16 過ぎ去った日々
強い衝撃が頬に走る。視界に移ったのは、眼を真っ赤にして激昂したティナの姿。
「━━━ッッ」
俺の頬に炸裂したティナの平手打ちの痛みに呻き、頬に手を当てる。すると、シューッという音と共に頬の手の平の間から煙が上がり、手の平にかさつく何かの感触が生まれる。
不思議に思って手の平を見ると、それは灰だった。平手打ちの際に頬を掠めたティナの爪による傷に合わせて、俺の頬の肉が灰となって削れている。
レインの忠告を思い出してハッとした。そう、ティナは【龍種】の【白銀族】。人の姿を取ろうとも、その爪は白銀。
ここはダンジョンではなく大聖堂の一室。当然部屋にはガラス窓もあるわけで、直射ではないが日光が差し込む明るい場所だ。
もしティナの鋭い一撃を受けたとしたら、俺は果たして生きていられるのだろうか。
悔しいがその可能性は低いと言わざるを得ない。つまり、俺は命の危機にあったということだ。
「‥‥‥ティゼルレオナ。貴様、いったいどういうつもりだ?」
自分でも驚くほど低い声が出た。瞳孔が開き、血紅色の瞳がどす黒い色に染まっていくのがわかる。
だが俺の殺意に臆することなく、ティナは俺の瞳を見据えて睨み返す。
「半年じゃ」
俺の胸ぐらをティナが掴み上げた。ティナの腕力に敵う筈もなく俺の踵は床を離れる。
「半年じゃ」
「何が言いたい」
「半年も何処に行っておったと言っておるのじゃ」
「‥‥‥‥はぁ?」
ティナが突如口にした言葉。その意味を理解するのに数秒の時間を必要としてしまい、理解した直後に間抜けな言葉が口から溢れた。
それほどまでに彼女の放った言葉は驚き以外の何物でもなかった。
ブワッと全身の毛穴から空気が入り込むような悪寒がして、頬を嫌な汗が伝った。背中も冷や汗でぐっしょりと濡れているだろう。
「嘘だろ、オイ」
そう口にしたのはまだ脳が完全には理解しきれていなかったからか。はたまた、理解することを是としなかったからか。
半月ではなく半年。その差は文字だけを見ても歴然だが、実際はそれよりも深刻だ。
ティナに胸ぐらを掴み上げられていることなど忘れて即座に思考を巡らせる。
「あのクソアマが。半年だと‥‥‥浦島じゃねえんだよこっちは」
話が弾んだことは確かだが半年も話し込んでいた記憶はない。つまり、あの空間とこの世界とでは時間の流れ方が大きく異なっていたということである。
悪態をつく前に頭を抱えたくなるがそうはいかないのが現実だ。すぐに思考の世界から戻り、俺を睨み付けて離さないティナの腕を無理矢理振りほどく。
「倪下はおいでか?」
「ここにおりますぞ」
忘れてはいけないがここは伯爵の執務室だ。迷惑をかけることはできない。いや、現時点で大きな迷惑をかけているのだろうから、これ以上迷惑をかけて頭が上がらなくなる状況になることだけは避けなくてはならない。
長く垂れ下がった真っ白な顎髭を扱きながら軽快に笑う伯爵の前に向かい、俺は彼に掴みかかる勢いで問いかける。
「あの時、私はどうなったのですか?」
「そうですな。あの時、卿は創造神像の前に跪いた直後に姿を消されました。私はてっきり神界に行かれたのだと思っておりましたが‥‥‥思ったよりも長居されたようで」
「ハミルトン領から王都は往復だけでも一月かかる。最初の一月は何も思っておらんかった。何の知らせもないまま二月も経てば不思議に思った。三月経つ前に王都から行方不明の知らせが届けば、いよいよ黙って待ってもいられんようになって、急いで王都へとやって来たというわけじゃ。教会に監禁されたのではないかとも疑ったのじゃが、伯爵は神界に行ったっきり帰ってこないと言うではないか。嘘を言っておるようには見えぬし、神界との連絡などできる筈もなく、ただ待つだけの日々が六月も続いたわ。何か申し開きはあるか」
ティナの怒る理由はわかった。俺もティナと同じ立場なら怒鳴るし手も上げるだろう。
だが、俺だけが悪いわけではないため黙って謝っているわけにもいかない。
「ヴェルディと会って、レインがやって来て、そのあと少し話し込んだがそれでも俺は数時間ほどしかいなかった筈。時間の流れが違うことを知らなかっただけだ。半年間もの間に迷惑をかけたことは謝る。特に伯爵に対してはどうお詫びしてよいものやら」
「ほほほ。お気になさらず。これも神のお導きなれば」
笑いながら気にするなと言う伯爵だが、実際のところは大きな借りを作った形になる。暫く、俺は伯爵に対して頭が上がらなくなるだろう。
本当に、最悪としか言いようがない事態になった。どうしてくれると言うのだ‥‥‥‥。
「まあまあ、お二方。まずはそこにお座りになって落ち着かれてはどうですかな。今、茶を入れさせますのでな」
「あ、いやはや、忝ない」
ソファーに座って落ち着こうとするも落ち着ける筈がない。やり場のない怒りや焦りを髪の毛をガシガシと掻きむしることで発散し、大きく深呼吸してから暫く眼を閉じて瞑想する。
修道女が入れた紅茶がテーブルに置かれ、それを口に含んで眼を開ける。
まだ落ち着いたとは言えないが、最初よりは断然マシだ。今はまず、現状の確認からだ。
「落ち着きました。先ほどの無礼をお許しください」
「突然半年が経ったと言われれば慌てもするでしょう。お気になさらずという言葉で納得できないのであれば、ここは不問としておきますと言い換えましょう」
「感謝のしようも御座いません。このお詫びは必ず」
「ほほほ。それは楽しみにしておきます」
嗚呼、最悪だ。
この場はこう言うしかなかったが詫びをするという言質を取られた。もう完全に俺の敗けだ。
そう、俺が敗けたという事実は変わらない。であるとすれば、ここから俺にできることは、少しでも俺が利益を得られるようにするだけ━━━━上手く敗けられるようにするだけだ。
「お手柔らかにと言いたいところですが、小物な私は倪下にどのようなお願いをされるか恐ろしくて昼も眠れなさそうです。もしよろしければ、おまけとしてこの半年で何があったかお教え頂けないでしょうか」
「ほほほ。言われずともこれからお話するつもりでしたぞ。なぜなら、この半年で国が大きく動きましたからな」
「‥‥‥何ですって?」
「三月ほど前、隣国のバルキス王国軍五万が越境しました」
「はぁ!?」
思わずそんな声を出して身を乗り出してしまう。慌てて謝罪して体を引っ込めたが、自然と貧乏揺すりが始まってしまう。
バルキス王国はフェルメノス王国の北西部━━━つまりハミルトン領のちょうど真上にある友好国だ。大陸で見れば中堅に値する国家で、国土や人口はフェルメノス王国の半分もないといったところ。
西部の北面は大領主であるブルガリオ辺境伯ペンデル家の所領で、バルキス王国と接する全ての面を守っているが、その所領は東西に長いだけで南北には広くない。
ハミルトン領は西部の北西の端に位置し、領境を接した真上にブルガリオ辺境伯領がある。だが、領境から馬で二日もない距離に国境があるのだ。それはハミルトン領とバルキス王国はほぼお隣さんと言っても問題ないということだ。
「ティナ。ハミルトン領はどうなった」
「彼奴らの侵攻はハミルトン領まで届いたが、ブルガリオ辺境伯軍と共同してことにあたった故に被害は出ておらん。妾は既に王都におった故、後日知った形になるが、発見が早かったこともあって対応もできたようじゃ。パーレとデヴィエルを後で誉めてやることじゃ。両者とも良くやったと聞いておる。特にデヴィエル率いる我が軍は倍の数の敵を撃破したと聞いておる」
デヴィエルと約束した三月はとうに過ぎているため軍は完成していたということか。しかも倍の敵を撃破するほどの練兵まで‥‥‥褒美をやらなくてはならないな。
「ハミルトン男爵軍の噂は私の耳にも届いておりますぞ。ブルガリオ辺境伯も感心なさっておいでだったとか」
「それで、バルキス王国はどうなったのですか?」
「ティゼルレオナ殿がおっしゃった通り、バルキス王国が友好国であったがために、突然の侵攻に対応が遅れたものの、西部の諸侯軍と駆けつけた王国軍により大きな被害は出ませんでした」
それは良かった、と言うべきなのだろうか。
「ですが、バルキス王国とは百年以上の繋がりのある友好国。彼の国の有事には援軍を出したことさえあります。にも関わらずこの仕打ちと国王陛下は大層お怒りになり、一月前に全貴族を召集し、攻勢計画を下知なされました」
「攻勢計画ですか‥‥‥」
「ええ。これは私の憶測なのですが、おそらく陛下はバルキス王国を併合するおつもりなのでしょう」
「見せしめも含めてということですか」
「おそらくは。国境の接する他の友好国へ圧力をかけることは間違った判断ではありませんからな」
友好国に敵国と区別すれば聞こえはいいが、結局は理解し合えないから隣国なのだ。勿論、全方位に戦線を抱えるのは不利に働くため友好を結ぶことが間違いとは言わないが決して信用しきっていいものではない。ましてや、それにすがるなど言語道断だ。
「全貴族召集時には妾が代理として城へ行った。【龍種】の存在を周知するのと同時に、教会からヴェルディ様の使徒であるということを発表し、マレンディにヴェルディ神殿を建てることを約束した。国王にも神界に行っておると伝えておる。伯爵にも世話になった。男爵ごときの代官と聖教会の枢機卿の言葉では重みが違うからの」
「それで、侵攻はいつからなのでしょうか」
「今日から二月も経たぬうちに下知が下ることでしょう。今は諸侯軍が次々にブルガリオ辺境伯領に終結しております。卿も早く参られた方が良いでしょうな」
「そうしましょう。また戦争が終わり次第伺います。これからもどうぞよしなに」
「ほほほ。ここ王都より活躍を期待しておりますぞ」
俺はティナを引き連れて大聖堂を後にした。
◇◆◇◆◇◆
アリスが立ち去った部屋の中で、ラーデルハルト伯爵は紅茶を啜っていた。
「この王国が大きく動く時、あの男もまた現れた。これが神のお導きであるならば、見極めねばなるまい。そしていつか━━━━」
伯爵は独白と共に壁に掛けられた小さなヴェルディ像を見つめる。
その顔は、伯爵の独白を肯定するかのように、柔らかな微笑を浮かべていた。