諫言
やはり、反感を呼ぶ可能性はどうしても避けられなかったのだろう。
婚礼の儀は、宮中で重臣達のみを呼んで、小規模で行われることになった。
それでも、この国の皇帝である。
張彩に対しても申し訳ないと言う気持ちが、より一層劉禅の心に重く圧し掛かった。
心情的に言えば、いっそのこと派手に祝いたかった。いや、祝って欲しかった。
誰でも良いから、許して欲しかったのかもしれない。
この国の主である自分を、
愛する者を看取る事すらできなかった自分を、
息子を守れなかった自分を、
これから婚姻を結ぶ相手を心から愛することの出来ない自分を。
ただ、例え誰かが許してくれたとしても、他ならぬ自分が、自分を決して許さない。
婚儀を取り仕切ったのは、董允であった。
この一件の急な準備から、国内外に対する反感の抑制など、全てにおいて精力的に動いていた。
既にその齢は六十に届こうとしている。
本来なら費褘もそれを手伝うべきであったが、どうもこういった人の心に関わる仕事に向かないらしい。
確かに、費褘は人のプライべートな領域まで土足で踏み込んでくるような性格をしている。
警戒心というか、そのあたりの壁が皆無なのだ。それを、他人に許させてしまう明るさも備えている。
あまり人の感情を推し量るのが得意ではない。探るくらいなら、一気に懐に飛び込んでしまう人間であった。
だからなのだろう。董允はその仕事の全てを引き受け、調整を行った。
ギラギラとした鋭い気力が、少し痩せている董允から見て取れる。
その眼光に見据えられている劉禅は、何とも居心地が悪かった。
雅楽が鳴り、踊り子が舞い、宴席の全てに酒が注がれる。
この酒は、劉備、張飛の故郷である中華最北の地「幽州」が産地である。
白く濁っているが飲みやすく、度数が強い。悪酔いのしやすい酒であった。
穆皇后の合図で、皆が一気にそれを飲み干す。
心が弱っている時の酒は、体を蝕むように染み渡った。
用心しなければ、酒毒に溺れてしまいそうになる。
「臣下を代表し、董允が、祝いの挨拶を述べさせていただきます」
場が少し和やかになった頃、董允が劉禅と張彩の前に出て、深々と拝礼をした。
低く、そして威圧するように響く声である。空気は、一変した。
その声色は、まるで死を覚悟しているかのような緊迫感を伴っていたのだ。
「陛下よ、なんという顔をされておられるのか。それが、君主たる者の目か」
祝辞を述べる場で、董允が祝いの言葉として選んだのは、あろうことか、君主への「諫言」であった。
自らが懸命に準備を整えたはずのこの場で、全てをぶち壊す行い。
頑固ではなく、頑迷とも言うべき暴挙に、流石の劉禅も頭に血が上った。
自分が説教を食らうだけなら良い。しかしこの場は、穆皇后も、多くの重臣もいる。
そして、悲しき覚悟を据えた張彩もいる。
何より、この婚儀を取り付けたのは、自分ではなく周囲の人間である。
諫言を受けるいわれすら、そもそも無いのだ。
「下がれ、董允。場を弁えろ」
「はっはっはっ!陛下のお目付け役となり数十年、言うべき時に進言をする、これを曲げたことは一度も御座いません」
「めでたき席に水を差す様ならば、例え先生であろうと朕は許さぬ」
「許さないとは、斬るという意味で御座いますか?」
そう言って再び董允は笑い、その場に胡坐をかいて、首を伸ばして頭を劉禅に差し出した。
「この董允を斬れると言うのなら、お斬りなさいませ。先帝より、丞相より、陛下の御身を託されたこの董允を、果たして斬れますかな?」
董允は、諫言をすることで自分が処刑されるなら、それが最たる誇りだと思っている男であった。
そんな男に対して、処刑は何の脅しにもならない。むしろ、嬉々として弁舌を滑らかにするだけである。
周囲の重臣は慌てて董允の前で跪き、助命を乞うた。勿論、劉禅も斬るつもりはない。
ただ、ここは重臣たちの顔を立てて、董允の命を助けるという形にした。
「先生、命までは取らぬが、この場での諫言は許さん。そして謹慎の処分は避けられないと思われよ」
「いいえ、この老い先短い命など惜しくは御座いませんので、この場で言うべきことを言わせていただきます」
「この……衛兵を呼べ!董允をつまみ出せ!」
劉禅は額に血管を浮かべ、大声を張り上げる。
直ちに宴席へ数十人の衛兵がなだれ込み、座り込む董允の体を引き上げた。
しかし、否が応でも董允は頑なにその場から動こうとしない。
衛兵らも、人物が人物なだけに、あまり手荒なことは出来ないでいた。
「お待ちください」
立ち上がり、声を掛けたのは、張彩である。
怒りに沸く劉禅の拳を、その広い手で包む。すると、その拳に宿る膂力も、やがて柔らかに解けていった。
「董允殿は、この国の忠臣です。私の事ならお気になさらず、聞いて下さいませ」
「しかし張彩……」
「きっと姉上でも、同じことを申し上げたでしょう」
「……分かった。董允を連れ出すのは、話を聞いてからだ。その場で待機せよ」
衛兵達は董允を離して、その背後に整列した。
乱れた衣服を正し、董允は張彩に向かって一礼する。
上げられたその瞳は、老人とは思えない程の力強さが籠っていた。
「臣下、董允、謹んで陛下に拝礼致します」
「面を上げよ、進言を許す」
「有難き幸せ」
既に雅楽も止まり、踊り子も部屋の端で、不安そうな表情を浮かべている。
踊り子だけではない。この国の重臣達も、そして、穆皇后も同じような面持ちであった。




