2.秘密
ネスク暦308年。ブラッドの自宅兼診療所。
まどろむ意識の隙間から、扉を叩く音が滑り込んでくる。また本を読みながら寝てしまっていたようだ。
私は膝の上で開いていた本を閉じて本でできた机に置き、客人を出迎える。
扉の前に立っていたのは、琥珀色の髪と宝石のような緑の瞳を持つ少女だった。
いや、少女と呼ぶのはもう適さないかもしれない。今や身長は私と同じくらいだ。
「ライディア。久しぶりですね」
ライディアは無言でうつむいたままだった。
「どうしました、こんな時間に」
我慢していたなにかが崩れたのか、ライディアは私の肩に顔を押しつけてきた。肩が熱い息と涙で濡れるのを感じる。
「入りなさい。話を聞きますよ」
・・
「熱いですよ」
私が雲牛のミルクを温めて出すと、ライディアは一度頷いてそれを受け取った。
息を吹きかけて冷まし、口をつける。
「それで、なにがあったんです?」
「……お父様が、亡くなりました……」
「それは……残念ですね……」
「それだけではないの……」
ライディアはカップを置くと、ワンピースのボタンを一つずつ外し始めた。
「ラ、ライディア?」
「見てください。――“シャッテン・フェアエンデルング”」
呪文を唱え、服をはだけると、ライディアは背を向けてきた。
私は言葉を失った。
ライディアの背で、禍々しい刺青が淡く発光している。
「なんですか、それは……」
「ロゼフィリア家に、代々伝わる魔法の刺青です。父が亡くなって……祖父から私が継承しました」
私はランプを近くまで持っていって、ライディアの背に触れながら刺青をじっくりと観察する。
明らかに現存する魔法ではなかったが、ところどころに古い文献で見た挿絵と合致する部分があった。
非常に強力な、今はもう失われた魔法の陣だ。
「いや……これはもはや魔法というより、呪いに近い……」
「おっしゃる通りです。これは呪いに他なりません」
「なぜ君がこれを……」
「呪いだから、ですよ」
ライディアは身なりを整え、私に向き直った。
「以前もお話しましたが、私には二人の兄がいます。とても優秀な兄たちです。私も誇りに思っています。その剣技と魔法を駆使して、西部戦線の最前線に今も立ち続けている。一方で、私はこの通り、戦においては無力な人間です」
「いくら強大な力であっても、将来有望な兄たちに背負わせるには代償が大きすぎる。……そういうことですか」
「……ええ。祖父は役立たずの私を疎ましく思っていましたから、きっと丁度良い受け皿だったのでしょう」
正直、理にかなっているとは思った。戦場において、不測の事態を招く要素はいかに強大な力であっても排除すべきだろう。
「……とはいえ、思春期の女の子には重すぎる」
私の言葉に、ライディアはバツの悪そうな顔をする。
「なにかまだ、重荷になっていることがあるんですね。解決することを保証はできませんが、誰かと共有するだけでも心が軽くなりますよ」
「その……ブラッド。もう一つ、明かしたいことが」
「なんでしょう?」
「驚かないでくださいね」
「これでも色々な人を診てきましたから、大丈夫です」
「私、男なんです」
・・
「ブラッド?」
「はっ」
ライディアに顔を覗き込まれて、ようやく私は我に返った。
「凍ったかと思いました。……やっぱり驚きますよね」
「いや、違うんです。これまでの記憶や感情に色々と誤りがあったので、修正していただけです。大丈夫です」
私が必死に動揺を隠そうとすると、ライディアの口から息が漏れ、それが笑い声に変わる。
「嘘が下手ですね、ブラッド」
「申し訳ない……。でも、なぜ女性の恰好を?」
ライディアは私の隣の椅子に腰かけ、語り始めた。
「私の家系は男系家族で、女の子はあまり生まれません。私の兄弟も皆男ですしね。そんな中、私は特に母親に似て生まれたので、家族が女の子のように育てたがったのです。……厳格な祖父だけは、良い顔をしませんでしたが」
「なるほど……」
「……やはり、幻滅しましたか?」
私は静かに首を振る。
「性別がどうであれ、ライディアはライディアです。これまでとなんら変わりありません」
「あなたなら、そう言ってくれると思いました」
隣で微笑むライディアは、その事実を知った上でも、美しい女性にしか見えなかった。
「では、これからも女性として生きていくんですね」
「もう染みついていますから、きっとこのままでしょう。……なにも起きなければですが」