重圧
なるほど、これが夏侯覇という男か。
巡察中、迫る敵影を遠くから視認し、張翼は喉の奥で唸る。
「蒋斌、陣形など無い、押し寄せるのみの敵だ。お前なら如何に戦う」
「夏侯覇は相当、己の武勇を頼りにしていると見ます。確かにそれは事実で、蜀軍随一の勇将である呉喬将軍でさえ、一合の下に馬上より叩き落されています。なれば、正面より挑むは愚であり、罠に掛けるが上策でしょう」
「なるほど、例えば如何様な罠であるか」
「私に二千の兵馬をお与え下さいませ。この部隊を先鋒として囮に用い、埋伏の計に嵌めましょう」
姜維には、蒋斌は身の丈に合わない危うい戦をする性格が元来ある為に、常に傍に置いておくようにと釘を刺されていた。
それは見ていれば分かる。
確かに、父の偉大さや、周囲の期待が、余程の重圧になっている様であった。
しかし、蒋斌はそれに応えようとしている。しっかりと耐え、驕ることもしていない。
こうした時にこそ、軍人として一度、死ぬ寸前という経験を積まさなければならないのだ。
些か、姜維はこの蒋斌を大切に扱い過ぎているようなところがあった。
そういう所まで、諸葛亮の気質をよく継いでいる。張翼は、くつくつと笑った。
「馬謖殿の、二の舞にしてはならないな」
「どうされましたか?」
「いや、こっちの話だ。蒋斌、夏侯覇はお前が思っているよりずっと手強いが、それでも兵を率いたいか?十中八九、お前は死ぬぞ」
「決して、死にません。父上に叱られたくはありませんので。全身全霊を賭け、必ず役目を全う致します」
「よし、ならば精鋭の二千を与える。負けた後、あの山中へと駆けこめ」
「御意」
「逃げる事は、何にも勝る兵法だ。恥じる事ではない」
巡察を追え急ぎ軍へ戻ると、早速兵を割り振った。
校尉である蒋斌を一時的に、張翼の権限で将軍格にまで引き上げ、先鋒として二千の精鋭を与えた。
死んだ時は、その時だ。
張翼は、勢いよく駆けだしていくその二千を見送り、そう思う事にした。
自分には自分の役目がある。急ぎ、山中での布陣に取り掛かった。
陣形も、何もない。
まるで雪崩や土砂崩れの如く、その一万は猛進していた。
先頭を駆けるは、真黒な鎧を身に着けた夏侯覇である。姜維とはまた違った形で、戦いを極めた男だ。
蒋斌の二千も、対峙した。
気に飲まれそうになる己を叱咤し、負けじと睨み返す。
幾度となく、野戦の調練は積んでいた。
姜維や傅僉といった、天才的な戦の感を持つ将とも、幾度となく矛を交わした。
それでも姜維には一度も勝てたことは無かったが、勝てないと、思ったことも無い。
ならば夏侯覇なぞ、何程の者か。
そうやって、自分を鼓舞した。
矛を、握る。
馬が鳴いた。
夏侯覇の一万の両翼が、一斉に飛び出した。
前に進めば、包囲される危険がある。
迷っている暇はない。
「右を蹴散らすっ」
左から迫る敵軍には背後を突かれる形となるが、それよりも早く、右を突き破れば良いだけの事だ。
後退するとばかり思っていただろう魏軍に、焦りが生じる。
片翼だけなら、同数のぶつかり合いであった。
ならば、負けない。
騎馬隊の精鋭三百を先に走らせ、ぶつからせた。
その隙に蒋斌は僅かに包囲の中へ走って、その片翼を突き破る様に、外へ出た。
翼は分断され、孤立した先行の部隊を包囲し、殲滅。
次は、背後より迫ってきていたもう片翼に、向きを変える。
流れは、こちらにあった。
間延びした敵部隊を、二手に分かれた蜀軍がズタズタに引き裂いた。
敵を屠るよりも、鮮やかな戦を見せつける。
さぁ、どうする。
魏軍一万の、中央を見た。
あの、黒尽くめの騎馬隊に、その中心に居る夏侯覇に、かかってこいと、矛を掲げた。
夏侯覇は、笑った。




