高平陵の変
漢中へ帰還すると、王平が病に倒れていた。
長年、漢中に在って、蜀漢の最前線にて魏軍を阻み続けた将軍である。
その名声は蜀軍随一であり、将兵だけでなく多くの民にまで慕われていた。
「よくきたな、姜維」
以前の様に、筋肉に覆われた体付きでは無かった。
頬はこけ、髪も薄い。
彫り深な目の周りは、より一層暗くなっている。
それでも傍らには長剣を置いていた。その用心深さは、残り短い命を悟っても色あせてはいなかった。
「御機嫌は如何ですか」
「数々の戦を思い返せば、これしきの事」
むしろ穏やかな日々を送り過ぎていて、不安になるほどだ。王平は真顔でそう言った。
病床にあってもなお、その心は戦場にある様だ。
「惜しかったな」
今回の北伐の事を言っている様だった。
王平は横になっていた体を、無理やり起こして息を吐く。
「安静にしていて下さい」
「この王子均にも、汚せぬ誇りがある」
「……分かりました」
汗が滲んでいる。
傍にあった剣を杖の様にして、姿勢をやっと保っていた。
「姜維よ、廖化をどう思う」
「優れた将軍であると、思います。あれほど将兵の統率に優れ、戦場にあっても心に波風一つ立てない者は、天下に二人と居りますまい」
「……されど、此度の北伐の撤退に責任を求めるとすれば、それは廖化であろう。違うか?」
姜維は口を噤む。
それでも王平は言葉を続けた。
「廖化は誰よりも死地を潜り抜けて来ており、恐らく戦場で生きた時間の方が長い。ただ、その豊富すぎる経験が、北伐にあっては必ず仇となる」
「此度の撤退には、誰の責を求めることは出来ません。敢えて申せば、決戦を急いだ私です」
「北伐はっ……!」
かっと目が開かれた。
息も荒いが、姜維はその王平の言葉を聞き漏らすまいと、黙ってその体を支えた。
細く、冷たい体であった。しかしその内に、燃えるような熱さを感じる。
「北伐は、攻めなければならん。敗北を恐れてはならんっ……丞相があれほどの才を持ちながら、北伐を成せなかったのは、負ける事を恐れた故だ」
「蜀は、小さき国です」
「だからこそだ。本気で北伐を成すのなら、国の全てを賭ける覚悟が必要なのだ。覚えておけ、姜維。戦は、人間が人間を殺すという事だ。単純な兵力や国力では、決して魏には敵うまい。しかし、相手も人間なのだ。それだけは、忘れるでないぞ」
口の端から、鮮やかなまでに赤く染まった血が、ぽたぽたと流れ出ていた。
二四九年、王平が病に没して、間もない時の出来事である。
高平陵の変
歴史上の観点から見ても、極めて重要な意味を持つ変事だ。
政治の表舞台から完全に隠遁したと思われていた司馬懿による、軍事クーデターである。
曹爽と夏侯玄は、先帝である曹叡の墓参りに行く為に、文武百官と皇帝「曹芳」を伴い、墓のある高平陵の地へと赴いた。
この時、都に在った司馬懿と、その長子である司馬師が兵を挙げたのだ。
かねてより綿密に計画がされていたのか、洛陽は一瞬にして完全に司馬懿の手中に収まり、曹叡の妻であった郭太后に上奏。
無理矢理、曹爽の官職の一切を解任させる許しを得た。
高平陵に居た曹爽も兵は率いていたものの、将兵の妻子は都に在り、更に相手は軍事において比類なき功績を持つ司馬懿である。
敵うはずがなかった。
曹爽の心は、この時に完全に折れてしまった。
夏侯玄がいくら抗戦を進言しても、曹爽は首を横に振る。
「もう、詰んでいる。終わりだ……魏は、滅びたのだ」
曹芳を守り、曹爽は降伏した。
降伏すれば官職を解くだけで済むという条件であったが、それが守られることは無かった。
後日、謀反を企てたとして、曹爽の一族、そしてその側近に至るまで、多くの曹派が処刑された。
これで魏は完全に、司馬氏の独裁体制となったのである。




