1.出会い
ネスク暦303年。ノクスヴィア王国南部。
「またノクスベリーのジュースか、ブラッド」
「好きなもので」
私は果物屋の主人に愛想笑いを返し、店を出た。
見上げると空には厚い雲が立ち込めている。今日は特に厚い。懐中時計を確認しなければ、今が朝なのか夜なのかすぐには分からないくらいだった。
「邪魔だよ」
「あ、失礼」
店から出てきたエルフのご婦人に押されるようにして、私は道を歩き出す。
街を行く人々は皆憂鬱そうで、前を見て歩いている人はあまりいない。少し路地に入れば、路頭に迷った人がなにをするわけでもなく、ただうなだれていたりする。
その原因はこの雲にあった。
最近読んだ文献によると、人は太陽の光を浴びなければ心を病んでしまうそうだ。
私は医者を志す者として患者を救う方法を探しているが、今のところ根本的な解決策は見つけられずにいる。
懐中時計を取り出して時間を確かめると、まだ朝礼までには時間があった。
「……ん?」
私は懐中時計を開いたまま歩く。
鏡面になっている蓋の裏に、なにかぴょこぴょこと動くものが映っていた。角度を調整してその姿を追うと、エルフの小さな女の子のようだった。
私を追うように歩いては、時折物陰に隠れる。その度にブラウンのワンピースの裾が揺れた。
懐中時計を閉じ、考える。目的はなんだろうか。恨まれるようなことをした覚えはない。
ここは本人に聞いてみるのが手っ取り早いだろう。
私は途中で路地に入った。そしてその場で振り返り、少し待つ。
「ひあっ」
さっきの女の子が路地に駆け込んできて、私にぶつかって倒れた。
「大丈夫ですか?」
私が手を差し出すと、その子は手を払いのけて立ち上がった。
「待ち伏せとは卑怯ですわ!」
「人のあとをこそこそ追うのも卑怯だと思いますが」
「うぐ……」
「私になにか用でしょうか」
女の子は私を睨みつけてなにかを考えているようだった。しばらくして口を開く。
「あなた、エフェスですわね」
「そうですよ。エルフのように耳は長くないですし、ドワーフのように小さくもない。ウルフェンのような獣の耳と尻尾もないですね」
「お名前は?」
「ブラッドです。ブラッド・リアルミュート。あなたは?」
「……ライディア・ロゼフィリア」
「ロゼフィリア……あのロゼフィリアですか?」
「ええ。おそらくあなたが思っている通りのロゼフィリアよ」
「驚きました。なぜロゼフィリア家のご令嬢がこんなところに」
「……たのです……」
「たのです?」
「……迷ったのです!」
・・
近くにあった長椅子に腰かけ、事情を聞いた。
「家を抜け出してあちこち歩き回っていたらエフェスの私を見つけて、物珍しさから追いかけた結果迷ったと」
「あまり外に出ることはなかったものですから……」
「確かロゼフィリア家は西部の貴族でしたよね。よくここまで歩いてきたものです」
「体力には自信がありますのよ」
「それが仇となったわけですね」
「……あなた、大人しそうな顔をして結構はっきり言いますのね」
「それほどでも。飲みますか?」
私はさっき買ったばかりのノクスベリーのジュースを差し出す。
「……いただきますわ」
やはり喉は乾いていたようで、一度口をつけたあと一気に飲み干した。
「んんー、南部のノクスベリーのジュースはやっぱり格別ですわね……」
「それは良かった。では私は授業がありますので」
「え?」
「西部なら、この坂道を下れば城壁に突き当たるので、そこから右へ壁伝いに進んでいけば着きますよ。少々遠いですが体力に自信があるなら大丈夫でしょう」
「え? え?」
「それではお気をつけて」
私が長椅子から立ち上がろうとすると、コートの裾をつかまれてもう一度長椅子に座らされた。
「なにか?」
「なにかじゃありませんわ! こういう時はちゃんと家まで送り届けるのが紳士というものでしょう?」
「私はただの学生ですので」
「いいから家まで送ってちょうだい!」
・・
「エフェスってこんなのばっかりなのかしら……」
ライディアはなにかぶつぶつと呟きながら前を歩く。道が分かった以上、私がいる意味はあるのだろうか。
私たちはしばらく黙々と緩やかな坂を下り続け、昼になる頃にようやく城壁へとたどり着いた。
「はあ……お腹が空きましたわ」
「なるほど」
「……あなたは空いていませんの?」
「それなりに」
「あなたね! 年上なんだからもっとリードしてちょうだい!」
「リード?」
「“それではそこの洒落たレストランにでも入りましょう”、みたいなそういうやつですわ!」
憤慨した様子で、ライディアは近くにあった高級レストランを指さして言う。
「申し訳ありませんが、自分はあまりお金を持っていないのでお一人でどうぞ。待っていますから」
ライディアは地面に膝と手を突いた。
「汚れますよ」
「もう……いいですわ……」
・・
「どうぞ」
「ありがとう……」
さすがに空腹のまま歩かせるのはしのびなかったので、屋台を見つけて雲鶏の肉と卵を使ったサンドイッチを買ってきた。
貧乏学生の私にも買いやすい値段で、なおかつボリュームも満点。素晴らしい。
ライディアは一口かじると、急に元気を取り戻したようだった。
「美味しいですわ……」
「値段がすべてではありませんね」
私たちは街灯の下で、もそもそとサンドイッチを咀嚼する。
「なぜ家を出たんです? ご実家にいればもっと美味しいご飯も食べられたでしょう」
「……家にいても、美味しいご飯は食べられないわ」
「貴族なのにですか」
口の中のものを飲み込んで、ライディアは頷く。
「あなたの言うように、お金の問題ではないのです。ただ、一緒に食事がしたい相手がいないだけ」
「相手というと、ご家族ですか」
「ええ。……近頃、隣国との小さな衝突が起き始めているのは知っているでしょう?」
「シレークスとノクスヴィアには因縁がありますからね」
「私のお父様も、お兄様も、前線へ戦いに行ってしまいました。私は必死に止めたのに」
「……なるほど、それは心休まりませんね」
ライディアは正面にある城壁に、その向こうに視線を送る。
「今もこの壁の向こうでお兄様たちが戦っているのに、私にはなにもできません。こうしてその現実から逃げ出すことくらいしか。私は……無力ですわ……」
ライディアの持っていたサンドイッチに、ぽたぽたと雫が落ちる。
「ライディア、あなたは強い人間の条件を知っていますか」
「……強い魔法を使い、剣技に長けた人間。お兄様たちのような」
「確かにそれも強さの一つの答えでしょう。しかし私は思うのです。“反省できる人間”こそ、真に強い人間なのだと」
「反省……」
「どんなに強い力を持った人間でも、弱点はあります。それを見て見ぬ振りをして、力に甘えているようでは、いつか身を亡ぼすでしょう。ですが反省できる人間は違います。己の力に甘んじることなく、常に強くなり続けることができる」
「……そうかもしれませんわね」
「そうです。そしてライディア、あなたも反省することができた。次にすべきなのは、自分の弱さに立ち向かうことですよ」
私はサンドイッチの残りを口に放り込み、飲み込んだ。
「さあ、帰りましょう。そしてお兄さんたちの帰りを待ってあげてください。それがきっと、お兄さんたちの力になるはずですから」
「……そうよ、その通りですわ」
ライディアはその小さい口で一気にサンドイッチを頬張り、一生懸命咀嚼して飲み込む。
そして満面の笑みを見せた。
「私は私の役目を果たしますわ! ありがとうブラッド!」
私はまだ太陽を見たことがなかったが、きっとライディアの笑顔は太陽に似ている。そう思った。