臣下
夜、費褘は劉禅に宮中へと呼び出されていた。
この時点で、費褘も「高平陵の変」についてはある程度把握していたが、
陳祇の用いている間者よりその精度は低いものであった。
雪花は人生の全てを、裏の世界で生き抜いて来た女である。
謀略を好む呉国の間者として、働いて来たのだ。
陳祇はそのことについて何も問わず、雪花もまた、問われることを嫌がった。
蜀が国家で用いている間者とは、その質が違っている。雪花の用いる間者は皆、女であった。
情報を得る為、不都合な人間を消す為、命令を遂行する為だけに、体も誇りも命さえ、簡単に汚せる者達ばかりであった。
「皇帝陛下に、臣、費褘が拝謁致します」
「面を上げよ」
「有難う御座います」
通されたのは、謁見の間である。
少し高い上座に劉禅は座り、費褘はその下で体を折りたたんでいる。
従者の一人さえいない。劉禅と費褘のみという空間であった。
「曹爽が、司馬懿に捕らわれたな」
「既にご存知で御座いましたか」
「陳祇の働きは、朕を驚かせる。良き人間を傍に置いてくれたな、費褘」
「有難き幸せ。ただ、私は、自らの大きな敵となる人間を、野に放ってしまったのではないかという後悔も持っております」
「ふん、朕の前だからとて謙遜はいらん。どう見ても、そなたの方が有能だ」
劉禅から見て、政治的な手腕において言えば、費褘はまだまだ頭一つ突き抜けた存在であった。
いくら優秀といえど、陳祇との間には、埋めがたい程の「才能」の開きがある。
諸葛亮ほどの非凡さまでは無いが、それ以上の器量の良さを持っている。
最適解に辿り着くまでが、誰よりも早いのだ。
その器量の良さがどれほどなのか。
それは、諸葛亮や蒋琬、董允などが命をすり減らす様にこなしていた政務を、半日で簡単に終わらせる事が出来るという点で明らかなのだ。
「魏はこれより、どのように動くであろうか」
「ふむ……このまま、司馬一族の手に移っていくのは硬い流れかと。曹爽は失策を繰り返し過ぎました。民心は既に曹氏から離れ、司馬氏に移っていますので」
「つまり、基盤は盤石か」
「そうとも、申せないでしょう。司馬懿が、夏侯玄をどう扱うかで、情勢はまた変わりましょう。彼は各地の有力な将軍達と極めて親しい関係でしたので」
「処刑すればその将軍らが動くかもしれず、かといって用いれば、曹爽よりも厄介な曹派の旗手となる、と」
「ご明察です」
どちらを選ぶか。
今は性急に動けない為、夏侯玄を軟禁しているのだろう。
しかし、今までの動きを鑑みれば、間違いな夏侯玄は殺される。
その理由を付ける為に、あえてある程度の自由を与えているに違いなかった。
例え夏侯玄にその意志が無くても、きっと周囲が動く。後は、それを摘発すればいい。
冷酷ではあるが、反乱の芽を摘むという目的の為には、最も効率が良い方法である。
「蜀は、どう動くべきか」
「情勢は極めて難しいです。あまりうかつに動くべきでは無いですが、いつでも動けるような準備は整えておくべきかと」
「今までのそなたの意見からすれば、些か積極的ではあるな。今まで軍を動かす事には極めて厳しかったであろう」
「陛下の御意志が北伐に向いている限り、臣はそれを遂行する義務があります」
費褘の本心には、北伐そのものに対する否定が含まれている事を、劉禅は何となく感じ取っていた。
座していれば滅びを待つのみ、とかつて諸葛亮は言った。
しかし、益州は極めて堅固な天険の地であるのだ。
腰を据え、北伐を敢行しなければ、この益州のみで国家を保つことは十二分に可能であった。
そこに、きっと費褘の本心がある。
ただ敢えて、劉禅は気づいていないふりをした。北伐は、この蜀漢の根幹である。
この「夢」を諦めるには、まだ、早すぎる。
それに劉禅にも、戦人であった父、劉備の血が流れているのだ。




