10 黒龍
ムーア山地をムーア大森林に変更しました。
黒龍の咆哮を合図に彼女の周囲から夥しい数の影法師が出現する。数えきれたものではないが、その優位性は数だけでは無さそうだ。通常の人型個体だけでなく、蜥蜴型、獣型などの姿も確認できた。
俺は舌打ちをして宙に飛び、右手を上げて血液を練る。
「降り注げ、血の狂雨」
十五センチほどの小さな棘が無数に降り注ぐ中、俺は霧となって黒龍に肉薄し、姿を戻してうなじを血の剣で斬りつける。
その一閃は黒龍の堅牢な鎧をいとも簡単に斬り裂き、鮮やかな鮮血を迸らせる。
己の鱗が易々と斬り裂かれるとは思っていなかったのか、苦悶に呻きながら再び咆哮を上げた黒龍は、俺を仕留めるべく爪を振るう。
鋭利な影を纏う一撃が俺の肩口に迫るが━━━━
「遅いぞ、黒蜥蜴」
見えている攻撃には対応可能だ。黒龍の一撃は霧となった俺の体をすり抜けて宙を切り裂いただけ。
黒龍は渾身の一撃を放ったためそれが空振りに終われば俺の目の前には無防備な右肩が晒される。そこを狙って一撃を与えようと、人の姿に戻ったところで黒龍の瞳が怪しげに光る。
その直後に鞭のように黒龍の尾がしなり、棘々しい尾が俺の顔面を吹き飛ばすべく接近する。
「足元がお留守だ。『岩牙剛剣』」
変身中は<血液魔法>が使えないことを見抜き、人型に戻った直後を狙ったのは称賛に値する━━━が、攻撃速度が遅いうえに、攻撃する前に瞳を光らせたのはまだまだ甘いと言わざるを得ない。
戦闘中は敵に攻撃を予想されないよう、常に無心が原則だ。表情や癖で一手先を見抜かれた瞬間が死を意味する。
巨大な稲妻のような形容の剣が黒龍直下の大地から隆起する。咄嗟に身を捩るが時既に遅く、即死こそ避けたものの剣の切っ先は黒龍の腹を大きく抉り、大量の鮮血を吐きながら黒龍が大地に転がる。
俺の追撃を防ぐために影による攻撃を放ってくるが、致命傷を負った黒龍にまともな魔力操作ができるはずもなく、容易に避けられる粗末な攻撃が数発飛んでくるのみ。
「断罪せよ、血の粛清」
金属と金属をぶつかり合わせたようなキーンという甲高い音が鳴り響き、洞窟という閉鎖された空間を揺らした。震える空気が暫くの間鼓膜を揺らし続け、音が鳴って時間差を置いて、黒龍の左角が地に落ちて転がった。
角は【龍種】の誇り‥‥‥転げた左角と共に全てが崩れ落ちたのか、腹を抉られてなお俺に向けていた殺意が霧散した。
心から服従させるために角を折ったが、効果覿面だったようだ。
地面に降り立ち、体を伏せて膨大な血を流す黒龍に歩みより、その傷を癒す。
結局最後まで俺が圧倒し続けたが、俺は彼女は使える駒だと判断した。彼女の敗因、それは相手が俺だったからに他ならない。
これは傲慢ではない。
忘れてはならないが、俺は数百年もの間、ティナを倒すべく力を付けてきたのだ。ティナの攻撃から身を守り、ティナの鱗を裂く攻撃を学んだ俺は、もはや対龍種戦に特化していると言っても過言ではない。
最初のボロ負けの悔しさをバネにした俺の数百年の努力の勝ちだったというわけだ。
自分の傷が癒されていくことに驚いたドライグリーラが俺を見る。折った角は治らないが、腹の傷は時間をかければ完治する。
「再び問う。服従か、死か」
ここまでしてやって死を選ぶならこいつの器はそれまでだったということで、つまり俺の欲する駒ではなかったということだ。その時は諦めて、こいつの首を斬り落とし、魔物の首魁として市中に晒し、俺の名声の足しにするまでだ。
ドライグリーラは一瞬だけ逡巡するように瞳を泳がせたが、覚悟を決めたように静かに目を閉じ、人の姿を取った。
人に変身する際に生じた光が収まると、そこには一人の美少女がいた。
鱗と同じ漆黒の髪が腰まで伸び、その髪とは対照的な白磁の肌。胸は控えめだが、美しい線を描く体は引き締まっており、髪の色も相まって大和撫子を彷彿とさせられる。
ドライグリーラが跪き、角、翼、尾を見せて服従の意を示す。半ばで欠けた左角の美しい断面を見て心の中で満足げにほくそ笑みながら、彼女の口上を聞く。
「我は、【龍種】。【黒影族】が一柱、ドライグリーラ。御身に永遠の服従を希い奉ります」
「我は【魔人種】。【吸血族】の【真祖】が一人、アリス=ド=ザクスフォード=ハミルトン。汝が服従を是とし、ここに汝を我が僕と認む。面を上げて立ち上がれ、ドライグリーラ改めドーラよ」
【龍種】の名前は長いため省略が基本だ。リーラでも良かったが、ティナと同じで最初と最後を取る形にしてみた。
というか、名前なんてものはどうでもいい。目の前にいる雌の血を啜りたくて仕方がない。
立ち上がったドーラに近づき、その肩をはだけさせる。長い髪を掻き上げ、艶かしい鎖骨が視界に入る。ティナの香りとはまた違う、金木犀のような香りがドーラの血の香りだ。
その匂いは忽ち俺の理性を吹き飛ばし、勢いよくその肌に犬歯を突き立てた。
「んあ、はぁん‥‥」
ジワリと血が滲むのと同時に、ドーラが官能的な吐息を漏らした。その鳴き声は俺の咥内に血が広がっていくにつれて甘さを増し、すぐに立てなくなったのか俺にしがみついてくる。
俺の首に回されたドーラの手が反射的に俺の服を掴み、くねくねと動かす腰つきが矢鱈と蠱惑的だ。
「あんッ、くぅ‥‥んん、いやぁ、んぁっ、らめぇ‥‥あッ、おかしくッ、んんぁッ」
矯声の混じる荒い息遣いのドーラが俺の耳元で切なげに限界を訴えるが、ドーラの美酒に酔いしれる俺にその声は通らない。
肩を跳ねさせ、断続的に体を痙攣させるドーラがその快楽から解放されたのは、それから数分後のこと。
座ることすらできずに地面に寝転がり、未だに余韻によって体を痙攣させるドーラを見下ろしながら、俺は美酒の後味を楽しむ。
やはり雌の、それも純潔の血液は非常に美味だ。生臭さなどは微塵もなく、香りだけでその味に酔いしれることができる。
一口含めば天上に昇り、数口飲めば意識を失う最高の美酒だ。
だが、いつまでもその味の余韻に浸っているわけにはいかない。
今日一日だけで、俺の血液のストックは殆ど失われてしまった。それは、今しがた吸った程度では補充できないほどであり、血液の補充が急務となる。
魔物の原因がいなくなったのだからこれからは開発ラッシュだ。人口が増えて税収も伸びるだろうが、その分俺の仕事も増える。
そもそも解決されていない問題はムーア大森林の魔物の件だけではない。この場で思い付くだけでも幾つもの課題が目白押しだ。選り取り見取りすぎて涙が出るほどだ。
だが最大の難を越えたことに間違いはない。フラフラと力無く立ち上がったドーラを急かすために尻を叩き、俺はミンスル村へと戻るべく崩壊寸前の洞穴を後にした。
◇◆◇◆◇◆
「おぉぉ、これが‥‥‥」
「こいつが魔物の首魁だ。この黒い化け物が他のを召喚していたらしい。だから、これからは森に入っても襲われることはないぞ。俺が保証する」
「それは、なんともまぁ‥‥夢みたいです」
その日、ミンスル村の中央広場に、魔物の首魁の躯が晒された。全長十五メートルもある漆黒の異形の亡骸は見るだけでもおぞましく背筋が凍る姿をしており、たとえ魂無き姿であると分かっていても、見た村人全てを恐怖に包み込んだ。
しかし、その恐怖はすぐに俺の英雄としての名声に変わる。
すぐにこの名声は各地へ伝わり、ムーア大森林は開発の一途を辿ることになるだろう。山ばかりで平地の少ないハミルトン領が平地を得るには、周囲の領主から切り取る以外にはこの森を開発していくしかないのだから━━━━。
「ま、上手くいってなによりだな」
「あのような木偶人形でよかったのか心配になりますが」
「材質は同じなんだ。あいつらには分からないさ」
ミンスル村からマレンディへの帰り道。俺は企みが成功したことにクククと悪い笑みを浮かべながら、ドーラの背中にしがみついていた。
当然、村に晒したのはドーラではなく偽物の影法師だ。それらしくなるように巨大な影法師をドーラに作らせ、俺が倒したように吹聴しただけだが、その身の毛のよだつ姿を見れば誰しもが信じることとなるだろう。
俺の名声が高まればそれだけ仕官したいという人材も増えることになるだろうし、森が開発されれば街ができ人口が増えて収入も上がる。
失った血のストックに見合うだけの報酬は時間こそかかるものの得られることだろう。
「さて、一汗かいたことだし、帰ったら昼寝でもしますかね━━━」
◇◆◇◆◇◆
━━━なんて呑気なことを考えていた時が俺にもありました。
机に縮こまって座る俺の眼前では、二人の修羅が対峙している。両者とも怒りに顔を歪ませ、互いを威嚇しながらキスでもするのではというほど顔を近づけてメンチを切っており、まさにこの場は修羅場そのもの。
「アリス。この雌を連れてきたのは如何なることじゃ」
「雌とは些か無礼が過ぎるのではレオナ。八千年ぶりくらいですね。で、貴女がどうしてここにいるのかしら」
「リーラよ。八千年で随分と舐めた口を効けるようになったものじゃのぉ。昔のように角をへし折って━━━━いや、既に左が短いように見えるが気のせいかの?」
「「あ"ぁ?」」
人の姿では聞いたことのない低い声を上げて互いの胸ぐらを掴みあげる。俺の存在は空気同然で、いつの間にかバレムントが消えていることに気付く。関係ない修羅場には巻き込まれたくなかったという意図が透けてみえるが、俺もこの場から逃げたくて仕方がない。
「アリス。再度聞くが、何故リーラを連れてきた。森で首を跳ねてやれば良かったものを」
「私は既にご主人様に服従を誓った身。所詮下僕の身である貴女にとやかく言われる筋合いはございませんわ。というか、貴女は少々ご主人様に向かって無礼が過ぎるのでは?」
「フンッ。妾は許しを得ておるのじゃ。アリスという名で呼んでもいいという権利もじゃぞ」
「‥‥‥‥」
スッとドーラの唇が紫色に染まり、ティナの瞳孔が開く。二人は人型なのだが、俺には二頭の龍が睨み合っている幻覚が見える。
もはや俺の手に追える状況ではないと思い、俺は霧となって修羅場から退散した。
消える間際に二人の怒声が聞こえた気がしたがどこ吹く風だ。
浮気した旦那みたいな空気になっていたが、俺はべつにどちらにも手を出していないのだから問題ない筈なのだから。
◇◆◇◆◇◆
アリスが去った執務室で、その後も二人の龍は暫く睨み合いを続けていたが、時間が経つにつれてその不毛さを理解し、溜め息を揃えて離れた。
「で、じゃ、リーラ。お前から見てアリスはどうじゃった?」
肩を回してコキコキと音を奏でるティナは、ソファーに深く腰を下ろして林檎を手に取るなり、立ったまま左角の断面を撫でていたリーラに話しかけた。
リーラは向かい合うソファーに座り、林檎を噛って咀嚼する。
「完敗でしたわ。手も足も出ませんでした。あれは、戦闘能力の有無以前に、【龍種】の動きを理解していないとできません」
そう言って左角を撫でるリーラを見て、ティナは心底可笑しそうに軽快に笑う。
「じゃろうな。アリスは何百年も妾と殺しあってきたのじゃぞ。妾との戦闘で【龍種】の動きを実戦で学んできたのじゃ。お前も弱くはないが、まあ相手が悪かったということじゃな」
「そうですか‥‥‥」
「何じゃ。何やら含むような言い方じゃの」
「いえ、数百年の付き合いなのに、ティナとは未だに関係が進んでいないのであれば、私にも脈があるなと思っただけですわ」
「んなっ!? ち、違うぞ。妾とアリスは殺しあっていたのじゃ。乳繰り合う暇などあるわけがなかろう」
「では、今は? 今も貴女とご主人様はいがみ合う仲なのですか?」
「むぐぐぐぐ」
「まあ、所詮はそう言うことですわ。ティナには悪いけれど、ご主人様は既に私のものですわ。私とご主人様の関係がどんどん進んでいくのを、貴女は指でも咥えて見ていればよくってよ。貴女次第で、できた子を抱かせて差し上げますわ」
「フンッ。どうじゃかな。お前の凹凸にかける貧相な体よりも、妾のようなグラマラスでアダルティな体の方がアリスも喜ぶに決まっておろう」
「‥‥‥デブ」
「何じゃと貴様ァ!!」
二頭の龍が互いの角を掴み合い、溢れる殺気が空気を揺らす。アリスの知らない間に、二頭の龍のいがみ合いが始まった。