タイムカプセル課・その2
超不況の21世紀末に生きる女性が日記を書いているという形式の「暗い近未来人の日記」。「タイムカプセル課」2回目です。」。「タイムカプセル課」は今回で終わりです。
二〇九三年六月十六日
今日、会社の仕事で、頭の痛いことがあった。『カプセル』を予約した女性(仮にAさんとしておこう)が、前の職場の同僚(仮にBさんとしておこう)を名指しで批判していたのだ。
その内容はというと……。
Aさんは、ほぼ同じ時期に入社したBさんと折り合いが悪かった。Aさんから見たBさんは、「とろくて、仕事ができない」タイプ。仕事ができるという自負心のあるAさんは、Bさんに足を引っ張られていると感じていた。それに、Bさんにいろいろアドバイスしたとき、Bさんが反感を示して無視することにも腹を立てていた。
職場の同僚や先輩の大半と直属の上司もAさんと同意見で、皆に好かれて信頼されているAさんに対して、Bさんは嫌われ者だった。
だから、入社して二年目、Bさんが十二指腸潰瘍で入院して二週間の有給休暇をとったとき、Aさんは、次の契約更新の際にBさんは契約更新できないだろうと思っていた。
だが、Bさんの職場復帰後まもなく迎えた契約更新のとき、更新できなかったのはAさんのほうだった。Bさんは、じつは社長の娘だったのだ。
Bさんは、社長の娘だということを隠してAさんにケンカを売り、Aさんの反応を父親や兄に告げ口していた。その兄というのは、Aさんがあこがれていたエリート社員で、Aさんは、リストラされたばかりか、あこがれの男性に嫌われて失恋してしまった……。
そういう内容を読んだとき、Aさんは少し苦手なタイプかもしれないと思いながらも、同情した。そりの合わない相手が社長令嬢と知らずに対立してリストラされたというのは、やはり気の毒だと思ったんだ。
ただ、困ったことに、Aさんは、会社の名前もBさんの名前も実名を使っていると思われた。同じ名前の会社が実際に存在していて、業種も会社の規模も所在地の地名も一致しており、偶然の一致とはとても思えなかったからね。
そういうプライバシーに問題のある『カプセル』は、けっこうよくあるらしい。年数が経ってから公開するのだからかまわないと思っている人が意外に多いみたいだ。
だが、いくら「タイムカプセル」といっても、個人名を出しての個人攻撃など、そのまま通すわけにはいかない。ましてAさんが希望している発表年は、わずか十年後なのだ。最低限、社名や個人名は仮名にして、特定できないようにしてもらわなくては困る。
「話がこじれそうなら代わってあげるから、電話してみなさい」
宇野さんに言われて、内心びくびく、緊張しながら電話をした。
ビジネスマナーとして、こちらの映像を相手が見ることができるよう、映像ボタンをオンにして電話をしたが、個人の電話はたいてい知っている人以外では映像を出さない。Aさんもその例にもれず、こちらの映像は見てはいるが、自分の映像はオフにしている。だから、どんな人かは声から推し量るしかないが、気の強そうな人というイメージを受けた。
その印象は、説明している途中で甲高い声に遮られたとき、いっそう強まった。
「なぜよ?」
ヒステリックな声だった。
「十年もあとで公開するんでしょ?」
「わずか十年後です。十年後なら、名指しされた方もご存命でしょうし、会社も存在するでしょう。それに、そもそも……」
言いかけた言葉は、金切り声に遮られた。
「じゃあ、何十年後ならいいのよっ!」
「そもそも年数の問題ではなく、固有名刺をこれほどはっきり出されるのは……」
「何よ、あなたはっ! いま十年後だからだめだと言ったじゃないのっ! 言うことがころころ変わるのねっ!」
「いえ、そうではなく……」
「あなたみたいな人、信用できないわ! 上の人を出しなさいよ! 上の人を!」
困っていたら、宇野さんが代わってくれた。宇野さんも、かなり苦労して説明していた。なんとか了承してもらったということだったが、電話のあと、顔をしかめていた。
Aさんって、なんだか、どこか榊さんに似ているような気がする。
二〇九三年六月十八日
このあいだのAさんから電話があった。
「前の会社で同僚だったBって人が、わたしの悪口書いた『カプセル』をそちらに依頼したか、これから依頼するみたいなんだけど! わたしの悪口なんて根も葉もない嘘八百で、名誉棄損だから、断ってください!」
「は?」
思わず聞き返した。だって、名誉棄損ものの悪口を書いたカプセルを依頼してきたのはAさんのほうだったから。
「『は?』じゃないでしょ。Bの依頼を断るようにと言ってるの! わかった?」
「あの、いきなりそう言われましても……」
「だから、Bからきた依頼を断れって言ってるのよ! 話のわからない人ね!」
いらいらした口調で、Aさんがどなった。
「あなた、ひょっとして、おとつい電話をかけてきた人ね?」
「はい、お電話したのは私ですが」
「あなたじゃ話にならないわ! 別の人に代わってちょうだい! でもこのあいだ代わりに電話に出た人もだめよ! わたし、頭の悪い人、きらいなの! 日本語が通じないから!」
すごいセリフを平気で言う人だ。天に向かって唾を吐いているような気がするぞ。
「別の人に代わってちょうだい!」
「いま他の者は全員外出しておりまして……」
「なによ、それ!」と、Aさんがまたもや遮った。
「頼りない人しか残さずにだれもいなくなるって、どういうこと?」
ちらっと時刻を見ると、十二時五十二分。この課では交代で食事時間をとることにしていて、今日はわたしが十一時半すぎに食事に出て十二時半ごろ宇野さんと交代したから、わたしがいたんだ。だけど、一般的な職場ではランチタイムで、留守録に切り替わるところも多い。それなのに、ひとりしかいないからといって文句を言われる筋合いはないと思う。
内心そう思ったけど、もちろんそんなことを口に出すわけにはいかない。
「申し訳ございません。他の者が戻りましたときに、そちらさまからの申し出をお伝えしておきます」
「ほんとでしょうね?」と、Aさんが疑わしげに食い下がってきた。
「そんなこと言って、揉み消す気じゃないでしょうねえ?」
内心で「助けてー」と悲鳴を上げていたとき、水口さんが戻ってきた。
「ただいまー」という声かドアを開ける音が、どうやらAさんにも聞こえたらしい。
「だれか帰ってきたみたいね。その人に代わりなさい!」
「では少々お待ちください」
保留ボタンを押して、水口さんに事情を手短に話し、水口さんのパソコンに電話をまわした。
「状況がよくわからないな」
首をかしげながらも、水口さんは電話の保留を解除して、ハンズフリーで会話をはじめた。
「お電話変わりました。水口と申します」
「ああ、よかった。ちゃんとした人が出た」
Aさんがわざとらしく水口さんを持ち上げるような言い方をした。
「いま出てた人ったら、頼りないし、要領得ないし、言うことがころころ変わって信用できない感じだし、困ってたんですよー」
水口さんがハンズフリーで話していて、会話がわたしに聞こえているのは、たぶんAさんにわかっているはず。つまり、Aさんは、わざとわたしに聞こえるように言っているのだろう。こういうところ、榊さんに似ている。
「申し訳ございません。なにぶんにも、まだ研修中の新人でございまして」
「いくら新人ったってねー。あんな頭の悪い人を教育するのってたいへんですねー」
「はあ……、あの、それで、ご用件ですが、別のお客様の『カプセル』を引き受けないでほしいというご要望だとお伺いいたしましたが」
「そうよ。Bからの『カプセル』依頼、来てるでしょう? ここ三日以内よ。調べてください」
「は、少々お待ちください」
水口さんが言われるままに検索しているみたいなので驚いた。これって社外秘だよね。いいのかなあ。
それで、水口さんが「Bさんという方からの依頼はございません」と答えているのを聞いて、ほっとした。もしもBさんの『カプセル』が到着していて、それをAさんに教えたら、プライバシー侵害だと思う。
「では、もしBから依頼がきたら、その『カプセル』を却下してください。わたしの悪口、あることないこと嘘ばっかり書いていて、名誉毀損の内容ですから」
「もちろん、名誉毀損のカプセルを依頼されましたら、書き直していただくか、場合によってはお断りいたします」
「では、Bの依頼をまちがいなく断っていただけるのでしょうね」
「もし、そのBさんからのご依頼があり、もしそれが名誉毀損の内容を含んでおり、もしBさんがその部分の削除か手直しを拒否なされば、依頼をお断りいたします」
うまい。内心で水口さんを見直した。
「じゃあ、その名誉毀損かどうかは、だれが判断するの?」と、Aさんが食い下がった。
「われわれスタッフが討議して判断いたします。ひとりの判断で決定することはございません」
「ほんとにちゃんと判断できるの? Bが社長令嬢だからって、名誉毀損ものでも通しちゃうんじゃないの?」
「いえ、お客様の社会的地位によって基準を変えることはございません」
「ほんとう? あ、じゃあ、こうしましょう。Bからの依頼があったら教えてちょうだい。わたしがBの『カプセル』をチェックするわ」
Aさんがとんでもない提案をしたので驚いた。
「お客様、それはちょっとご無理かと思います」
「なぜ?」
「社内の会議でございますから、社外の方をお招きするわけにはまいりません」
「まあー。じゃあ、十年後にわたしのどんな悪口が公開されるかわからないまま、びくびくしながら暮らさなきゃいけないってこと? わたし、神経細いから、そういうの、とても堪えられないわー」
「ご心配なのはわかりますが、その点はわたくしどもを信頼してくださいとしか申し上げられません」
「信頼してだいじょうぶなんでしょうねー」
「もちろんです」
「あなたは、先に話した女性の方たちと違って、信用できそうだけどー。でも電話で話しただけの人じゃ、信用していいかどうか、よくわからないわー」
そのあとAさんが声をひそめたので、何と言ったのかよくわからなかったが、水口さんが首をこくこく縦に振っているのが見えた。
まさか色仕掛け? Bさんの依頼を断らせたいという、ただそれだけのために?
そうだとしたら、きつい人というより、何を考えているのか、わけのわからない人だ、Aさんって。
そう思っていたら、水口さんが電話を切ったあと、ぽつりと言った。
「女って怖いなあ。まったく何を考えてるんだか」
Aさんのことを言っているのかと思っていたら違った。
「Bとかいう女、怖いよ、まったく。Aさんみたいないい人を退職に追い込んだあげく、悪口を広めようとするなんて。とんでもない女だ」
同意を求めるような視線を投げかけられて困惑した。
いまのやり取りで、水口さんはどうしてAさんをいい人だと思えるんだろう?
二〇九三年六月二十日
Bさんからの依頼の『カプセル』が届いた。メール本文に書かれていた依頼の文章も読んだし、水口さんと田口さんがBさんと話しているのも聞いた。
はじめ、水口さんがBさんと話してたんだけど、依頼客に向かって話しているとは思えないほど横柄でケンカ腰だった。
「まだ最初のほうしか読んでおりませんので決定的なことは申せませんが、中傷誹謗や名誉毀損の内容はお引き受けできませんと、最初に申し上げておきましょう」
「中傷誹謗でも名誉毀損でもありません。お読みいただけばわかるかと思いますが」
「そうですかあ? ま、文章でなら何とでも話をつくれますからねえ」
「どういう意味ですか」
「そんなに興奮しないでくださいよ。感情的な人だなあ。Aさんが言ってた通りだ」
いくらなんでもひどすぎる。どうしちゃったんだ、水口さんは?
「ちょっと、水口さん」
宇野さんが咎め、田口さんがどなった。
「こっちにまわせ、水口!」
田口さんはいつも水口さんのことを「水口くん」と呼ぶ。呼び捨てにするのを聞いたのは初めてだ。
水口さんは田口さんのほうを振り向いた。
「水口!」
水口さんはしぶしぶ電話を田口さんにまわした。
「たいへん失礼いたしました。申し訳ございません」
田口さんがBさんに謝った。
「いまの方、Aさんに会ったのですね」
「そのようですな」
「Aさんに会った方はときどきあのようになります。電話で話しただけであのようになる人もいます。だから、Aさんは直接会いたがるかもしれませんが、お会いにならないほうがいいです。信じていただけないかもしれませんが」
「思いっきりあやしいじゃないか」と、水口さんがわたしたちを見回しながら、訴えるように言った。
「Aさんに直接会われたら困るなんて」
水口さんが喚くのを無視して、田口さんは言葉を続けた。
「ご忠告は肝に銘じておきましょう。わたしは『押されない人』などとあだ名されたことはありますが、自分がそんなに強くないことはわかっておりますから」
田口さんの言葉はよく意味がわからなかったが、Bさんにはわかったようだ。
「『押されない人』……。ほんとにいたのですね、そういう方が」
「たんなるあだ名ですよ」
田口さんが微笑した。
「ともあれ、お預かりした『カプセル』はこれから拝見させていただきます。そのうえで、万一、個人名を明記されているといったような、プライバシー侵害や名誉毀損に当たることがございましたら、どなた様にも書き直していただくことになっております」
「どなた様にも?」
「はい。どなた様にもです」
「よろしくお願いします」
信頼しきった口調でBさんが言って、電話が終わったあと、「どなた様にも」が意味するところに思い当たった。
この決まりはAさんの『カプセル』にも適用されると、田口さんは言ったのだ。
水口さんは不服そうだった。
「Bさんの依頼を断るべきです」
水口さんが主張した。
「BさんはAさんを陥れようとしています。Aさんのようないい人を中傷するような内容は、受けるべきではありません」
「中傷とはいえませんよ。本名を出してはいないし、どこのだれの話か、事情を知らない人にプライバシー情報がわかるような書き方もしていません」
Bさんの『カプセル』に目を通していた宇野さんが反論した。
「中傷というなら、それはAさんのほうですね。Bさんの本名をフルネームで出しているのですから」
「それは、不当な扱いを受けたからです! 正義はAさんにあります!」
水口さんの目は異様にぎらぎら輝き、狂信者の目のように見えた。完全に冷静な判断力を失っている。というか、正気を失っているように見えた。
「その根拠はなんだ?」
田口さんが、水口さんと対象的な落ち着いた口調で訊ねた。
水口さんがけげんそうに振り向くと、田口さんが問いを重ねた。
「Aさんに正義があるという、その根拠はなんだ?」
「なんでって……。Aさんはいい人ですよ?」
「それでは答えになっていないよ」
「なぜですか?」
「では聞くがね。Aさんをいい人だと思う、その根拠は何なのだ?」
「そんなの、会って話をすればわかります。Aさんはいい人です」
「会ったのか?」
「いけませんか?」
「会って話をするうちに、Aさんはいい人で、正義はAさんにあると確信するようになったわけだな」
「そうです」
「変だと思わなかったか?」
「どういう意味ですか」
水口さんが気色ばんだ。
水口さんの反応は異様だと思ったが、田口さんの言葉がどういう意味かは、わたしも知りたいと思った。
田口さんは、水口さんがAさんの言いなりになっている理由を知っているか、でなければ、その理由に思い当たるところがあるのだろうか?
「会って話をしているうちに、確たる理由もなく相手を無条件に信用する気になったその心境の変化を、変だと思わなかったのかと聞いたんだが」
田口さんはため息をついた。
「まあそうか。自分では変だと思わないか」
「変なのは 田口さんのほうですよ!」
水口さんが机を叩いて立ち上がった。
「もういいです! わかっていただけないようですから」
そう言い残して、水口さんは部屋を出ていった。
「田口さん」と宇野さんが訊ねた。
「何か思い当たるようなことでも?」
「ああ、いや、確証なんてまったくないんだが」
田口さんはちょっとためらってから言葉を続けた。
「そのAさんって人、まさか、『押す人』じゃないよな、と思ったもんだから」
「『押す人』?」
わたしと宇野さんがほとんど同時に言った。
「その言葉、いろんな人のカプセルにたまに出てきますけど、都市伝説みたいなものじゃないのですか?」
宇野さんの問いに、田口さんは「いや」と即答した。
「『押す人』は確かに実在する。たんに口がうまくて人を乗せるのがうまいというんじゃなくて、一種の超能力者としての『押す人』がな」
確信たっぷりの言い方だったが、田口さんはそれ以上説明しようとはせず、黙り込んでしまった。
二〇九三年六月二十一日
一ノ瀬さんから電話がかかってきた。
危険を共にしたからかな。一ノ瀬さんと話すとほっとする。彼女はテレパスなのだから、ふつうなら緊張するところだけど。
で、お互いの近況などを話したところで、ぽろっと口に出た。
「ねえ、ところで、『押す人』って知ってる?」
一瞬の間をおいて、一ノ瀬さんが聞き返した。
「何かあったの?」
話してはまずかったかなと、ちょっと思った。
Aさんの依頼とかBさんの依頼とかは、社外秘だよな、やっぱり。
でも、社外秘だといって秘密にしておいていいんだろうか。水口さんはAさんに操られているように思えるのだけど。
Aさんはなんだか怪しすぎる。
これは、一ノ瀬さんのような人に相談する必要がある問題じゃないかと思う。社外秘だといって秘密にしておくとまずい状況かもしれないとも思う。Aさんはなんだか危険な人のような気がするもの。
そう思って、一ノ瀬さんに相談することにした。
「じつは、タイムカプセルの依頼人のなかに、変な……というか、なんだかとても怪しい人がいて……」
本名や会社名などのプライバシー情報を避けながら、知っているかぎりのことをくわしく話すと、一ノ瀬さんは「うーん」と考え込んだ。
「マインドコントロールのうまい人と超能力者としての『押す人』の境界線って、あいまいだからねえ」
「そうなの?」
「うん。『押す人』とか、わたしみたいなテレパスとか、対象が人間の心理でしょう? 操るにしろ、読み取るにしろ、超能力なんて想定しなくても長けている人がいるからね。で、そういう対人テクニックと超能力の境界はあいまいなわけよ。たぶん、本人にも区別がはっきりしていない場合が多いんじゃないかな」
「そういうものなの?」
「うん。わたしも、人の心を読めるようになってしばらくのあいだ、自分がテレパスだとは気がつかなかったもの。漠然と、勘がよくなったんだと思ってた。『押す人』の場合も同じだと思う」
「うーん、そうか。自分は人の心を動かすのがうまいと自覚していても、それが対人技術か超能力か、本人もわかっていないことが多いってことね」
「そういうこと」
「本人にもわからないんじゃ、周囲の人にはもっとわからないよね」
「うん。それに、そのAさんと水口さんって人の場合は、女性と男性でしょう?」
「色仕掛けか超能力かわかりづらい?」
思わずため息が出た。一ノ瀬さんもため息をついた。
「まあ、でも、『押す人』かどうかはともかくとして」と、一ノ瀬さんが言った。
「Aさんがマインドコントロールに長けた人で、本人にもその自覚があるってことは間違いなさそうね」
「うん。水口さんを言いなりにできる自信があって呼び出したんだと思う」
「一度会って確かめてみたいけど、難しいわよねえ」
「うん。そうなんだよね」
新米のわたしが顧客に直接会うことはない。ましてAさんは、いまや水口さんの担当のような雰囲気になってしまっているから、なおさらわたしが会う機会はない。
「いつどこに来るかさえわかれば、相手にわからないように確認できるかもしれないけど」
「うーん、わかったら連絡する。けど、難しそう」
「そうよねえ。まあ、わかったら連絡ちょうだい」
そう言ってもらえて、ほんのちょっと気が楽になった、具体的な方策は何もないんだけど、味方がいると思うとやっぱり心強い。
註 一ノ瀬さん(一ノ瀬涼子)は、就職活動中に出会い(「就職活動」)、主人公が企業犯罪に巻き込まれた事件(「安藤さん事件」)で再会し、事件解決に協力した同年代の女性。けっこう能力の高いテレパスで、頼りになる。
二〇九三年六月二十三日
水口さんは、すっかりAさんに傾倒している。Aさんのことを褒めたたえる水口さんのようすは、やっぱり、魅力を感じた女性のことを話す男性というより、新興宗教の教祖の話をする信者のように見える。
わたしに対しても、「天野さんもAさんを見習ったほうがいいよ」などと言う。
「Aさんに注意されたときも、謙虚に聞こうとせずに失礼な言い方しただろ。そういうの、感心しないね」
いままで、水口さんのことを苦手とか変な人だと思ったことはなかったけど、いまはちょっとそう思う。でも、それは、たぶん水口さんのせいじゃない。Aさんが『押す人』だとしても、たんなるマインドコントロールのうまい人だとしても、水口さんはAさんに操られているんだ。
二〇九三年六月二十四日
水口さんが出かけていて、部屋にわたしと宇野さんと田口さんの三人というとき、宇野さんが田口さんに、「ちょっと相談に乗ってほしいのですが」と声をかけた。
「水口さんがあさってのお昼にAさんと会う約束をしたらしいんですけど、そのとき、課長も同席するみたいです」
「そいつはやばいな」
「ええ。わたしとしては、このまま放っておけないから、知っている店だし、様子を探りたいと思うのですけど、ちょっと心配で……。田口さん、このあいだ、Aさんが『押す人』かもっておっしゃっていたでしょう? もしもAさんがほんとうに『押す人』だったら、課長も水口さんみたいに操られてしまうでしょうし、わたしも見つかれば操られてしまうかもしれません。何か、対策とかありませんか」
「おれもその店に行くということしか思いつかないな。おれだって、『押す人』に操られないという自信はないし、その場で何ができるというわけでもないんだが」
「あの」と、思わず声をかけた。宇野さんと田口さんがそろって振り向く。立ち聞きをしていたような後ろめたさでどぎまぎした。
「すみません。話が耳に入ったもので……。こういうときに頼りになりそうな友だちがいて、その日に応援頼めるか、聞いてみたいと思うのですが」
「友だち?」
田口さんが眉根を寄せた。
「社外の人間を引き込むのは避けたいんだがな。……どういう友だちなんだ?」
そう聞かれると困った。テレパスだというのは、一ノ瀬さんのプライバシーだ。
「Aさんが『押す人』かどうか、見分けられるかもしれなさそうな友だちです」
「テレパスか?」
返答に詰まっているのをどう受けとめたのか、田口さんが考え込むように言った。
「その友だちとやらが来てくれると言ったとしても、いきなり同行してもらうわけにはいかん。その前に一度会ってみたい。できれば明日。二日続けて時間を割いてもらうのが難しそうなら、直前にでも別の場所で」
「聞いてみます。あの、いま電話してもいいですか」
田口さんがうなずいたので、一ノ瀬さんに携帯で電話した。
「どうしたの? 会社、休み?」
「いえ、いま、会社から。ゆうべちょっと話した件で」
事情を説明すると、一ノ瀬さんはつかのま考えていった。
「じゃあ、いま、職場の人もそこにいるのね?」
「うん」
「じゃ、直接話したほうがいいかな」
「あ、うん。いま代わる」
田口さんに携帯を渡すと、一ノ瀬さんが名乗る声が聞こえた。
「はじめまして。一ノ瀬涼子と申します」
「一ノ瀬?」
田口さんは食い入るように画面を見つめ、驚きの声を上げた。
「涼子ちゃんか?」
わたしも驚いたが、一ノ瀬さんも驚いたようだ。
「え? あ、田口さん?」
「いや、驚いたな。まさか、涼子ちゃんのこととは。いやあ、それにしても、見違えたねえ。この前会ったときは子供だったのに」
「中学生は子供じゃないですよ。まあ、いまよりは子供ですけどね」
「そうか。いや、それにしても驚いたな。涼子ちゃんが天野さんの友だちとは」
「こっちも驚きです。田口さんが天野さんの上司だなんて。で、天野さんからちらっと聞いたんですけど。『押す人』かもしれない人がいるって」
「うん。そうなんだ。見分けられるかどうか、やってみてくれるか」
「はい。じつは、話を聞いた時からその気になっています」
「うん。まんいち失敗した場合の対策も考えておきたい。まあ、失敗しても全員操られるような事態にはならんだろうし、それほどの相手ならどうしようもないかもしれんが、いちおう事情を知っている人間がいて、できれば相談しあえるようにしておきたい」
「五郎ちゃんとは連絡とれます。左遷されちゃって、N県にいますけどね」
「左遷? なんで?」
「去年の暮れごろ、健康ドリンクの会社で、面接にきた女子大生ふたりを毒殺しようとしたって事件があったの、覚えてます?」
「そういや、そういう事件あったかな。よくわからん事件だと、ちらっと思った覚えがある」
「その女子大生ふたりって、わたしと天野さんのことです」
「えっ」
田口さんは口をあんぐりと開けた。
「どうやら、報道されなかった裏の事情がいろいろありそうだな」
「ええ。長い話になるので、今度の機会に詳しく話します」
「ああ。いまはこっちのトラブルが先決だからな。差し支えなければ、関口の番号を教えてくれ。こっちの信用できる同僚に教えておきたい。勝手に教えてまずければ、明日までに聞いてくれ。おれ個人の番号とメルアドを教えておくから」
田口さんが電話番号を口頭で言い、指をキーにさっと走らせた。
「で、天野さんと友だちだと言うなら、君の見立てを聞いておこう。天野さんは『押されない人』だと思うか」
「たぶん。『押されない人』でなかったとしても、押されにくいタイプでしょうね」
「わかった。では、明日、天野さんにも同行してもらおう。天野さんにその気があればだが」
そう言って、田口さんがわたしのほうを見た。もちろん、断る気なんでない。
「行きます。ぜひ」
田口さんはうなずくと、待ち合わせ場所と時間を決めて電話を切り、宇野さんのほうを振り向いた。
「もしも俺と天野さんとふたりそろっておかしくなったと感じたら、関口という男に連絡を取ってくれ。いま話していた一ノ瀬涼子くんのいとこで、警察官だ」
「わかりました。でも、できるかぎり、操られるかもしれないような危険を冒さないでくださいね」
「もちろんだ。やばいと思ったら逃げるさ」
田口さんはそう言ったが、宇野さんは心配そうだった。
註 一ノ瀬涼子のいとこ関口五郎は、主人公が巻き込まれた企業犯罪事件「安藤さん事件」で、涼子や主人公とともに事件解決にあたった刑事。それがもとで、後日、左遷された。
二〇九三年六月二十六日
一ノ瀬さんと待ち合わせたのは、水口さんと課長がAさんと会う約束をした店と同じショッピングモールに入っているファーストフードのパスタ店だった。そこでランチを食べながら相談したんだ。
「顔を知られていないのはわたしだけだから、やっぱり、わたしひとりで入ったほうがいいと思います。その三人の写真ありますか」
「課長と水口の写真ならある」
田口さんは携帯をちょっと操作して一ノ瀬さんに渡した。わたしも見たことのある画像だ。
「今年の新年会の写真で、この真ん中に座っているのが課長。右隣でピースをしているのが水口。そっちの携帯に送っておく」
一ノ瀬さんは、自分の携帯を取り出し、画像を確認した。
「では、いちおう、こちらの携帯がとらえた音声と画像を田口さんのほうに送れるようにしておきます。けど、そちらはあまり期待しないでくださいね。不審がられないようにするほうを優先しますから」
そう言って、一ノ瀬さんは、水口さんたちの待ち合わせの時間より数分遅く店に入るタイミングで出かけて行った。
テーブルに置かれた田口さんの携帯を前にしばらく待っていると、着信が入り、パスタ店の店内の画像が映された。手に持っているので少し揺れているが、正面に映っている人物が拡大されると、水口さんだとわかった。その右隣にいるのは課長。向かい合わせに座って後ろ姿だけ映っている女性がAさんだろう。
くるくるカールした髪の右半分は赤茶色。左半分は金茶色で、ひとすじピンクのメッシュが入っている。いま流行りの左右非対称だが、最近まで会社勤めをしていた人にしては派手な髪型だ。
Aさんの容姿は知らないし、ざわざわした店内での話の内容も聞き取れないが、きんきん響く声音は、電話で聞いたことのあるAさんの声のような気がする。
『正面の男は水口に間違いない』と、田口さんが文字メールを送った。しばらくして、やはり文字メールで返信があった。
『ビミョー』
そのあとAさんの声がしばらく聞こえていたが、内容は聞き取れない。彼女が一方的にしゃべっているように思えるが、よくわからない。
しばらくしてAさんたち三人が立ち上がり、店を出ていくのがわかった。
『心配するほどのことはないと思う。そっちの店の前で落ち合うのでいい?』
『では店の横の駐車場で』
そんなメールのやりとりのあと、駐車場で待っていると、まもなく一ノ瀬さんが戻ってきた。田口さんが運転する社用車の後部座席に、わたしと一ノ瀬さんが並んで座った。
「Aさんはたぶん『押す人』だと思うけど、力はそれほど強くはないですね。そもそも、Bさんって人やそのおにいさんも、天野さんも操れなかったのだし」
言われてみれば、たしかにそうだ。Aさんがもし強力な超能力みたいな力をもっていたとすれば、わたしはとっくに操られていたことだろう。いくらわたしが押されにくいタイプの人間だったとしても。
「それに、Aさんには、《押す》力を利用してだいそれた悪事を働こうとか、大きな権力を手に入れようとか、そういう野望はなさそうですね。関心があるのは、気に食わない人間をひどい目に遭わせたいとか、ちょっと得をしたいとか、玉の輿に乗りたいとか、まあそういうような小市民的な欲望の充足です。迷惑する人はいるでしょうけど、まあ、よくあるレベルです」
「いじめっ子タイプだけど、テロリストというわけじゃないって感じ?」
たずねると、一ノ瀬さんが頷いた。
「そう。そういう感じ」
「そうはいっても、うちの課長や水口がAさんに操られてBさんに迷惑をかけそうなら、止めなきゃならんのだが」
田口さんの心配ももっともだ。課長まで水口さんのようになってしまったら、Bさんの実名の入ったAさんのカプセルをそのまま採用してBさんのカプセルを却下するとか、そういうことを課長権限でやってしまいそうだ。
「少なくとも課長さんのほうは大丈夫でしょうね。Aさんにほとんど押されてはいないと思います。課長さんは課長さんで、頭の中は、今度のボーナスのこととか、出世競争のこととか、いま高校生の息子さんの進学問題とか、そういうので頭がいっぱいで、AさんとBさんの争いが入る余地はほとんどなくて、めんどうとか、かかわりたくないという気持ちが強いみたいでしたから」
「なるほど。課長のそういう無関心さを押し切るほどの力は、Aさんにはないのだな」
「そういうことです。たぶん。今後のことは、絶対にとは言い切れないのですが、まあ、今の段階では、たぶん大丈夫です」
「そうか。では、水口や課長の動きには今後も気をつけるが、あまり神経質にならないようにするよ」
「ええ。まんいち、なにかまずい方向にいきそうなことがあったら、相談してください」
「うん。そうするよ」
田口さんはほっとした表情で頷いた。わたしもほっとした。殺人事件だの陰謀だの、そういうのにはもう関わり合いになりたくはない。また大事件かと意気込んでいたから、ちょっと拍子抜けではあるけれど。とりあえずは一件落着かな。