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暗い近未来人の日記  作者: 立川みどり
営業所
19/32

営業所・その3

二〇九三年九月四日


 今日、出勤してまもなく、遠藤さんが「おいしいお弁当屋さんがあるのよ」と話しかけてきた。

「税込七百円の定食、すっごくおいしいの」

 税込七百円ということは、税抜五百円。その値段にしては、遠藤さんが見せてくれたパンフの写真はずいぶん豪華だ。

「わたしたち、今日のお昼はこれにしようと思うんだけど、あなたはどうする?」

「え、この近くにこういう店あったんですか」

「会社の近くじゃないよ。S駅の近くにあるの」

 遠藤さんの返事に驚いた。S駅までは距離がたぶん三キロほど。バスは一時間に二本しか出ておらず、そのバス停も、利用したことはないけど、ここから歩いて五分以上はかかると聞いたことがある。

「用事があって近くに行く人がいるから、買ってきてもらえばいいのよ」

「そうなんですか?」

「そうよ。河野さんが銀行に行くから、ついでに買ってきてもらおうと思うの」

 遠藤さんの返事に、さっき以上に驚いた。

 今は前月の月締め業務中で、事務系の仕事をしている人のほとんどは忙しい。とくに河野さんは、N営業所の必要経費とか、契約社員やパートタイマーの終業時間計算なども担当しているので、ものすごく忙しい。S駅前の銀行に行っている余裕などないはずだ。それは、この営業所に来て四日目のわたしでもわかる。

 驚いて河野さんのほうを振り返ると、河野さん本人もびっくりしている。

「なに、それ? 今日は銀行になんか行かないよ。それどころじゃないもの」

「あら、羽島さんに渡す仮払いのお金引き出しに行くんでしょ?」

「知らないわよ、そんなの」

「いま言おうとしてたのよ」と、羽島さんが口をはさんだ。

「今日、D社の打ち合わせがあるの。仮払い二万円出してきてちょうだい! それから、明日はK社と打ち合わせよ。その仮払い二万円は明日出してきて!」

 正社員の営業マンは必要経費の支払いに使うためのカードを持たされているが、羽島さんは現地採用の契約社員なので、必要経費は現金で受け取る。自分で立て替えて河野さんに請求するか、仮払金を銀行から出してきてもらうかだ。

 現金なんて、プライベートではめったに使うことはないが、意外に会社では使う。就職して初めて知ったことだ。非正規雇用者が多くて、正社員以外は経費精算用のカードを持たせてもらえないので、そういうことになるみたい。会社にもよるみたいだけど、うちの会社の場合はそういう精算方法なので、河野さんは時々銀行に現金を引き出しに行かなければならない。

 企業って、変なところで非合理的だと思う。

「おいおい」と、ベテラン営業マンの高山さんが羽島さんをなだめた。定年間近の温厚なおじさんだ。タイムカプセル課の田口さんと少し感じが似ている。

「河野さんがそれどころじゃないのはわかってるだろ。今日二万円と明日二万円、俺が立て替えといてやるよ。それでいいだろ?」

「えーっ。そんなの、高山さんに悪いじゃないですかあ」

 羽島さんが不満そうな声を上げた。たぶん、羽島さんは高山さんに立て替えてほしくないのだ。高山さんに立て替えてもらったら、河野さんの仕事を妨害できなくなるからだ。

「高山さんだって、自分の仕事で経費かかるのにぃ」

「俺はいつも、月締めが終わってからまとめて払ってもらってるぜ。知ってるだろ」

 なるほど。そういえば、この四日間に、羽島さん以外の人が河野さんに経費の支払いや仮払いを頼んでいるのを見たことがない。みんながみんな、羽島さんみたいなことをしているというわけではないのだな。

「いいわよ! 和谷さんに言ってくる!」

 和谷さんというのは、各営業所の経理と総務を巡回して管理している正社員だ。まだ二十代の若い男性で、自分は正社員だから準社員や非正規従業員より立場が上だという意識が異常に強く、威張り散らしている。他の営業所では所長に嫌われていて居づらいが、N営業所の所長はわりと和谷さんの言いなりなので、ここにいる日が多い。

 そんな評判の悪い和谷さんだが、ここの経理と総務を管理している責任者なら、いくらなんでも羽島さんの言い分を斥けるだろう。そう思っていたのだが違った。

「おい、河野! ちょっと来い」

 和谷さんは河野さんを呼びつけると、どうして羽島さんの言うとおりにしないのかと、くどくど文句を言い始めたのだ。

「わかりました。銀行に行ってきます。しかし、それで月締め業務が遅れるのはご了承ください」

 河野さんが困ったように言うと、和谷さんはますます激高した。

「なんだと! てめえが仕事遅いのが悪いんじゃねえか! 銀行に行くのも、月締め業務も、てめえの仕事なんだよっ!」

 ん? なんか変だな? 和谷さんがここの経理と総務を管理しているのなら、それは和谷さんの仕事でもあるんじゃないの? それなら、羽島さんのわがままをどうしても聞かなきゃいけないというのなら、和谷さんが銀行に行くのが筋ってもんじゃないの? 和谷さんは車の免許を持っていて、社用車を自由に使えるのだから、バスを利用しなきゃいけない河野さんより早く行って戻って来れるのに。

 そう思ったが、口には出さなかった。そんなこと言って通用する相手じゃないし。でも、高山さんが代わりに口に出してくれた。

「和谷君が銀行に行けばいいんだ。車使えるんだし」

 和谷さんが高山さんを険しい顔で振り返った。が、さすがにベテラン営業マンに対してパワハラはできないらしく、無言のままだ。

 そのあいだに席に戻ろうとする河野さんを、和谷さんが呼び止めた。

「おい! どこへ行く?」

「銀行に行かなきゃならないのでしょう? それなら準備しないと」

「まだ話は終わってないぞ! 人の話は最後まで聞け!」

「これ以上わたしの仕事の邪魔をしないでください!」

 ついに河野さんが切れた。

「それでなくてもよけいな仕事で月締め業務が遅れるんです! 和谷さんの相手までしている余裕はとてもありません!」

「なんだと! てめえ、自分の立場がわかってるのか? おれが上でおまえが下なんだからな! 上司に向かってその態度はなんだ! 会社辞めてえのか!」

 こんな露骨なパワハラする人、現実にいたんだな。驚いた。というか、和谷さんって河野さんの上司だったの? 正社員だけど、平社員よね。入社して数年しかたっていないって聞いたけど? 平社員の和谷さんに非正規社員を辞めさせる権限なんてあるの?

「あー、河野さん」と、高山さんが助け舟を出した。

「まもなくK社に行くので、途中S駅の近く通るから、途中までなら送れるよ。早く支度してくれるかな」

「あ、ありがとうございます。すぐ支度します」

 銀行に行く準備をはじめた河野さんを、遠藤さんが呼び止め、メモ用紙を渡した。

「これも忘れないでよ! あ、天野さんの注文まだ聞いてなかった」

 この状況でそれ言うか?

「とんでもない! わたしはいいです」

 わたしが言うのと同時に、河野さんも言った。

「弁当屋まで寄ってる時間はないよ」

「河野!」と、和谷さんが怒鳴った。

「弁当も買ってこい! わかったか!」

 河野さんは和谷さんにつかのま怒りの視線を向けると、無言で遠藤さんからメモ用紙を受け取り、銀行に行く支度をして、高山さんといっしょに出かけて行った。

「やれやれ」

 所長の声がしたので思わず振り返った。所長がいたのか。いたのにいまのパワハラを止めようとしなかったのか。

 あきれていると、所長が言葉をつづけた。

「遠藤さんも、羽島さんも、みんな会社のことを考えてくれているのに、どうして河野さんだけ、ああなのかねえ。自分さえよければいいって感じはちょっとねえ。あれはやっぱり性格なのかねえ」

 耳を疑った。会社のことを考えている人は、ふつう、締め切り直前の仕事に追われている忙しい人の妨害をして、わざと仕事を遅らせようとすることなんてしないと思うけど?

 トップなのに、それぐらいわからないの? トップがこうだから、和谷さんも羽島さんも遠藤さんもやりたい放題なんだろうな。


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