第二話「変貌」
踏み潰された男の体は一瞬で灰となり、どこからともなく吹いた風に吹き飛ばされていった。
ここに男の死体があったと言っても、もう誰も信じないだろう。
当事者である僕だって今の出来事が本当にあった事なのか、わからないでいた。
これは夢なんじゃないか?
しかし、靴越しに頭を踏み潰した感触が今でもしっかり足の裏に残っている。
僕は思い出すと急に気分が悪くなり、近くにあったトイレに走った。
駆け込んだ個室で、胃の中の物を全て出し終わると、男の最期を思い出す。
僕は、人を、殺してしまった。いくら殺されそうになったとは言え、自分があんな残虐な事をする人間だったとは思わなかった。
殺されると思った後からの、異常な高揚感。自分が自分じゃなくなったような感覚。
そして、あの異常な力はなんだ?殴った相手があんなに遠くまで吹き飛ぶなんて、まるでアニメや漫画の世界じゃないか。
跡形もなくなった男の死体。奴は結局何だったのか。真っ赤に輝く瞳。口から飛び出た牙。
僕の血を吸って、死んだら灰になり跡形もなくなった。まるで、話しで聞く吸血鬼だ。
吸血鬼。確か、血を吸われた人間も吸血鬼になると聞いた事がある。今、僕は一体どんな姿になっているのか。
思い出しても気味が悪い赤い瞳。
僕は恐ろしくなり、個室を飛び出て鏡を見た。顔色が悪いだけで、別段変わった所はない。ペタペタと触ってみる。いつもの僕の顔だ。
僕はほっと胸を撫で下ろした。
そう、胸を撫で下ろしたのだ。
しかし、そこにはいつもと違う感触。
僕は両手でガシッとその膨らみを掴んだ。力を入れると指の隙間から零れるんじゃないかと思うほどに柔らかいそれは、握る力をを弱めると、その弾力性をしっかりと、それでいてこれでもかと見せつけてくる。
無意識に、「ん……」と声が出た。
自分が出した恥ずかしい声に驚いて、とても柔らかかったそれから手を離す。
何故こんな物が? 鏡を見たら髪も少し……どころか大分伸びていた。これはおかしい。明らかにおかしい。
そもそも、吸血鬼に襲われるところからしておかしい。あんなものが実在しているわけないじゃないか。大体、襲うって言ったら若い女の子ではないのか。僕は男だ。と思ったが、体は今女の子だった。変に納得してしまう。
ああ、これはきっと夢なんだ。夢から目覚めればきっと全てが元通り。だったら、こんな世界に長居は無用。さらば夢の世界。そうそう、明日は入学式だった、早く起きないと大変だ。
僕は思いっきり頬をつねる。
「……痛い」
我ながら情けない声が出た。今までの声より高い声に違和感を感じた。
夢じゃない。どうしよう。もしかすると僕はこのまま女の体で生きていかないといけない?想像したら頭がクラクラする。
しばらくの間、頬をつねったポーズのまま呆然としているとメールの着信を告げる音が鳴り響いた。相手は……父さんだ。
内容は、
「チチネムイ スグカエレ スヤスヤ」
人が悩んでるのになんて呑気な……。まあ、こんな所で考えこんでいても仕方ないか。大分、遅くなってしまったし、とりあえず家に帰ることにする。
僕はよろめきながらトイレを出た。
家に帰りつくと大きないびきが聞こえてくるリビングへと向かった。
案の定、父さんがソファーで寝ている。
「もう、父さん! こんなとこで寝てたら風邪ひくよ!」
「うーん……優雨かー、おかえり……って、優美!?」
父さんは飛び起きる。僕を母さんと間違えるなんて、寝ぼけてるにもほどがあるけど、こんな見た目だし仕方ないか。
「優雨、なのか? その胸と髪は……。はっ、まさか父さんに黙って性転換手術を!?」
「違うから! あのね……これには事情があって……」
吸血鬼の話しは伏せて、事情を説明する。
「とても信じられない話しだが、その姿を見たら信じるしかないな……」
上手く説明できた自信はなかったけど、なんとか信じてもらえたみたいだ。
「でも、困ったな……。明日、入学式だってのに、まさか、女の子になっちまうとは……」
そうだった。明日は入学式。それも悩みの種だ。が、僕にはもっと大きな悩みがある。
「……どうしよう。僕、一生このままなのかな……」
15年も男として生きてきたのに、いきなり今日から女の子として生きていけと言われたって、はい、わかりました、と了承できるはずがなかった。
不安そうな僕を見かねたのか、父さんは僕の肩に手を置き、言った。
「心配するな! お前が男だろうが、女だろうが俺と優美の可愛い子供には変わりないんだからな!」
「父さん……」
いけない……ちょっと目が潤んできた。目にぐっと力を入れて泣くのを堪える。この歳で親の前で泣くなんて恥ずかしい。
「とりあえず、明日の入学式には優美のスーツを着て行くといい。服とか色々、優美の荷物から使える物は使っていいからな。あ、それと、学校にはなんとか説明しとくから。制服の事聞かれたらまだ出来てないとでも言っておけ」
いきなり色んな事を一度に言われて、言葉が頭に入らない。
学校に説明って……僕、このまま入学できるの?
「ちょ、ちょっと待って!! ほ、本当に大丈夫? なんて説明するの?」
父さんは、僕の目線まで屈んで笑う。
「そのままの説明をするさ。あそこの校長は俺の恩師だからきっと大丈夫。それに、その姿を見たら信じざるを得ないだろ。今のお前、どこからどう見ても可愛い女の子だからな。流石は俺と優美の子だ」
と、後半は僕をからかうように言った。
「可愛いって、そんな事……ない、と思う」
父さんが変な事を言ったせいで顔が熱くなってきた。
「まあ、今日は遅いから寝ろ。明日寝坊すんなよ!入学式から遅刻なんて嫌だからな!」
「わ、わかってるよ!いつも僕が起こすんだから、父さんこそちゃんと起きてよね!」
「そうだっけ? おやすみー」
とぼけて頭をぽりぽり掻きながら寝室へと歩いて行く父さんを見送る。
「……ありがと、父さん」
僕は誰もいないリビングにそっと呟いた。