第12駅 天衣無縫
「くじけないで、トレイン! 立つのよっ! 母さんをガッカリさせないで!」
「っうう……母さん……っ。俺は辛いっ……」
「辛くない! 心を強く! 根性を燃やすの! 頑張れ、トレイン!」
「こ、根性……? それは、素敵な響き……ぐっうっ、だけど……」
「トッくん、頑張ってよぉ!」
「フィフィちゃんも応援してる! さあ、見せて、あなたの底力!」
「そうですトレインさん! 立って、立ってください。さあ!」
「真奈……くそうっ。こんなにされたら、頑張るしかないじゃないかあ!」
……熱いねえ。
うん、熱い。
これはとある駅島での、雨が降る密林での一幕。
今となってはいい思い出さ。
ちなみにジャングルのカエルは脂が乗ってて中々美味かった。
とまあ、この世界で生きる術を得るために、ひたすら頑張っていた。
土や泥にまみれる日々を過ごし、己を鍛えた。
八歳の子供に対して、心を鬼にした母さんはとても熱かった。
冒険演習及びサバイバル演習を始めて三ヶ月。
おかげさまで肉の香ばしい焼き方、毒植物の見分け方、トラップの探し方、危ない女の見分け方、馬の乗り方……などなど役立つ知識を得ることができた。
覚えることが多くて大変だったが、そこは真奈が頑張ってくれた。
二年足らずで二番線語を習得したこともあり、彼女は物覚えがとてもよかったのである。
そうだな、フィフィが純白体質の肉体派だとしたら、真奈は銀灰体質の知性派ってところ。
そんな風に修行の日々を送っていると、気が付いたら王国列車は駅大陸に到着していた――
駅大陸、それは数年に一度国列車が停車する浮遊大陸である。
一番線から三番線の全ての線路が集まり、三線の国が一堂に会する場所。
そして各国の代表が集合し、運行方針などを話し合う。
話し合いの場には、王族と運天士の出席が古くから決まっていた。
しかし国が集まるということは、トラブルの種があるということでもあり……。
もちろん零号国民の末裔も多いわけで……。
たとえば零号国からの使者ジスターが俺たちを狙うとしたらここしかない。
そこで危険を察知した母さんは行動を起こし、俺たちは王都に向かったのであった。
◆ ◆ ◆
現在、俺は王都の城、そこの応接間にいる。
赤い壁、金色の装飾といった豪勢な部屋の一画、同じく凝った装飾の椅子に座っていた。
すぐ隣には真奈とフィフィも座っていて、緊張の面持ちを呈している。
部屋は狭くないのに、俺たちは何だか落ち着かなかった。
ガチャリ、と金属が擦れたような音が背後で鳴る。
目をやると部屋の入り口には、鎧で武装した騎士たちが固めていた。
王国軍の彼らは、ありがたいことに俺たちの護衛に当たってくれている。
これはロロークさんが母さんのわがままを聞いてくれた結果。
いつもいつも、母が迷惑かけて申し訳ないです、ロロークさん。
手を組んで、偉大なる運天士に祈りを捧げた。
さて、偉大なる運天士とは対照的に、母さんは子供っぽい振る舞いを続けていた。
目の前では、母さんがロロークさんに姉妹喧嘩をけしかけているところ。
「ロロ姉、私のお願い聞いてよ!」
「リリィ、私は忙しいの」
母さんの文句を、ロロークさんは適当に聞き流していた。
艶やかなガラステーブルいっぱいに広がった書類を、彼女は忙しそうにまとめている。
手に持った革の鞄へ手際よく収めていく。
仕事のできる女性って感じでかっこいい。
肩から垂れる制服の金細工が、彼女の動きに合わせてシャラシャラと涼しい音を立てていた。
母さんはロロークさんを不満げに見つめ、ふんっ、と腰に手を当てた。
もちろん文句を言うべきなのはロロークさんなのだが、実際に口に出すのは母さんの方だった。
「もうっ、なんで会議に行っちゃうのよ? ロロ姉、一緒にトレインたちを護衛してようっ」
「あなたねえ、いきなり来てわがまま言わないの。私も業務があるから、あまり困らせないで」
「でも、ロロ姉がいるのといないのとじゃ話が大違いなのよ!」
「だったら、それ相応の事情を話してもらわないと。少なくとも私が会議を欠席できるだけの事情をね」
「そ、それは……言えないけれど……」
うん、真奈のことは言えないだろうね。
言ったら異端審問で、最後尾車両のスラム送りさ。
この場において、真奈はただの大男に務めるべきであった。
口ごもる母さんにロロークさんは溜め息、そして首を振った。
母さんより暗い赤茶の短髪がさらさらと揺れる。
「ほら、言わない。それじゃあ私は残れないわ」
「ロロ姉……っ。もう、いつも生真面目で、融通が効かないんだから!」
「ああ、リリィ、そんな顔しないで。残念だけど仕方ないでしょう。それに、ここの騎士たちだって私の優秀な部下だから、滅多なことは起きないはず」
「姉さんの分からず屋!」
うわ、これはいけない、母さんはやっぱり子供。
ロロークさんの前だと、人間のできの違いがより際立ってしまう。
もっともそれは当たり前であった。
王族の公爵家令嬢だったにもかかわらず、家を飛び出した出来損ないが母さんなのだから。
対してロロークさんは、王族からの期待にしっかり応え、きちんと運天士になった正真正銘のエリートだった。
母さんに呆れていると、窓から風が吹き入った。
カーテンが揺れて、テーブルに残っていた最後の書類が一枚、はらりと舞い上がった。
ロロークさんは呆れ顔を浮かべたまま、書類をパシッと掴み、鞄に入れる。
そして制服のネクタイを締め直し、部屋を出ていってしまった。
母さんはロロークさんを引き留めようとしたけど、失敗。
無理もない、国のトップが集まる会議だから欠席はできないだろう。
それでも騎士の護衛をつけてくれたんだから感謝しなければ。
さて、今はそんなことよりジスターだ。
彼は一体どうやって襲って来るのだろう?
もちろん来なければそれが一番だけど、最悪の状況は想定しておかないと。
俺は緊張感を保ち、王城の一室で神経を研ぎ澄ませることにした。
◆ ◆ ◆
しばらくして……。
多分もう、ロロークさんの会議だって始まったころだろうか。
二時間経っても、三時間経ってもジスターは来なかった。
おかげでいつの間にか、俺も気が抜けていた。
応接間では、きゃいきゃいとはしゃぐ女の子らの声が踊ってる。
「りんご~」
「ごま~」
「く、く……く、くりはら田鉄――……」
「ええー、クリはら? なに言ってるの? はい、トッくんの負け~っ!」
「トレインさん、しりとり弱いですねえ。うふふふっ」
そりゃ、鉄道縛りにしたら弱いよ。
と、こんな感じで、しりとりをして遊んでいたわけだ。
騎士たちは、なんでこんなガキどもの護衛をしなきゃならんのだ! と言いたげな面持ち。
ただ母さんだけは、窓の外から大陸の方をじっと見つめ、緊張感を保っていた。
背中越しに、ピリピリとした殺気が伝わってくるよう。
そんな母さんに対して、騎士たちは不思議そうに首を傾げていた。
良くも悪くも、取り越し苦労だったという気配が応接間に満ち始めていた……。
ふいにフィフィがテーブルにぐでーんと突っ伏した。
ムニャアとほっぺが潰れて、猫みたいに脱力する。
テーブルにあった飴玉をコロコロ舐めて、
「あ~あ、つまらないなあ。トッくん! 何か楽しいことしてよ!」
ずっと応接間で籠っていたもんだから、そろそろ彼女が落ち着かなくなってきた。
これはよくない兆候だなあ。
と、思っていると、よっこらせっと母さんが隣に座った。
緊張しっぱなしで参った様子、目だって赤い。
「はあ、息が詰まりそう。……来ると思ったんだけど、私の思い違いだったのかしら?」
うなだれると、長い赤茶の髪がテーブルに広がった。
疲れているのかな、その髪はいつもと違い、くたびれて艶がない。
すると、
「はっはっは、陽炎の剣士様を狙ってくる命知らずなんていやしませんよ。まったく何が来るっていうのやら」
「そうだ。せっかくの非番だっていうのに、過保護なママ様には困ったね。おかげでこっちは休日返上だよ」
護衛の騎士二人が酒を飲みながらで嫌味を飛ばした。
部屋の隅っこで、すっかりでき上がってる。
「よさぬか、リリーザ様に失礼だぞ」
忠誠心の厚そうな老騎士が苦言を呈するも、彼らの態度が改まる様子はない。
母さんが、ガルルッと食いつかんばかりに睨むと、騎士らはへらへらと笑い、肩を竦めるのだった。
ロロークさんの思惑と違って、騎士たちの士気は低かった。
母さんがいきなり城に押し掛けたせいで、迷惑してる感じだった。
いくら母さんが元王族とはいえ、家柄を捨てた素行不良の評判は悪いようで。
好き勝手やってきた不良女に、あまつさえ休日を奪われればニコニコできる騎士はこの場に多くなかった。
嫌な空気を感じたのだろう、母さんは騎士の一人に向かって飴玉を投げつけた。
若手騎士の額にコツンと命中、赤絨毯にコロコロとそれは沈んだ。
「あんたら。お酒を飲んでないで、しっかり護衛してよ。そうでないと承知しないんだから!」
「イテテ、おー怖い。まったく姉妹でどうしてこうも違うかねえ……。ロロークさんは可憐で、しとやかだってのになあ!」
「そう言うな。おかげで旦那に逃げられてるんだから可哀そうだ」
「な、なんですって!? ちくしょう……あんたたち、剣を抜きなさい。叩っ切ってやる!」
今日の母さんは、酷く荒れているらしい。
勢い任せに剣を抜こうとしたところで、さすがに女性騎士に止められた。
酒飲み騎士はほっと安堵するも、すぐに居直ってチッと舌打ち。
母さんもまた悪態を吐き、席に着いた。
頬杖をつくと、苛立ちのままにトントントントンとテーブルを指先で叩き始める。
この人は、父さんのことに触れられると怒るのだ。
シングルマザーであることを気にしてるのかもしれない。
機嫌直してよ、と俺は飴玉を渡してやった。
ほら、甘いもの食べると、リラックスできるし。
「飴ちゃん、舐める? 頭冷やしなよ」
「…………ねえ、トレイン。少し、あなたを抱きしめていい?」
何を思ったのか、肩に腕を回してくる母さん。
実に恥ずかしいので、やめてほしいなあ!
真奈とフィフィが見てるんだものっ。
「はあ? 何言ってんだよ。ほら、飴ちゃん」
慌てて、母さんの口に飴玉を突っ込んだ。
「もごっ」
飴玉で頬をぽっこりと膨らませると、母さんは溜め息を吐いた。
「んもう、残念。っと、息子に振られたことだし、見張りでもしますか……」
俺に甘えたかったのだろうか、母さんは飴玉でぽこりと頬を膨らませて不満げだった。
そしてふてくされながら立ち上がったその時――
バンっと入り口の開く音がして、
「ぎゃぁあ!」
突然の叫び声とともに、なんと騎士が応接間を舞った。
さっき母さんにつっかかっていた酒飲みの彼だった。
巨体がガシャアン、とテーブルに落ちる。
ワイングラスを割り、騎士の男はテーブルクロスをしわくちゃにしながら滑った。
バスケットから菓子や果実をこぼしたところで、止まる。
絶命したその男から血が広がり、テーブルの上の果実を赤く染めた。
一瞬沈黙した後、騎士たちはランスを取り出し、構えた。
と、同時に、ぐぎゃあぁ! という悲鳴。
振り返れば、もう一人の酒飲み騎士が叩き切られた瞬間が目に飛び込んだ。
侵入者は二名。
一人は金ぴかの制服に身を包む目つきの悪い細身の男、ジスター。
そしてもう一人は、剣で騎士を両断した、白い制服の男だった。
胸元のバッジがぎらぎらと輝き、男が鉄道関係者であることを示していた。
な、なんてこと、厳重な警備を何事もなかったかのように潜って来たのか?
ヒステリックな笑顔をたたえ、ジスターが一歩、歩み寄った。
「久しぶりだな。マナ様を迎えるために、そしてお前を殺すためにやってきた。今日、この日がやって来たことを祝おうじゃないか、少年?」
「ジ、ジスター……」
「覚えていてくれたようで嬉しいよ。しかし残念ながら、今日で君とはお別れだ。前回のようにはいかない、今回の協力者は入念に選ばせてもらったからな」
ジスターが白制服の男へ視線をやると、長い灰色髪の彼は微笑み、騎士の死体を突き飛ばした。
一見すると女とも思えるような美しい顔立ちだった。
サラサラとした髪をいじりながら、
「おや、ジスター殿。例の車霊体は見えないようですが……」
「隠しているのだろう。聞きだせば分かることだ」
「それもそうですね」
目を細め、微笑みをたたえる麗しい男。
一見柔和な態度だが、彼が部屋に入り込むだけで、騎士たちはぶるぶると震え精彩に欠けた。
それでも侵入者を迎え討とうと陣形を展開する中、さっきの老騎士がゴクリと喉を鳴らす。
彼はランスを構え、背中越しに俺たちへ逃げるよう告げた。
「リリーザ様、わしらが時間を稼いでいる間に逃げなされ。彼奴は七天士の中で完璧と称された男、天衣無縫なり!」
すると母さんは頬に冷や汗を流しながら、無言で頷いた。
なんと剣を収めて、俺とフィフィを抱きかかえたのだ。
こっちの戦力は騎士が十名足らず。
完璧と呼ばれる男を止めるには、分が悪いと判断したのだろうか。
天龍を前にしても、堂々と立ち向かった母さんはすぐに背を向けた。
そしてテーブルを飛び越え、窓に向かって駆け出した。
「じいや……、ごめんね」
「これも我々、王国騎士の務め。早くいくのだ、リリーザ様!」
「ありがとう、感謝するわ」
逃げるわよ! と真奈へ目配せする母さん。
そしてそのまま、躊躇することなく窓から飛び降りた。
すぐに部屋から騎士たちの悲鳴が聞こえ、俺は振り返ることもできなかった。
◆ ◆ ◆
母さんは城から馬車を走らせた。
荷車へ乱暴に俺たちを放り込むと、城門を破り、王都を駆け抜け、草原へと至った。
そして逃げる、逃げる、まだ逃げる……!
手綱を取る母さんの背中ではマントが激しくバタつき、乱れる内心を表しているようだった。
「完全に想定外だった。まさかあの人が敵になるなんて……最悪」
「ジスターと一緒にいたさっきの男、そんなに強いの?」
「強い! ううん、強いなんてものじゃないわ。あの人は、七天士の中でも天下無双と並んで最強と称される〝天衣無縫〟と呼ばれる人よ。私にとって憧れの剣士でもあるわね……っ」
「母さんの憧れ……」
陽炎の剣士にそこまで言わせるとは、なるほど最強だ。
それにしてもジスターのやつ、七天士最強を連れてくるとはいかれてやがる。
おかげで胃の辺りがきりきりと痛む。
真奈も荷車の隅っこで震えているし……フィフィも珍しく黙り込んでる。
これは、先が不安でたまらない。
しかしこれからどうするんだ? まさかずっと、逃げ続けるのだろうか。
王国列車が広いといっても、いずれは捕まる。
そんなの無理だ。
当然ジスターだって諦めるとは思えないし、ここは逃げるのではなく、倒すべきなんじゃないのか?
「ねえ、戦わないの? 母さんだったら天衣無縫を倒せるんじゃ……」
「無理ね。真っ向から切り合っても、確実に殺される。あの人は私のはるか先の剣に生きているから……」
頼りの母さんが勝てないとなると、これでは……。
「じゃあ、本当に逃げるしかないってこと?」
「そうね、そうなるわ。とりあえず、乗降施設に行って駅大陸に逃げましょう。その方が安全なはずだから」
母さんの声色にいつもの明るさはなく、ただただ焦燥だけを感じさせた。
鞭の扱いもどこか乱暴で……。
馬がいななくと馬車が加速、車内が激しく揺れた。
わら床の上で座ってたフィフィが、ううっ不安そうに俯く。
膝を抱えたその姿、俺の目にとても小さく映った。
瞬きがやたら多く、膝に顎を埋めたままで、
「トッくん、僕たち、どうなっちゃうのかなあ?」
「分からない。今は逃げてるけど、一体どうなるか……」
「お家に帰れるのかな? パパとママとこのまま離れ離れになるのは嫌だよ……」
「だ、大丈夫だよ。母さんが何とかしてくれる。きっと……」
フィフィはこくんと頷き、不安なのかピトリと俺に寄り添った。
あ、震えてる。
こいつがここまで弱気になるなんて珍しいな……それほど天衣無縫って男は絶望的なのか。
フィフィでさえこれほどショックを受けたとなると、真奈が心配だ。
目をやると、やはり彼女は体を丸ませて、車の隅で縮こまっていた。
生きているのか死んでいるのか分からないくらい静かであり、その様子は無機質そのものだった。
「大丈夫か、真奈。そう気を落とすなって。何とかなるよ、きっと」
「ご、ごめんなさい。私のせいで、迷惑をかけてしまい……なんてお詫びしたら。もういっそ、私があの人たちに捕まってしまった方が……」
「! め、滅多なこと言うなよ。大丈夫、母さんを信じろ。きっと平和な毎日がやってくるから」
「トレインさん……、わ、分かりました。弱気になって申しわけありません……でした」
微笑みだろうか、真奈のアイカメラの輝きは細く閉じた。
ああくそ、罪の意識を感じさせて、その上、気を遣わせてしまうとは……情けない。
それからしばらく馬車が走れば、乗降施設にたどり着いたのだが、残念なことに何とかなることはなかった。
やってきた俺たちに対して、鉄道員のお姉さんは犯罪者でも見るかのような面持ちでこう言った。
「ざ、残念ですが、お客様に切符は発行できません。あなたたちが何をしたのか存じませんが、本局から出向してきたジスター車掌の意向には逆らえません」
ジスターめ、用意周到なことだ。
以前お姉さんが見せてくれたスマイルは、もはや見る影もなかった。
退路を断たれ、俺たちは成す術もなく馬車に戻った。
打ちのめされた空気の中、母さんはなぜか馭者台に乗らず、ふと宙を仰いだ。
砂埃の混じった風に母さんのマントがバサバサとはためき、俺の心もまたいたずらにざわついた。
そして、
「トレイン、乗馬の仕方は教えたわよね?」
「え……?」
「私が時間を稼ぐわ。そうね、あなたはグラーチェのところに行きなさい。あいつならきっと、列車からの脱出手段を知ってると思うから」
「か、母さん? な、何言ってんだよ」
「さっきの様子だと、鉄道員の子がジスターに連絡を入れたはず。もう時間はないの、分かるでしょトレイン?」
「……い、嫌だ。そんなの嫌だ!」
絶望し、ぺたんと原っぱに崩れ落ちたら、母さんが肩に優しく手を置いた。
顔を上げたら、母さんはまっすぐに俺のことを見つめており、こう言った。
「トレイン、あなたとずっと一緒にいたかった。だけどごめんね、母さんに力がなくて……」
そして腰元の物入れをごそごそと漁り、一枚の古ぼけた写真をくれた。
写真はところどころ擦り切れてボロボロだった。
母さんは写真を見ると、笑みのような怒りのような、何とも言えない複雑な表情を浮かべた。
「あなたが大人になるまで渡すつもりはなかったんだけど……仕方ないわよね。トレイン、列車から降りたらこの人を探しなさい」
セピア調の写真に写っていたのは端正な顔立ちの青年だった。
メガネを掛けてて知的で、そして優しげで穏やかで……。
だけどその眼差しには一本芯が通っている、そんな印象を受けた。
母さんはふと微笑みを浮かべ、一言一言噛みしめるように告げた。
「その人はあなたのパパよ。パパはね、世界の真実を探してずっと先を旅してる。彼を見つけなさい、きっとその人はあなたの力になってくれるから。だってそいつね、あなたと同じ鉄道バカだもの」
「そ、そんなこといきなり言われても、知らないよっ。母さん……一緒に行こう。だって母さんは俺にできた初めてのお母さんなんだ! 死んじゃ嫌だ!」
「ふふっ大丈夫、私は死なないわ。だから、あなたを抱きしめさせて私に勇気をちょうだい。そしたら私は誰にも負けなくなるんだから」
「母さん……?」
「ああ、トレイン……愛しい愛しい私の子……」
母さんは俺のことをギュッと抱きしめて、涙声で俺の名前を何度も何度も呼んだ。
頬ずりをして、俺の頬を熱く濡らした。
そして、はあっ、と切なげに息を漏らし、吹っ切れたように立ち上がった。
剣を抜き、くるりと背を向けた母さんは、陽炎の剣士として戦いの覚悟を決めたのだ。
その声色は自信たっぷりで、堂々としていた。
「よし、元気になったぞ! さーあ、行って来いトレイン。あなたの冒険はここから始まるんだ!」
腰に手を当て仁王立ち、向かうところに敵はなし! という佇まい。
「か、母さん……俺は……」
「行け、我が息子。マナちゃんとフィフィちゃんのことを頼んだよ」
言われ、二人の方に目をやる。
決心できずにいると、真奈とフィフィは俺の手を取り、握った。
ごつごつ硬い手と、もちもちした手だった……。
二人とも俺のことをじっと見つめ、静かに頷いた。
「い、行こう、トッくん」
「トレインさん、私はあなたについていきます」
こんな俺を頼りにしてくれているのか?
ちくしょう、くそう、俺が二人を守らないといけないのか。
これからはもう、母さんは……いない。
目を閉じると涙をこらえ、母さんに別れを告げる。
母さんは負けないと言った、だから俺も母さんを信じて進むしかない。
「今まで、ありがとうございました。いつかまたどこかで、母さん」
「そんなの当たり前でしょ。さ、行ってきな」
「うん、分かった……じゃあね」
こうして母さんとの幸せで温かい日々は終わった。
孤児だった俺に、リリーザ・レイルロードという人は愛を教えてくれた。
いつかまたどこかで――そんな思いを胸に俺は馬を走らせた。




