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手術台の上でも「大丈夫でーす」

作者: はなちゃん
掲載日:2026/07/28

 私は、とにかく「無駄に気を遣う」性分だ。


 他人の顔色、場の空気、相手のちょっとした眉の動き。そういうものを敏感に察知しては、「あ、ここは私が一歩引くべきだな」などと、頼まれてもいないのに勝手に空気を調整して生きている。


 でも気遣いの方向がいつも筋違いで、「できもしないのに、気を遣うな。イライラする」と学生時代に先輩にはっきり言われたことがあるくらいだ。


 そんな私が今日、人生初の帝王切開を受けることになった。


 担当は、吸い込まれそうなほど目力の強い美人女医。里帰り出産のため、彼女と顔を合わせたのは数えるほどしかない。手術室に入ると、看護師や麻酔科医のスタッフが代わる代わる、丁寧に挨拶をしてくれた。


「は、はい、よろしくお願いします……っ」

 ガチガチに緊張しながら、言われるがままにベッドの上で背中を丸める。これから硬膜外麻酔が入れられるのだ。

 私の脳内は、事前に検索し倒したネット情報で完全にパニックを起こしていた。――『稀に半身不随になるケースも』。その文字が頭の中で点滅する。


 世の中には「自分だけは大丈夫」と思う人も多いと聞くが、私はいつだって「この世の不幸はすべて自分に起こるのでは?」と思いながら生きている。

 飛行機に乗れば落ちるところまで想像するし、横断歩道の信号待ちでは、できる限り道路際には立たないようにしている。


 ……まあ、結果的に?誰にも不幸自慢できないような、平凡で平和な人生を歩ませてもらっている。それで十分ありがたい。不屈の精神とかはまったく育っていない生ぬるい人生だが、私にとっては愛おしい日々だ。


「お腹苦しいと思いますけど、もう少し背中を丸められますかー?」

「はい!お任せください」

 今日まで大事に庇い続けたお腹も、手術台の上にさえ乗ってしまえば守る必要もない。

 先生たちがなんとかしてくれる!安心安全のために、豪華な産後ディナーも産後エステもない、症例数最多の総合病院を選んだのだ。


 私は腹が潰れるのも気にせず、背中を丸めた。

「すごい、こんなに丸まります?」

 どうやら及第点のようだ。

 祈るような気持ちで麻酔針を待つ。


 だが、チクリとした痛みのあと、予想に反して何事も起きなかった。

(あ、なんだ、なんともない。よかった……!)

 心底胸を撫で下ろす。あとは意識を保ったまま、我が子が生まれてくるのをワクワクしながら待つだけだ。


 ……そう思っていた。

 しかし現実は、そんな感動的な余韻に浸ることを許してはくれなかった。


「これ、冷たいですかー?」

 若い麻酔科医の男性が、私の身体のあちこちにアイスノンらしきものを当てていく。

「はい、冷たいです」


 私が正直に答えるたび、寝転がる私の頭の上で「そうですか……」と、不穏な気配と共に麻酔が追加されていくのがわかった。何度も何度も繰り返される、そのやりとり。

 ふと麻酔科医の顔を見ると、明らかに困惑の色が浮かんでいる。


(えっ……もしかして私、気にしすぎ? 本当はこれ、冷たいって言っちゃいけないやつ? 私のせいで進行を遅らせてる!?)


 気まずさに耐えかねた私は、明るく叫んだ。

「あ、なんか、もう大丈夫な気がします!」

 その言葉を発した瞬間、ピリついていた手術室の空気がふっと和らいだ気がした。

 たぶん、いや絶対に私だけの主観なのだが、その時は「よし、うまく場を収めたぞ」とすら思っていた。


「はーい、じゃあ外側切りまーす」

 無表情のまま、美人の担当医がまるで日常の挨拶のように告げた。


 もちろん、お腹の様子は衝立があって何も見えない。頭上のライトの銀色の部分に、わずかにぼやけた反射が映る程度だ。


 次の瞬間、お腹の表面を、温度を失った「何か」でぴーっとなぞられ、ぐっと引っ張られる感覚が襲った。口に指を入れて、頬を外側に引っ張られるみたいな、そんな感覚だ。

(あれ……? こういうものなの? 麻酔が効いてても、普通は感覚って残るものなのかな?歯医者の麻酔の場合、触られているかもわからないくらいだったような……?)


「次、子宮も切りますねー」

 だいたいそんな感じのことを言われた気がする。焦りすぎて、もはやはっきりとは聞き取れなかった。


 待ってほしい。これ、やっぱり麻酔が効いていないやつではないか。

 しかし、一度「大丈夫」と了承してしまった手前、今さら「すみません嘘つきました!」とは言いにくい。私は医者じゃないのだから、「麻酔が効いてないんじゃないですか!」なんて強気に出られる立場でもない。

 痛いか痛くないかで言えば、確実に痛いような気がする。……いや、というか、どうして私はこんな極限状態で自分の「立場」なんて気にしているんだ。


「赤ちゃんでまーす」


 先生の声が響き、お腹の奥の何かをぐいぐいと引っ張る気配がした。その瞬間、私の内臓を通して、鈍い衝撃が響き渡る。

 ――ごき、ごきっ。

(えっ!?)

 体内で響いたその異音に、私の心臓が跳ね上がった。

 赤ちゃんの骨が外れかかっているのでは? 大丈夫なの!?


 パニックは最高潮に達したが、目の前の先生は相変わらず涼しい顔をしている。そんなプロフェッショナルに向かって、「先生、今の音大丈夫ですか?」なんて失礼なことは、私の気遣い精神が絶対に許さない。


 緊迫した状況の中、言葉を自由に使えるはずの私が選択した愚かな戦法は、これだった。


「うー、うー……っ」


 とりあえず、うめく。


 歯医者で痛いとき、削る音にかき消されないよう雰囲気で伝える、あの伝統芸能だ。なぜこの期に及んで言葉を放棄したのか、自分でも全く意味がわからない。


 だが、さすがに異常を察したのだろう。美人女医の手がピタリと止まった。

 彼女は鋭い目力で麻酔科医を射抜くように睨みつけ、言い放った。


「ちょっと。……硬いんですけど?」

「は、はい……っ!」

 麻酔科医の男性が目に見えて焦り出す。

「麻酔追加しますねー!」


 そう告げられた直後、これまでのものとは比べ物にならない「何か」が、一気に私の中に流れ込んできた。


「ごほっ、ごほっ……!」


 身体が勝手に激しく咳き込む。


(へえ、麻酔が大量に入ると人間って咳き込むんだ……)と、またどうでもいい冷静さで脳内実況をしていると、気弱そうな麻酔科医の男性が、完全に美人女医の顔色を伺いながら私に聞いてきた。


「だ、大丈夫ですかー……?」

 その怯えた様子があまりにも不憫で、私の気遣いセンサーがまたしても勝手に作動してしまった。

「だいじょうぶでーす!」

 医者じゃないから大丈夫かなんて判断できないのに、私は元気よく返事をしてしまった。


 直後、手術室に高らかな産声が響き渡った。


 赤ちゃんは、無事に生まれてきてくれた。

 それでも、私の緊張はまだ解けなかった。


 美人の先生が、私に向かって初めて、ふわりと柔らかく微笑んだ。


「無事に生まれましたよ」


 その笑顔を見た瞬間、私の身体からようやく、すべての余計な力が抜けていった。


「お母さんだよ〜」


 看護師さんが赤ちゃんを私の胸元に乗せてくれた。


 赤ちゃんは元気よく泣いていた。


 私より、ずっと自己主張が上手だった。

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