8 ムーア大森林の魔物
「違いますぞ。そこはこうしてこうするのです」
「はいはい」
「また間違ってます。ここはもう少し跳ねてください。花押くらいサラサラと書けるようになってもらわないと困りますよ」
「はいはい」
「ここ、修正をお願いします」
「‥‥‥はいはい」
「ククク」
「では、追加の書類が百枚ほど。全てに目を通してサインを━━━」
「ああもう、うるせぇッ!!」
バレムントを雇ってからというもの、毎日毎日この調子で我慢の限界に達した。しかし、俺の放つちゃぶ台ならぬ執務机返しによる改心の一撃を、バレムントは軽々と避け、散らばった書類を纏めていく。
「ほれ、そう癇癪を起こすでない。それも紛れもなく貴族の仕事じゃろうて」
「殿、ティゼルレオナ殿の言うとおりですぞ。これも大切なお役目なのです」
わかってはいる。心ではわかってはいるのだ。だが、毎日機械のようにひたすらサインをする生活には嫌気がさしてくるというのは事実だ。
苛立ちに身を任せて髪の毛を掻き乱し、窓を開けて外の空気を吸う。
バレムントは小言は多いし主使いも荒いが、彼が来てからというもの仕官の申し込みが急激に増えた。バレムントが俺に仕えたという事実が、前領主の悪評を払拭した結果である。
特に、バレムントの部下であった内政官達が帰って来たことは非常に大きな意味を持つ。ザクスフォード家は衰えても伝統貴族であるため、譜代の家臣が多かったことも一つの要因だろう。
良くも悪くも、バレムントの気質は良民の誰もが知るところであったらしい。
窓から臨める領主邸の門。その前に立つ門番が見られるのも、バレムントのお陰であるのだ。
「おいティナ」
「何じゃ」
「話が変わったついでに聞くが、あの件はどうなってる?」
「ん? 私は聞いておりませんぞ。あの件、とは?」
「パーレがおらぬ頃にアリスと領地経営について色々と画策しての。あの広大な山を開発すればいいのではという結論に至ったのじゃ。もしかしたら鉱山が見つかるやもしれぬし、木を売るだけでも儲けが出るじゃろう?」
「山、とは領内西部のムーア大森林のことですかな?」
「確か、そのような名じゃったか」
バレムントが何やら考え込む仕草を見せる。雰囲気から察するに、バレムントは森が未開発の理由を知っている。そのうえで、何かしらの件について悩んでいるのだろう。
この状況は俺にとっては好都合だ。場合によってはデスクワーク地獄から逃れられるかもしれないため、まずは援護射撃を試みる。
「お前、何か知ってるな? 話せ」
俺の口調が変わり、真剣な気配が漂ったのを逸早く察したバレムントが、表情を固くして地図を広げた。そして、森の中央付近を指差す。
「ムーア大森林は未開発の広大な土地です。一度も人の手が入っておらず、見上げるほどの背丈の木々が鬱蒼と生い茂っております。未開発の広大な森、しかもそこを開発し放題となれば貴族にとっては垂涎の的以外の何物でもありません。ですが、この森を手にして百年以上経ちますが所有権を巡って争ったことは一度もありません」
「勿体ぶるな。早く理由を言え」
「ははっ。端的に申し上げまして、この森に人が入ると、正体不明の魔物に襲われるのです」
「正体不明?」
「はい。この魔物に会ったものの大半が帰ってきておりませんので詳しい情報はありません。ですが生きて帰った者は皆口を揃えてこう言うそうです。『人影のような不気味な化け物だった』と」
人型の黒い魔物ということだろうか。つまりムーア大森林はその魔物の巣窟であり、人が入れば生きて帰れないから開発が進んでいないというわけだ。
どうやらハミルトン領は貧乏くじを引いているらしい。
「ククク。読めたぞ」
どうしたものかと悩んでいると、突然ティナが笑い始めた。
彼女は俺とバレムントの視線を浴びながらソファーから立ち上がると、地図の前に立って得意気に森林奥地の山を指を指す。
「この山には同族がおるな」
ティナの言い方からして適当なことを言ったわけではなさそうだ。
当たっているか否かは別として、彼女には何かしらの根拠があると見て間違いない。そう考えたのはバレムントも同じだったらしく、恐ろしく厳粛な顔でティナに食らいついた。
「その根拠は?」
「ほぼ勘に近いが、ここ最近同族の気配を感じておったし、この山におるとみて間違いはなかろう。我等【龍種】にとってこの山から出る高濃度の魔力は大好物じゃ」
「ティナ。それは解決策になるのか?」
「それは分からぬ。じゃが、其奴に聞いてみれば何か分かるやも知れんじゃろ? ここで手を拱いているよりは堅実的な方法じゃろうて」
ティナの言うとおりだ。何かしらの行動を起こさずして利益を得ることはできない。
であればやることは一つだ。
「俺が行ってこよう。良い気晴らしになる。なんなら首輪を付けて引っ張ってきてやる。【龍種】なら駒としても十分だ」
俺はそう言い残して部屋を出た。
背後でバレムントが色々と騒いでいたが完全に無視し、デスクワークから逃れるための口実に必死で食らいついたのだ。ここで立ち止まってティナが行くような流れになってしまえば、俺は再び書類とにらめっこしなければならなくなる。それだけは何としても御免だ。
「まあ、たまには体を動かしておかないと鈍るってことで納得してもらうしかないな」
◇◆◇◆◇◆
「‥‥‥行ってしまわれましたな」
「アリスめ。よほど机仕事に嫌気がさしてたようじゃな」
「ですがね。これも大切な仕事なのですよ」
好物の林檎を齧りながら品もなく濶達に笑うティナにバレムントが抗議する。
千年間の付き合いであるからこそティナは分かっているのだ。アリスが飽きっぽい性格であることを。
まあ、それを含めてアリスの良いところじゃからな、と再び笑い声をあげるティナに対して、いよいよバレムントは抗議の無意味さを理解し、大きな溜め息を溢した。
「で、殿に任せておいて大丈夫なのですか? 相手は【龍種】なのですよ?」
バレムントの心配は尤もだ。【龍種】が個として最強であるのは子供ですら知っている常識である。
しかし、ティナの顔から余裕が崩れることはない。
何故なら━━━━
「アリスはこの妾と互角に渡り合う唯一の存在。其処らの同族ごときが敵う相手ではないわ」
「そうですか。では、我々も殿の仕事が成功すると仮定したうえで、今後のための仕事をするとしましょうか」
◇◆◇◆◇◆
目的のムーア大森林の側にはミンスルという、人口三百人ほどの小さな村がある。
首魁を討伐するのであれば、ただ倒してしまうだけでは勿体無い。山登りに人探しという二つの苦労に見合うだけの対価を貰わなくては割りに合わないという話だ。
それに、今後の開発事業が滞りなく進むように布石を打つ必要もある。
「止まれ。見ない顔だが、流れの傭兵か?」
この世界の村や町というのは、魔物から町を守るために周囲を壁で囲んである。故に、町に入るには門を通過しなくてはならないというわけで、いつまで経っても克服できない不快な日光を遮断するための外套に頭まですっぽり覆われている怪しさ全開の俺を、門番の兵士が警戒心と共に呼び止めるのもおかしな話ではない。
俺は外套のフードを下ろして顔を見せる。賢いやつなら俺が【吸血族】だということに気づくだろうから、外套の理由については言葉にせずとも察してくれる筈だ。
「あぁ、【吸血族】だったのか。これは失礼した。それで、流れの傭兵なのか?」
「いや、俺はアリス。ハミルトン男爵領主、アリス=ド=ザクスフォード=ハミルトンだ。ムーア大森林の魔物の件について話があるから、至急村長に取り次いでくれ」
「‥‥‥へ?」
俺の名乗りに、門番は魂が抜けたような表情のまま数秒固まった。そして、新領主が【吸血族】だという話でも思い出したのか、俺の言葉の意味を徐々に脳が理解し始め、そして平伏して無礼を詫びたあと、すぐに俺を連れて村長の家へと向かった。
その村長もまた、まさか俺が従者の一人も連れず直々に訪ねてくるとは思ってもみなかったようで、鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔で、家から転がり出てきて、そのまま何度も頭を下げながら俺を家の中へと案内した。
「お初にお目にかかります領主様。私はこのミンスル村の村長を務めさせていただいております、オーラルクと申します。本日は、このようなみすぼらしい村に如何なるご用件でしょうか」
初老にかかるオーラルクは頬が痩け、体の線も細い。村も寂れていることから、非常に貧しい生活を送っているのだろう。
少なくとも、村人は飢えに苦しむ中、村長だけが私腹を肥やしてぶくぶくと贅肉を蓄えているわけではなさそうだ。
「門番にも言ったが、ムーア大森林のことについて話を聞きに来たのだ」
俺は山に潜んでいる【龍種】については、殺すのではなく駒として飼うつもりであるため、敢えて【龍種】の仕業である可能性があるという話はしない。
あくまでも話を聞きに来たのであって、おおよその検討はついているのかもしれないが詳しくは知らない、という体を装うのだ。
「バレムントには、森に入ると人影のような魔物に襲われると聞いた。だが、今後ハミルトン領を発展させていくには、この森の開発は必須。それに、ミンスルの村人も、村の側にそのような危険な魔物が居座っているとなると不安なこともあるだろう? 俺は今日、この森の魔物を駆逐するつもりだ。何か情報があれば、どんな些細なことでもいいから教えてほしい」
オーラルクの心を掴むように、抑揚を付けて演説するように問いかける。また、領地開発だけでなく村人のことを考えていると話すことで、自分達のことを気遣ってくれているという意識を芽生えさせ、俺への期待と感謝を煽る。
俺の真剣な眼差しと言葉はオーラルクの心を掴み、彼はおいおいと声をあげて号泣しながら平伏した。
結果として、やはり森のすぐ隣の村というだけあって、幾つかの生の情報を得ることができた。
一つ、魔物は森に入ってすぐに現れるのではなく、一時間ほど進めば現れる。
二つ、一人で薬草摘みや狩りに行っても出くわす可能性は少ないが、複数人の場合は森に入ってすぐの地点でも出くわす可能性が高い。
三つ、魔物は全身漆黒の人型で大きさも人間とほぼ同じであるが、のっぺらぼうで体の線は枝のように細い。そして、音もなく近寄ってきていつの間にかすぐ側にまで接近されている。
重要そうな情報を三つピックアップしたが、話を聞く限りでは身の毛もよだつ恐ろしさである。
これならば、スケルトンやゾンビの方が幾分か気持ちが楽な気すらしてくる。
まずは森の【龍種】に話を聞いてみなければ何も始まらない。ムーア大森林の開発は必須なのだから、ここでまだ見ぬ敵に臆しているわけにはいかないのだ。
「ほ、本当にお一人で大丈夫なのでしょうか。領主様に万が一のことがあれば‥‥‥」
「安心しろ。こう見えても俺は強いからな。なに、すぐに奴等を駆逐して、首魁がいるからそいつの首を持ってきてやるさ」
心配に俺を見つめる村長の後ろには、いつの間にか村人達が集まってきている。これで、俺が解決した暁には俺の名声が広まること間違いなしだろう。
今度の領主は金のことだけではなく自分達領民のことを考えてくれて、邸宅でふんぞり返っているだけではなく自ら足を運んでくれる、と。
俺は頼もしくニカッと笑うと、そのまま村を後にして、未開の森の中へと踏み込んだ。