9 ムーア大森林の魔物2
ムーア大森林に入って十分ほどしか経っていないが、既にそこは人の住む世界ではない。やはり異世界。植生も何もかもが前世とは大違いである。
一面に生える苔により、世界は緑一色。人の手が入っていないどころかほぼ前人未到の地に整備された歩道などあるはずもなく、苔の生える岩場を乗り越え、藪を掻き分け、木々の間をすり抜け、獣道ですらないなかを進む。
その生い茂った木々の葉によって直射日光が当たらないことだけは不幸中の幸いだった。
霧を初めとした適当な何かに変身すれば簡単に森の中を進めるのだろうが、変身していたら魔物に襲われない可能性がある。野性動物は生息しているようなので、件の魔物が動くもの全てを狩りの対象としている可能性は少ない。
やはり一度は魔物の姿を見てみたいため、あまり好まれた状況ではないが自分の足で歩くしかない━━━━━
「空気が変わったな。おそらくここら辺からが魔物の領域、か‥‥‥」
それはチョロチョロと流れる小川を渡った頃だった。岩から岩へ跳び移り、生えていた苔に足を滑らせて膝をついた時、明確に森の空気が変わったことに気がついた。
静寂の帳が下りていることに変わりはない。だが、空気が張りつめ、気温も数度下が━━━
「シッッ━━━」
突然背後から感じた殺気に似た気配に、咄嗟に振り向き様に裏拳を叩き込むと、俺の拳に衝撃が走る。それは、俺の拳が何かを捉えた証拠だ。
何かが現れた方向に振り返りつつ数歩下がって距離を取り、血の剣を五本ほど周囲に浮遊させる。
揺れる茂みの中に敵がいるのだろう。
手刀を作って腕を掲げれば、空を向いていた血の剣の切っ先が一糸乱れぬ統率された動きで茂みを向き、
「刺し示せ、血剣の断罪」
五つの軌跡が一瞬にして茂みを貫く。無慈悲な血の剣による一撃は何かを貫き、鈍い音を奏でて制止する。
俺は姿を拝もうと、指先を動かしてその何かを貫いたまま宙に浮かび上がらせる━━━が、そこには何もいない。ただ、五つの剣が交差しているのみだ。
逃げられたわけではない。俺の剣は確かに茂みの中の敵をとらえていた。
「可能性としては殺られて消えたってのが一番だな。となると、こいつらは魔物ではなくスキルによるものである可能性が高いのか。ますます【龍種】さんに会わなくちゃな」
スキルによる人為的な魔物であるならば、その首魁を手中に納めれば万事解決だ。この広い山地からたった一人を見つけるのは至難を極める‥‥‥が、大きなコストを払えば不可能というほどでもない。
人頭サイズの血球がシャボン玉のように宙に浮遊する。その球は次々に分裂していき、小さな球になってはその姿を蝙蝠に変えていく━━それは血の眷属━━━。
「さあ眷属共。【龍種】を探せ」
血によって生まれた眷属達が一斉に羽ばたいて彼方へと消える。その数、およそ一万。
戦闘に使うであろう血のストックを残したうえで、俺の使える血の限界まで使った。
また、この眷属達は使い捨てであり、使った血は返ってくることがない。どう考えても赤字である。
「まあ、その分の仕事はしてくれるんだけどな」
既に俺の脳内には一万羽の蝙蝠達の視覚情報が入り込んできている。そこには、先程俺が目で見ることが叶わなかった件の魔物の姿もあった。
その姿は俺の想像していた気味の悪い魔物そのもので、竹節虫のように細長い手足を持った影法師のような姿をしている。間違っても夜中には会いたくない見た目である。
蝙蝠に攻撃能力はなく敵を見つけても放置だ。その代わり、広範囲の索敵に長けている。勿論万能というわけではなくそれなりの血のストックを使わされるのだが、この大森林から一つの対処物を探すのだから致し方ないというべきだろう。
眷属が見つかるまでの間は暇潰しだ。釣りでもしようかと思ったが川には魚が泳いでいなかった。昼寝は魔物が襲ってくる危険性があるためできず、仕方がないので奥地に向かって足を進めた。
眷属の一匹から発見の知らせが届いたのは、それから数時間後のこと。発見場所は運よくその時いた場所から程近く、俺は即座にその地点に向かった。
ティナもそうだったが、【龍種】というのは暗い場所を好むのか、その【龍種】もまた洞穴の中にいるらしい。
大きく切り立った崖の中腹にぽっかりと大きな口を開けた、見上げるほど大きな洞穴の入り口。
俺は警戒を強めながらその洞穴へと足を踏み入れた。
◇◆◇◆◇◆
洞穴の中がダンジョンになっていることを覚悟していたのだが、その洞穴は特にそのような気配もなく、すぐに大きな空間へたどり着いた。
そして、そこには大きな影がある。
「誰だ」
ティナの声とはまた違う、体を直接振動させるような低く響く声。その声には濃密な殺気が乗せられており、意思の弱い者なら勝手に体が死んだと判断してしまう程だろう。
「誰だ、とはまた無粋な問いだな。いや、そもそも人に名前を訪ねる時には、先に自分が名乗るのが礼儀じゃないのか? ドライグリーラちゃん?」
名: ドライグリーラ
種: 龍種
族: 黒影族
年齢: 15789歳
ドライグリーラはティナよりも一回り小柄で全身を黒々と光る黒鱗に覆われている。その鱗には部分的に赤黒いタトゥーのような紋様が入っており、非常に邪悪なオーラを醸し出していた。蝙蝠のそれに酷似した漆黒の翼は、翼膜に所々穴が開いており、更に邪悪さを醸し出している。
紅い瞳は炯々と輝き、頭部には二本の漆黒の角が隆起している。
人目見てコメントするなら、『邪龍』の一言に尽きる。
全身を棘で覆われているが、腕や足は細いことからパワータイプではなく、影法師等を使う魔力タイプであることが推測される。先端に棘が密集している細長い尾も鞭のようにしならせて使ってくるのかもしれない。
俺の眼には名前や種族だけでなく所持しているスキルまで全てが映りこむ。そのスキルを一つ一つ見定め、どのような戦闘スタイルかを予測し、これから起こるであろう戦闘での対策を考える。
「ちゃん、か‥‥‥。その呼び方は久しいな。いや、そもそもヒトであるお前が私の性別を理解したことが驚きだが‥‥‥」
「確かにそうだな。声や見た目で判断するのははっきり言って不可能だ。が、名前が分かるなら話は別だ。【龍種】の六大氏族の中にドライグ氏があったと記憶しているから、『ドライグ』が氏で『リーラ』が名だと推測できる。そして、リーラは女の名前だろう?」
まだダンジョンにいたとき、ティナとそんな話をしたことがある、ちなみに、ティナはティゼル氏族のレオナだ。
「詳しいのだな。いかにも、私は偉大なるドライグ氏族のリーラである。私も名乗ったのだ。お前の名も聞かせてもらおうか」
ドライグリーラがその漆黒の首をもたげ、俺を試すかのように睨みつけてくる。確かにその威圧は凄まじいが、ティナという前例を一万年も体感し続けてきた俺にとってはそよ風に当てられているかのようだ。
せっかく威圧してきてくれている彼女には勿体無いが、微塵も恐怖が湧くことはない。
「俺はアリスだ。一言で言おうドライグリーラよ。俺に従え。俺と共に世界を支配してみようぞ」
「世界を支配?」
聞き返す彼女の声音には嘲笑が混ざっている。彼女からしてみれば、突然現れた矮小な存在が自分を従えるだの世界を支配するだのとほざいているのだ。
自分で言っていても嗤われてもおかしくないと思うほどだ。
「面白い冗談だ。センスはないが悪くはなかったぞ。さあ、消えろ。私を嗤わせた褒美に生かしておいてやる」
ティナの時も思ったが、【龍種】ってのは意外と慈悲深い生物なのだと思う。
まあ、ふと思っただけで、実際にはそんな話はどうでもいいのだが‥‥‥。
「いや、お前は勘違いをしてるぞ」
「どういう意味だ?」
「俺はこの山の持ち主で、お前の放ってる影法師が邪魔だと考えてここに来た。でも、戦うのが面倒だったし、いたのは雌だったからな。フェミニスト的思考で『俺がお前を生かしてやる』という意味で従えと言ったんだ。そこを勘違いするな。いいか? これは楽しいお喋りじゃねえ。お前が消えるか俺に頭を垂れるか。議論の芯はそこにあるんだよ」
俺は臆することなく、ピッと血の矢を放った。その矢は瞬く間にドライグリーラに迫り、その頬を掠めて一筋の線を作る。
鱗にできた傷に滲み始める血を見たドライグリーラがスッと目を細めた。
「怖いなら逃げろよ。俺が欲しい駒は使える強い駒だけだ」
「その挑発確かに受け取ったぞ。良かろう。死んで後悔するが良いわ」