さんは外出中だったけど、伝言を頼んでおいたら、関口さんから電話がかかってきた。
で、関口さんが本物の刑事とわかった。ついでに、岡野くんについてわかっていることも教えてくれた。
岡野くんにストーカー容疑がかかっていたのはほんとうだったけど、容疑というより、そういう証言も出ていたという程度の話だったそうだ。もちろん、そんなことを岡野くんの友人たちにベラベラしゃべった刑事もいないらしい。
岡野くんが行方不明なのは事実なので、命を狙われている可能性もあるという前提で捜索すると教えてくれた。
これで安心していいかどうかはわからないけど、いちおう多少は状況がよくなったよね。
そう思うことにして、水谷さんにも連絡しておいた。
二〇九二年十一月二十六日
関口さんから連絡があった。悪い知らせだ。岡野くんが亡くなった。岡野くんが通っていた大学の近くの池で、水死体で発見されたのだという。
自殺か他殺か捜査中だというんだけど、そんなの、殺されたに決まっているじゃないの。関口さんもそう思っているみたいだけど、はっきりしたことがわかるまで断定はできないと言われた。刑事は予断を持ってはいけないんだって。
それはまあそうだろうと思うけど、ちょっと気になった。
「ひょっとして、管轄の警察は自殺だと思っているんですか?」
そうたずねたら、関口さんの返事はあいまいだった。
「はっきりするまで断定はしないはずだよ。ただ……。ストーカー容疑と関係あるんじゃないかという可能性は考えてるみたいだ」
「それって……。岡野くんがストーカー容疑を苦にして自殺したって、思ってるってことですか?」
思わず声が気色ばんでしまった。こんなこと、関口さんに文句を言ったってしょうがないってわかってるんだけど。
「調べもしないうちに、断定はしないはずだよ」
関口さんはそう言ったけど、言い方がちょっと自信なさそうな感じだ。
「それで……。関口さんは何か手を打ってくださっているんですか?」
岡野くんとは、高校時代、同じクラスってだけでとくに親しくはなかったけど、いっしょにこんな事件に巻き込まれただけに、助けてあげられなかったのが悔しい。安藤さんも、岡野くんも、もしもタイムマシンか何かで過去に戻れて、助けてあげられる方法があったとしたら、助けてあげたい。
そんなこと無理だとわかっているから、せめて犯人が捕まってほしいと思う。
そんな気持ちがあるからつい声が荒くなった。これじゃまるで八つ当たりだ。
「事件を担当できるように、上司にかけあってはいるが……。しかし、管轄が違うからむずかしい。きみがDDドリンクのことを言っていたから、問題の製品を検査してもらってはいるが」
そうか。ちゃんとそういうことをやってくれてたんだ。問題の製品の危険性が立証されたら、安藤さんや岡野くんを殺した犯人も捕まるんじゃないだろうか。
ほっとしたら、「ただ……」と、関口さんがつけ加えた。
「一般の毒物ならともかく、発ガン物質なら、結果が出るまでにあるていど時間がかかると思う。必ず発病するとはかぎらないし、すぐに発病するわけでもないだろうからね」
それはそうかもしれない。
「だから、こちらに任せること。勝手に何か探り出そうとかしてはいけない。危険だ」
そうクギを刺された。
「岡野くんのことを水谷さんに話さなきゃ」
「水谷さん?」と聞き返されて、水谷さんの名前を伏せてあったのを思い出した。このあいだ関口さんに会ったときには、信用していいかどうかわからなかったし、本物の刑事だとしても、名前は個人情報だからと思って話していなかったんだ。岡野くんのことで動転していたので、うっかり口をすべらせてしまった。
この際、しょうがないか。
「このあいだ話してた友だちです。刑事と名乗る人が家に来たって言ってた……」
「ああ。話すのはいいが、くれぐれも犯人を探そうとか思って動かないよう、言っておいてほしい。岡野さんが殺されたという可能性が高い以上、用心しないと」
関口さんの注意はもっともだったが、そのあとこうつけ加えられたのには苦笑した。
「ふだんの生活でも、くれぐれも用心するんだ。知らない人を家にあげたりしてはいけないよ」
「しませんよ、そんなこと」
「笑いごとじゃないんだよ。求職活動中ならひとりで出歩くことも多いだろうけど、気をつけるんだよ。……まあ、きみは用心深そうだからだいじょうぶだろうと思うけど。管轄じゃないから、護衛をつけるわけにもいかないし……。友だちにも用心するように言っておくんだ」
そう言われたので、そのあと水谷さんに連絡したとき、そのまま伝えておいた。
水谷さんは、岡野くんの死にショックを受けたみたいで、怯えていた。
そりゃあ、そうよね。わたしだってショックだし、恐いもの。
「犯人探しなんてしないよ。恐いもの。だいいち、どうやって探したらいいのかなんて、わからないし……」
水谷さんはそう言っていた。
二〇九二年十一月二十九日
奇妙な電話があった。深夜……ってほど遅くはないけど、うちの寮では原則として電話禁止になる夜の十時をすぎてからいきなりかかってきて、ドスのきいた低い男の声で、「岡野から預かり物があるだろう?」っていうの。
安藤さんと岡野くんを殺した犯人の一味だ!
そう確信したので、心臓がバックンバックン高鳴った。
「預かり物なんて知りません。そちらはどなたですか?」
言いながら、録音のスイッチを入れた。
これって、ミステリー小説やスリラー物のドラマなんかでよくあるシチュエーションよね。岡野くんは何か重要な証拠を手に入れて、それをだれかに預けたか、どこかに隠したんだ。たぶん、岡野くんが殺されたのもそれが原因だろう。
一味は、どういう理由でか、わたしがそれを預かったと思い込んでいるようだ。それとも、岡野くんが預けたかもしれない人みんなに片っ端から誘導尋問しようとしているんだろうか?
どちらにしても、わたしが預かったと思われたら危険だ。
でも、それが何なのか、知りたい。それが何かわかれば、関口さんが探しあててくれるかもしれない。探りを入れれば、何か口をすべらしたりしないだろうか?
そう期待したんだ。あとでよく考えたら、相手が口をすべらせたら、それはそれでやばいって気もするんだけどね。でも、電話を受けたときには、チャンスだと思ったんだ。
こちらの質問に、もちろん相手は答えなかった。
「しらばっくれるな。預かったはずだ」
「それはどういうものですか?」
「やっぱり預かったんだな?」
「預かってませんよ」
「ごまかしてもムダだ。預かってるんでなければ、なぜそういうことを聞く?」
「預かってないから聞いてるんですけど? もしも預かってれば、聞く必要ないでしょ?」
「ん?」と、相手は考え込んだ。
一味の主犯がどういう人かはわからないけど、この男といい、以前にわたしのあとをつけてきた男といい、少なくとも末端でいろいろやってる人間は、わりと頭が悪そうだな。プロじゃないって感じがする。素人を傭ったのかな? ひょっとして、DDドリンクのアルバイトとかだったりして。
「そういえばそうか」と、相手は納得している。
「で、それはどういうものなの?」
「なんでそういうことを聞きたがるんだ?」
「預かってもいないものを預かっているはずだと言われたら、知りたくなるでしょ」
「よけいな好奇心を出すんじゃない。命が惜しければな」
男がすごんだ。素人くさいと思ってついナメてかかりかけたが、ドスのきいた声ですごまれるとやっぱり恐い。頭が悪そうだからといって、べつにお人好しってわけではないだろうしな。こんな仕事をしている人なんだから。
「いいか。よけいな詮索をするなよ」
捨てゼリフのようにそう言うと、男は電話を切った。
で、わたしはすぐに関口さんにメールして、通話の録音のファイルを関口さんに送っておいた。
* 主人公が使っているのは学生寮の各部屋に備えつけのインターネット電話(現代のとはだいぶん違いますけど)で、録音をファイルにしてメールで送れるのです。ちなみに、主人公は四年生なので、ひとり部屋を利用しています。
二〇九二年十一月三十日
関口さんからメールの返事があった。もちろん、きのう送った録音ファイルの件だ。
「もしも前科者なら、声紋でだれか特定できるかもしれない。何かわかったら連絡する」
そう書いてあるけど、あまりそれは期待できそうにないなあ。電話の録音じゃ、これぐらいしかわからないのかなあ、やっぱり。
ミステリーもののマンガや小説とかだと、録音に何か手がかりになりそうな音が入っていて……なんて展開になったりするんだけど、べつにそういうのもなかったし……。
「もしもまた電話がかかってきたら、探りを入れようとはしないように。危険だから」とも書いてあった。クギを刺されてしまった。
で、夜になって、まず一ノ瀬さん、そのあと水谷さんから電話がかかってきた。ふたりのところにも同じような電話があったらしい。
一ノ瀬さんからの電話は、夕食を食べて部屋に戻ってすぐぐらいのときだった。彼女はもちろん先に関口さんに連絡したと言った。で、関口さんに、わたしのところにも怪電話があったって聞いたんだそうだ。
「わたしも録音したから、少なくとも、そっちの電話と同一人物かどうかはわかるはずだけど」
「そんなこと、わかってもしょうがないよ」
それにしても不思議だ。どうして一ノ瀬さんにも電話がいったんだろう? 岡野くんと一ノ瀬さんはまったく面識がないのに。
そう言ったら、一ノ瀬さんは苦笑した。
「たぶん、わたしもあなたたちの友人仲間と思われたんじゃない?」
「ごめんなさい。なんか本格的に巻き込んじゃったみたいね」
「気にしないで。わたしはめんどうごとに巻き込まれやすいんだから。あの力のせいで」
そうだろうな。人の心が読めるんだものね。
で、一ノ瀬さんとの通話が終わってから、卒論に取りかかったけど、どうもこんなことがあると集中できない。参考書籍を読みはじめても、岡野くんが何をだれに預けたのかとか、この事件のことをつい考えてしまう。
そうしたら、水谷さんからも電話がかかってきたんだ。
一ノ瀬さんは落ち着いていたけど、水谷さんは怯えていた。でも、怯えながらも、やっぱり、岡野くんがだれかに預けたか、どこかに隠したらしいものについて、知りたがっているみたいだった。