手術台の上でも「大丈夫でーす」
私は、とにかく「無駄に気を遣う」性分だ。
他人の顔色、場の空気、相手のちょっとした眉の動き。そういうものを敏感に察知しては、「あ、ここは私が一歩引くべきだな」などと、頼まれてもいないのに勝手に空気を調整して生きている。
でも気遣いの方向がいつも筋違いで、「できもしないのに、気を遣うな。イライラする」と学生時代に先輩にはっきり言われたことがあるくらいだ。
そんな私が今日、人生初の帝王切開を受けることになった。
担当は、吸い込まれそうなほど目力の強い美人女医。里帰り出産のため、彼女と顔を合わせたのは数えるほどしかない。手術室に入ると、看護師や麻酔科医のスタッフが代わる代わる、丁寧に挨拶をしてくれた。
「は、はい、よろしくお願いします……っ」
ガチガチに緊張しながら、言われるがままにベッドの上で背中を丸める。これから硬膜外麻酔が入れられるのだ。
私の脳内は、事前に検索し倒したネット情報で完全にパニックを起こしていた。――『稀に半身不随になるケースも』。その文字が頭の中で点滅する。
世の中には「自分だけは大丈夫」と思う人も多いと聞くが、私はいつだって「この世の不幸はすべて自分に起こるのでは?」と思いながら生きている。
飛行機に乗れば落ちるところまで想像するし、横断歩道の信号待ちでは、できる限り道路際には立たないようにしている。
……まあ、結果的に?誰にも不幸自慢できないような、平凡で平和な人生を歩ませてもらっている。それで十分ありがたい。不屈の精神とかはまったく育っていない生ぬるい人生だが、私にとっては愛おしい日々だ。
「お腹苦しいと思いますけど、もう少し背中を丸められますかー?」
「はい!お任せください」
今日まで大事に庇い続けたお腹も、手術台の上にさえ乗ってしまえば守る必要もない。
先生たちがなんとかしてくれる!安心安全のために、豪華な産後ディナーも産後エステもない、症例数最多の総合病院を選んだのだ。
私は腹が潰れるのも気にせず、背中を丸めた。
「すごい、こんなに丸まります?」
どうやら及第点のようだ。
祈るような気持ちで麻酔針を待つ。
だが、チクリとした痛みのあと、予想に反して何事も起きなかった。
(あ、なんだ、なんともない。よかった……!)
心底胸を撫で下ろす。あとは意識を保ったまま、我が子が生まれてくるのをワクワクしながら待つだけだ。
……そう思っていた。
しかし現実は、そんな感動的な余韻に浸ることを許してはくれなかった。
「これ、冷たいですかー?」
若い麻酔科医の男性が、私の身体のあちこちにアイスノンらしきものを当てていく。
「はい、冷たいです」
私が正直に答えるたび、寝転がる私の頭の上で「そうですか……」と、不穏な気配と共に麻酔が追加されていくのがわかった。何度も何度も繰り返される、そのやりとり。
ふと麻酔科医の顔を見ると、明らかに困惑の色が浮かんでいる。
(えっ……もしかして私、気にしすぎ? 本当はこれ、冷たいって言っちゃいけないやつ? 私のせいで進行を遅らせてる!?)
気まずさに耐えかねた私は、明るく叫んだ。
「あ、なんか、もう大丈夫な気がします!」
その言葉を発した瞬間、ピリついていた手術室の空気がふっと和らいだ気がした。
たぶん、いや絶対に私だけの主観なのだが、その時は「よし、うまく場を収めたぞ」とすら思っていた。
「はーい、じゃあ外側切りまーす」
無表情のまま、美人の担当医がまるで日常の挨拶のように告げた。
もちろん、お腹の様子は衝立があって何も見えない。頭上のライトの銀色の部分に、わずかにぼやけた反射が映る程度だ。
次の瞬間、お腹の表面を、温度を失った「何か」でぴーっとなぞられ、ぐっと引っ張られる感覚が襲った。口に指を入れて、頬を外側に引っ張られるみたいな、そんな感覚だ。
(あれ……? こういうものなの? 麻酔が効いてても、普通は感覚って残るものなのかな?歯医者の麻酔の場合、触られているかもわからないくらいだったような……?)
「次、子宮も切りますねー」
だいたいそんな感じのことを言われた気がする。焦りすぎて、もはやはっきりとは聞き取れなかった。
待ってほしい。これ、やっぱり麻酔が効いていないやつではないか。
しかし、一度「大丈夫」と了承してしまった手前、今さら「すみません嘘つきました!」とは言いにくい。私は医者じゃないのだから、「麻酔が効いてないんじゃないですか!」なんて強気に出られる立場でもない。
痛いか痛くないかで言えば、確実に痛いような気がする。……いや、というか、どうして私はこんな極限状態で自分の「立場」なんて気にしているんだ。
「赤ちゃんでまーす」
先生の声が響き、お腹の奥の何かをぐいぐいと引っ張る気配がした。その瞬間、私の内臓を通して、鈍い衝撃が響き渡る。
――ごき、ごきっ。
(えっ!?)
体内で響いたその異音に、私の心臓が跳ね上がった。
赤ちゃんの骨が外れかかっているのでは? 大丈夫なの!?
パニックは最高潮に達したが、目の前の先生は相変わらず涼しい顔をしている。そんなプロフェッショナルに向かって、「先生、今の音大丈夫ですか?」なんて失礼なことは、私の気遣い精神が絶対に許さない。
緊迫した状況の中、言葉を自由に使えるはずの私が選択した愚かな戦法は、これだった。
「うー、うー……っ」
とりあえず、うめく。
歯医者で痛いとき、削る音にかき消されないよう雰囲気で伝える、あの伝統芸能だ。なぜこの期に及んで言葉を放棄したのか、自分でも全く意味がわからない。
だが、さすがに異常を察したのだろう。美人女医の手がピタリと止まった。
彼女は鋭い目力で麻酔科医を射抜くように睨みつけ、言い放った。
「ちょっと。……硬いんですけど?」
「は、はい……っ!」
麻酔科医の男性が目に見えて焦り出す。
「麻酔追加しますねー!」
そう告げられた直後、これまでのものとは比べ物にならない「何か」が、一気に私の中に流れ込んできた。
「ごほっ、ごほっ……!」
身体が勝手に激しく咳き込む。
(へえ、麻酔が大量に入ると人間って咳き込むんだ……)と、またどうでもいい冷静さで脳内実況をしていると、気弱そうな麻酔科医の男性が、完全に美人女医の顔色を伺いながら私に聞いてきた。
「だ、大丈夫ですかー……?」
その怯えた様子があまりにも不憫で、私の気遣いセンサーがまたしても勝手に作動してしまった。
「だいじょうぶでーす!」
医者じゃないから大丈夫かなんて判断できないのに、私は元気よく返事をしてしまった。
直後、手術室に高らかな産声が響き渡った。
赤ちゃんは、無事に生まれてきてくれた。
それでも、私の緊張はまだ解けなかった。
美人の先生が、私に向かって初めて、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「無事に生まれましたよ」
その笑顔を見た瞬間、私の身体からようやく、すべての余計な力が抜けていった。
「お母さんだよ〜」
看護師さんが赤ちゃんを私の胸元に乗せてくれた。
赤ちゃんは元気よく泣いていた。
私より、ずっと自己主張が上手だった。




