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縋る

 魏の内情が些か不安定であることで、漢中も、常に臨戦の空気感になっていた。

 いつ、戦になってもおかしくはない。将兵にはその意識を徹底させている。


 そんなある日の事であった。


 姜維は、張翼と共に北伐に関する大枠の軍議を行っていた。廖化は漢中軍の視察、及び調練を行っている。

 慌てて軍議の場に飛び込んできたのは、姜維が私兵の偵察部隊を任せている、部隊長の柳起であった。


「し、将軍……っ!」

「どうしたのだ、義兄よ」


 柳起は、姜維の妻の柳氏の兄である。配下であり年下でもあるが、姜維にとって柳起は義兄だった。

 迷当の配下であった頃より、数多の戦場を駆けてきた柳起らしからぬ慌てぶり。

 姜維も張翼も、事態の深刻さを予見した。


「夏侯覇が、来ております」

「何、そのような事前情報は聞いていないぞ。兵力は、軍を率いる将兵の陣容は?」

「いえ、その……」

「どうしたというのだ?」

「数は、一人です。夏侯覇が、一人で来ました。既に、城門の前に居ます」

「なんだと?」


 夏侯覇と言えば、魏の軍部において相当な重きを成す人材である。

 地方の武官として郭淮に西方は託されているものの、魏軍全体における発言力や存在感は、郭淮以上のものを持っていた。

 将来的には軍部の最上位に就くことすら期待されていた、それほどの重臣である。


 そんな人間が、たった一人で。

 誰しもが耳を疑い、言葉を発した本人である柳起自身ですら、現実を信じ切れていなかった。


「姜維殿。夏侯覇は、かねてより曹派の支持者であり、その血筋も皇族に連なります。雍州軍は郭淮、陳泰、鄧艾と、司馬派の影響が強く、衝突、孤立は避けられなかったのでは無いでしょうか」

「つまり、裏切ったと? しかし、夏侯覇の父、夏侯淵はこの漢中の地で、蜀軍によって討たれている。いわば、仇敵であろう」

「……ともかく、一度会ってみない事には、分かりませんな」


 張翼の発言も最もだが、そこまで決定的に孤立していたとは聞いていない。

 確かに、郭淮と夏侯覇の不仲は有名ではあるが、それだけが裏切りの原因になるであろうか。

 その時になって、姜維の下へ次々と斥候からの情報が飛び込んできた。


 夏侯覇の突発的な挙兵。司馬懿を倒し、天子を救う、それを大々的に宣言。

 雍州軍二万に対し、夏侯覇は私兵の三千騎。今朝に戦が興り、夏侯覇の軍は壊滅し、逃走。

 その戦の際、陳泰が右腕を落とされ、重症であると。


「急ぎ、会おう。丁重に迎え入れよ」

「直ちに」


 姜維と張翼は慌てて兵装を整え、万一に備えて、廖化に兵を臨戦態勢とするように使いを出した。

 何が動いていたのかは分からないが、夏侯覇が魏国に対して兵を挙げた、その事実は確かなようである。

 ともかく会ってみない事には、何とも言えない。

 不可解な焦りに襲われながらも、姜維は軍門の傍まで出向いた。


「── 征蜀護軍、夏侯仲権と申す。姜将軍の直々の出迎え、感謝いたします」

「なるほど、本物に相違ない。しかし、傷が酷いですね。すぐに医者に見せましょう」

「いえ、この程度、お構いなく。これは全て、仲間の血故」


 鎧すら使い物にならない程に傷を数多抱え、夏侯覇の体のあちこちにも裂傷が目立つ。

 更にその瞳は深く暗く、まるで死人の様であった。


 護衛も居らず、馬も無い。たった、一人。


 以前、戦場で見かけたときの、あの天をも貫くような熱意も、今は全く感じられない。

 確かに夏侯覇である。しかし、全くの別人でもあった。

 少なくとも姜維には、そう見えた。


「されど……あまりに急な訪問である為、何もご用意出来ておりません。悪路の長旅であったことでしょう。一日だけ休まれよ、要件は明日でも遅くはありますまい」

「お心遣い痛み入る。されど、一つだけ、その一つだけを頼みにここまで足を運んだ次第。それだけは今、聞いていただけますか」

「分かりました。聞きましょう」


 その心無い瞳のまま、夏侯覇は長い事、感謝の為に頭を下げる。


「父上の墓に、参らせていただきたい。それだけが望みです」


 漢中に在る「定軍山」に、夏侯覇の父、夏侯淵の墓はあった。

 魏を代表する名将として雄々しく、父が定軍山で散ったあの日より、実に多くの事があった。


 答えはないが、それでもその多くを話したい。夏侯覇は自らの心中を、己だけで解決できそうにも無かったのだ。


 だからこそ、憧れ、誇り、武人として人生の指標と定め続けた父に、縋るしかなかった。

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