亡霊
既に日も暮れていた為、一泊した後、定軍山へ赴く事となった。
その間に夏侯覇へ医者をやり、傷を治療させた。
医者が言うには、致命傷こそないが体力の衰弱、そして血を流し過ぎている為に、数日は安静にしてほしいとのことだった。
しかし、あの夏侯覇の事だ、それは聞いてくれないだろう。
ならばと、姜維は馬車を手配し、夏侯覇にはそれに乗る様に強要した。
年齢は、張翼や廖化と同世代であろう。
若き勇猛さこそ無いが、戦の経験が最も活きる世代である。
その血筋は、魏の皇族の血統を引いていながら、蜀の皇族にも深く関わっていた。
張飛の妻、張敬や張彩の母である夏侯月姫は、この夏侯覇と従兄の関係に当たるのだ。
定軍山の夏侯淵の墓は、そんな夏侯月姫の要望で建てられたものであった。
「どうぞ、行かれてください。私達は、ここでお待ちしております」
「感謝します」
夏侯覇はゆったりとした衣服で馬車を降り、一人で墓の前まで歩いて行った。
馬車の周囲には、姜維と、その側近の兵士が二十名のみ。
穏やかな、晴れ模様である。
よく整備された夏侯淵の墓所の前で夏侯覇は座り込み、地面に頭を付けるように、体を曲げていた。
それは長い時間、ずっと、同じ体勢であった。
肩が震えていた。小さな嗚咽も聞こえる。
そんな夏侯覇の姿を、姜維は自分と重ねていた。
諸葛亮の死から、もう十五年もの歳月が経っている。
それだというのに、この悲しみは、この志は、未だ天を貫かんばかりだった。
折り曲げていた体が戻される。
その肩はもう、震えてはいなかった。
「夏侯将軍。少しよろしいですか」
姜維はその隣に腰を下ろす。不思議と、波長が合うのをお互いに感じた。
こうして言葉を交わすのは初めてなのだが、まるで数十年来の友人であるかのように、心が全く抵抗を示さないのだ。
気持ちの良い風が吹いている。そんな気さえしてきた。
「ご尊父とは、どのような話をなされたのですか?」
「魏は、父上が命を燃やして支えた祖国は、滅びましたと」
「まだ魏帝の曹芳は健在。領土も失われておりません。どうして、滅びたと」
「陛下の命は既に、司馬一族の手中に在り。生かすも殺すも、自由です。この状態でどうして、魏国は健在と言えましょうや。反旗を翻し、共に死線を潜って来た配下が全員死んだあの時に、俺の中で、祖国は滅んだのです」
その声色は、酷く冷淡で、淡白だった。
まるで他人の事を語っているかのようにも聞こえる。
夏侯覇は体を向き直し、姜維を正面に捉えた。死人の様に、何の感情も表に出ていない。
「どうかこの場で、斬り捨てていただきたい」
「何故でしょう」
「国を守れず、兵を失い、死に場所も得られない。この罪は償い難く、父上に顔向け出来ません。我が首は塵となるまで燃やし、川へ捨てて下され。墓前にて、責任を取りたく思うのです」
「私には、貴方への怨みは無い。斬れません」
「いえ、敵同士であったのです。互いに多くの将兵の命を取ってきた。むしろ斬れない理由など、ありますまい」
「決意は固い様ですね。なるほど、分かりました」
姜維は立ち上がり、剣を抜いた。
夏侯覇は、、座ったまま目を閉じる。流石に戦場で生きてきた男であった。
命が断たれるというその瞬間でさえ、その心に波風一つ立っていないようである。
「さらば」
そう言って、剣は勢いよく振り下ろされた。
束の間の静寂。血が、数滴地に落ちる。
剣は切っ先で夏侯覇の顔に、僅かに傷跡を残しただけで、その命を刈り取る事はしなかった。
「これで、夏侯覇は死んだ。そして、お前の命を救ったのは、私だ。好きに使わせてもらうぞ」
「……これも、天命なのでしょう。ならばこれより、祖国の仇を討つだけの亡霊として、この命を将軍に、蜀漢に捧げましょう」
死人のような瞳。
しかしその奥に、僅かに燻ぶる炎があった。




