諸葛瞻
「郭循は、誰とも協力せず、たった一人でこちらの懐へ潜り込み、暗殺を遂行したとの報告を受けています。故に今まで、足取りや素性が明らかにならなかったのだと」
「正体すら分からぬのか」
「いえ、まともな魏の軍人であり、その経歴は郭循本人が語っていたものに嘘はありません。つまり」
「つまり、何だ」
「表の顔を持ちながら、裏の顔も持っていた。私と同種の人間です」
黄皓もまた、宦官として働く傍ら、諜報部隊の長でもあった。
国内だけに根を張り、劉禅に向けられる刃を、未然に刈り取ってきたのだ。
しかし今回の郭循に関しては、黄皓はその正体や意図を掴む事すら出来なかった。
それでも黄皓は、臭いだけを感じ取っていた。異常なまでに、血の臭いを隠し通すその違和感を。
軍人なのに、血の気が全くない。それだけの違和感である。
「黄皓、お前ですら、分からなかったか」
「……あくまで、予感だけで御座います。その勘があったので、陛下の側に従い、御身をお守りしようと思っておりました」
「気づいていたのなら、何故言わぬ」
「予感が外れた時、私は讒言を行った佞臣として、費褘様に殺されていたやもしれません。証拠すら無い故に、秘めておりました」
「心配せずとも、それは朕が許さぬ」
「されど群臣はそれを望みます。私は、宦官ですので」
そして、黄皓が感じていたもう一つの答え。
恐らく郭循は、費褘ではなく、劉禅を殺そうとしていた。
黄皓が側に居たせいで、その対象が咄嗟に、費褘へと切り替わったのである。
ただ、それは告げなかった。
言ったところで、何の意味も無いからだ。
「……費褘は、替えの利かぬ男だった。朕は、これからどうすれば良い。それを問うべき相手を、失ったということだ」
「姜維様、陳祇様、張嶷様は現在、手を離せぬ状態です。なれば、問うべきは諸葛瞻様でございましょう」
「別室へ通してくれ」
「直ちに」
夢の中で出会った諸葛亮に、実によく似ていた。
ただ、諸葛亮は深く穏やかな目をしているが、諸葛瞻の目は溌溂と輝いている。
才気が満ち溢れていた。
ただ、それを抑えようとしないところに、どこか青臭さを感じさせる。
「諸葛瞻が、陛下に拝謁致します」
「面を上げよ」
「ありがとうございます」
流石の事態に、諸葛瞻の顔色にも不安や焦りが見て取れた。
若い頃から「神童」と呼ばれ、才気に溢れる優秀な人間であり、諸葛亮の唯一の息子という事で周囲の期待も相当なものであった。
諸葛瞻は、もう一人の自分である。劉禅は心のどこかで、そう思わずにいられなかった。
決定的に違ったのは、諸葛瞻は幼い頃から明晰で、劉禅は凡庸であった。
それだけなのだ。生き方を分かつのは。
「粗方の事態は、黄皓から聞いた」
「費褘様はまさに天下の英傑でありました。まことに、痛ましい限りです。陛下の御心中もお察しいたします」
「分かるか」
「はい。顔色が、真っ青で御座います」
劉禅は自分の爪の色を見た。
まるで血の通っていない、灰色をしている。
それでも、倒れるわけにはいかないのだ。それは自分が皇帝だからだと、気力だけで意識を保っていた。
「なるべく手短に済ませたい」
「なんなりと」
「朕は、この国を守る為に、まず何を成すべきか」
費褘の死。それも一国の宰相が、暗殺された。
国の威信にかかわる出来事であると同時に、最も大きい柱石をも砕かれたのだ。
後の対応を誤れば国は勝手に自壊し、滅びの一途を辿る様になってしまう。
諸葛瞻は息を飲む。
自分が今、国の存亡の岐路に立たされている。それを理解した。
「諸葛瞻。今、国政で最も大きな派閥を持ち、発言力も費褘と並ぶものがあった。国家の運営という点を考えれば、朕は、そなたに費褘の後任を任せたい。大将軍とまではいかぬが、尚書令として、国政を主導して欲しいのだ」
「陛下、私は四十に入ったばかりで、群臣の中でも若い部類です。古参の者達が、不満を持ちます」
「蒋琬から任を継いだ費褘は、まだ若かったぞ」
「だからこそ費褘様は英傑なのです。しかしその長所故に、滅びをも招きました。私には、経験が足りません。父の威名を、借りてるだけなのです」
寂しき声である。
誰よりも分かっているのだろう。決して父には敵わないと。
同じ苦しみを劉禅も良く知っていた。




