婚約破棄された途端、この国の“破滅ルート”が見えるようになりました——でも私はもう、選ばれなかった未来を救いません
舞踏会の夜、シャンデリアの光が床に砕けて散るように、私の人生もまた、音もなく崩れ落ちた。
「ノエル・クレシェンド嬢との婚約を、本日をもって解消いたします」
王太子アシュレイの声が広間に響いた瞬間、その場の空気が一変した。
招待客たちのざわめきが、どこか遠い海鳴りのように耳に届く。
「理由を、聞かせてもらえますか」
私は驚くほど静かな声でそう言えた。
五年間、私はこの人を支え続けてきた。
政務の調整も、貴族間の仲介も、公式行事の準備も——すべて、この人のために。
「君は……冷たい。いつも、どこか遠くにいるような気がする」
アシュレイが困ったように眉を下げた。
善意の滲んだ表情だった。
だからこそ、なおのこと胸が痛い。
「愛を感じられないんだ。もっと……温かくしてくれる人が、傍にいてほしい」
彼の視線が、会場の端に立つ女性へと向いた。
侯爵家の令嬢、エメリー・サンクレール。
明るい笑顔の似合う、春のような人だった。
私は何も言えなかった。
冷たい、という言葉が胸に刺さったまま、抜けなかった。
冷たかったのではない。
ただ、感情を表に出す余裕がなかっただけだ。
いつも次の問題を考えていた。
次の交渉を、次の調整を、次にアシュレイが困らないための準備を。
——でも、それは言い訳にすぎないのかもしれない。
そう思った瞬間だった。
視界が、白く灼けた。
眩暈ではない。
光でもない。
何か——巨大な「情報」が、頭の中に流れ込んでくる感覚。
私は床に倒れることなく、ただその場に立ち尽くしていた。
見えていた。
確かに、見えていた。
この国の、三年後が。
燃える都市の輪郭。
押し寄せる民衆の群れ。
崩れていく王城の旗。
そして——廃墟となった議会の建物の前で、一人たたずむアシュレイの背中。
「……この国、滅びるのね」
声に出していたとは、気づかなかった。
隣に立っていた侍女が息を呑んだ。
招待客の一部が、こちらを振り返る。
でも私には、もうその場の空気を整える気力がなかった。
頭の中に広がるビジョンは、まだ続いていた。
財務局の建物が閉鎖されている。
王族の紋章が地に落ちている。
かつて私が仲介した北部と南部の貴族たちが、剣を抜いて向き合っている。
ひとつひとつが、鮮明に、容赦なく映し出された。
やがてビジョンは静かに薄れ、私はシャンデリアの光の中に戻ってきた。
広間には、まだざわめきが続いている。
アシュレイは、エメリー嬢に何かを囁きながら微笑んでいた。
私はその光景を、ひどく遠いものとして眺めた。
婚約が破棄された——その事実よりも、今しがた見た未来の映像の方が、何倍も重く脳裏に焼きついていた。
翌朝、私はクレシェンド公爵家の書斎に一人でいた。
窓の外には初夏の緑が広がっている。
昨夜の舞踏会が嘘のように、世界は穏やかな朝の顔をしていた。
目を閉じると、またビジョンが見える。
昨夜だけの幻ではなかった。
どうやら「見える力」は、婚約の破綻とともに目覚めたらしい。
詳細を確認するように、改めて未来を辿ってみる。
最初に来るのは、財政の崩壊だ。
アシュレイが即位して二年目、北部三州との税収協定が白紙に戻される。
交渉役を担っていたのは——私だった。
私が五年かけて構築した信頼関係が、白紙になる。
次に来るのは、貴族間の分裂だ。
西部のレヴァン侯爵家と東部のドレア伯爵家が対立し、王国議会は機能を失う。
私はあの二家の間に立って、幾度も調停を行なってきた。
親族間の積年の恨みを、忍耐強く、時間をかけて溶かしてきた。
その糸が、切れる。
そして最後に、民衆の暴動だ。
物価の高騰。
穀物の不作。
王家への不信感の爆発。
すべての引き金は、ひとつの欠落に辿り着く。
私がいないこと、だ。
——別に、驕りではない。
冷静に事実として受け止める。
私はこの五年間、ただ目の前の問題を処理し続けてきた。
誰かがやらなければならなかったから、やっていた。
アシュレイが見落とす角度から、私が補っていた。
ただ、それだけのことだ。
でも今、私がいなくなれば、誰もその角度を見ていない。
私はゆっくりとお茶を一口飲んだ。
苦みと香りが、喉の奥に落ちていく。
救える。
技術的には、確かに救える。
今からでも王宮に戻り、側近たちと協力すれば、破滅のルートは変えられる。
ビジョンはそれも見せてくれた。
もし私が戻れば——国は安定する。
財政協定は守られ、貴族間の対立は収まり、王国は存続する。
だが。
その未来の中で、私はどこにいるのか。
目を凝らすように、そのルートを追う。
王宮の廊下を歩く私が見えた。
黙々と書類を整える私が見えた。
誰かに礼を言われることもなく、ただ機能として存在する私が、そこにいた。
アシュレイは、エメリー嬢の笑顔を見ている。
側近たちは、私の働きに安堵している。
誰も「ノエル」という人間を見ていない。
「救える。でも、それは同じことの繰り返しだ」
声に出すと、言葉の重みがはっきりした。
三日が経った。
屋敷に籠もって過ごした三日間、私はほとんど誰とも話さなかった。
父は心配して何度か声をかけてきたが、「少し考えたいことがある」と答えると、それ以上は踏み込んでこなかった。
父らしい、静かな優しさだった。
未来のビジョンは、まだ見えていた。
むしろ、見ようとしなくても流れ込んでくることが増えていた。
国が傾いていく映像と、私が戻った場合の映像が、交互に頭を過ぎる。
どちらの未来も、くっきりと、痛いほど鮮明だった。
そんな四日目の朝、来客があった。
「ノエル様。レナード・ヴォスト様がお見えです」
侍女の声に、私は顔を上げた。
レナード・ヴォスト。
王太子の筆頭側近であり、五年間、私と共に王宮の実務を支えてきた男だ。
「通して」
しばらくして応接室に現れた彼は、普段の落ち着きが少しだけ崩れていた。
目の下にうっすらと影があり、背広の袖がわずかに乱れている。
几帳面な彼にしては、珍しいことだった。
「急に押しかけて申し訳ありません」
レナードは深く頭を下げた。
「いいえ、構いません。座ってください」
彼が腰を下ろすと、一瞬の沈黙があった。
窓の外で風が木の葉を揺らす音がする。
「……正直に話します」
彼は静かに、しかし迷いなく切り出した。
「殿下はあの夜以来、政務に集中できておられない。エメリー嬢との関係を公にしたいという意向もあり、周囲がその対応に追われています。北部のシェルマン州との税収協議が来月に迫っているのですが、担当の文官が調整の糸口を見失っている状態で……」
私はそっとお茶のカップを置いた。
「それを、私に伝えに来たのですか」
「……お願いに来たのです」
彼の目が、まっすぐに私を見た。
誠実な目だった。
この人は嘘をつかない。
それを私はよく知っている。
「ノエル様がいなければ、あの国は立ちいかなくなる。私にはわかっています。殿下にはまだわかっていないかもしれないけれど、私には——はっきりとわかっています」
胸の奥で、何かがじくりと痛んだ。
この言葉は、嬉しいはずだった。
五年間、ずっと聞きたかった言葉だったかもしれない。
「あなたのおかげで回っています」という、たったそれだけの言葉を。
なのに今、その言葉は私を縛るものとして降ってきた。
「少し、考えさせてください」
私は穏やかに答えた。
レナードは何かを言いかけ、でも最終的には黙って頷いた。
彼が帰った後、私は長いこと窓の外を見ていた。
救えるのに、救わない。
その選択が正しいのかどうか、まだわからなかった。
ただ——正しいかどうかという問いそのものが、もしかしたらずっと私を間違った方向へ引っ張ってきたのかもしれない、とも思い始めていた。
翌日、私は気分転換に街へ出た。
王都の下町にある古書市が、週に一度開かれることを私は知っていた。
王宮勤めの頃は一度も行けなかった場所だ。
休日というものが、実質存在しなかったから。
石畳の上に並んだ古い本の背表紙を眺めながら歩いていると、ふいに声をかけられた。
「その本、面白いですよ」
振り返ると、一人の青年が立っていた。
齢は私と同じくらいか、少し上だろうか。
上質ではあるが飾り気のない服装で、右手に分厚い本を持っていた。
見覚えのない顔だった。
「隣国の植物誌ですか」
私が手に持っていた本を見て、彼は少し笑った。
「ええ。特に第三章の高山植物の分布が興味深い。あの辺りは実際に行ってみたことがあって」
「隣国を旅されているんですか」
「旅というか、仕事で。薬草の取引をしています。カルヴィス商会という、小さな商会ですが」
彼はそう言って、少し照れたように後頭部を掻いた。
名をフェルナンドと言った。
私たちは気がつけば、書棚の間に立ったまま小一時間ほど話し込んでいた。
植物の話から始まり、隣国の気候の話に移り、やがて——気づかぬうちに、私は自分のことを話していた。
王宮での仕事のこと。
婚約のこと。
そして、今の自分の迷いのこと。
全部を話したわけではない。
でも、核心に近い部分を。
フェルナンドはずっと黙って聞いていた。
急に意見を言ったり、励ましたりしなかった。
ただ真剣に、聞いていた。
私が話し終えると、しばらく間があった。
「……ひとつ、思ったことを言ってもいいですか」
「どうぞ」
「その国は、あなたがいないと成り立たないんですよね」
「そう、なります」
「それって——最初から、歪んでいたんじゃないでしょうか」
私は、息を止めた。
「あなたが支えていたから見えなかっただけで。あなたが一人で埋めていた穴が、国の構造の中にずっとあった。それはあなたの責任じゃない。あなたが去ることで穴が見えるようになるなら、それはむしろ——必要なことなのかもしれない」
「でも、人が苦しむかもしれない」
「そうかもしれません。でも、あなたが戻ることで穴が塞がれたとして——次はどうなりますか。あなたがまたすべてを抱えて、また誰にも見えない形で消耗して。それで、その国は本当に良くなりますか」
答えられなかった。
フェルナンドは、責めるような口調ではなかった。
ただ淡々と、でも確かに、私が目を逸らしていたものを言葉にしていた。
「あなたがいないと成り立たない国は、最初から歪んでいる」
その言葉が、頭の中で静かに反響した。
「……ありがとう」
私がそう言うと、彼は少し驚いたような顔をした後、柔らかく笑った。
「いい答えが見つかるといいですね」
それだけ言って、彼は古書の列の向こうに消えていった。
私は手の中の植物誌を見下ろした。
その薄い重さが、やけに心地よかった。
翌週、アシュレイが屋敷を訪ねてきた。
予告もなく、護衛だけを連れて。
使用人から報告を受けた時、私はすでに来る理由がわかっていた。
応接室で向き合うと、アシュレイはいつもより少しやつれて見えた。
彼にしては珍しく、言葉を探すように視線が泳いでいた。
「ノエル、その……」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」
私は静かに、でも毅然と促した。
彼は一度息を吸い込み、顔を上げた。
「戻ってきてくれ。君が必要だ」
五年前だったら、この言葉に胸が震えたかもしれない。
でも今は——ただ、冷静に受け取っていた。
「必要とはどういう意味ですか。私という人間が、ですか。それとも、私という機能が」
「……それは」
「私が笑えないから冷たいと言った。愛が感じられないと言った。でも今、必要だと言う。その必要は、どこから来ていますか」
アシュレイは答えられなかった。
責めているのではない。
ただ、確かめたかった。
未来のビジョンが頭の端にあった。
私が頷けば、国は安定する。
その映像は確かに見えていた。
でも私の中には、もうひとつの映像もある。
書類の山の前で、誰にも見えない場所で消耗していく私の姿が。
何年も何年も、同じことを繰り返す私の姿が。
「……いいえ」
声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
アシュレイが顔を強張らせた。
「私はもう、"使い潰されるための未来"は選びません」
部屋の中が静まり返った。
シャンデリアの光が、真昼の陽射しの中でひっそりと揺れていた。
「ノエル——」
「アシュレイ殿下。あなたは善い人だと思っています。でもそれと、私が戻るかどうかは、別の話です」
私は立ち上がった。
体が震えるかと思っていたが、不思議なほど落ち着いていた。
「レナードさんをはじめ、有能な方々がいる。私がいなければ何もできないわけではない。ただ——今まで、私がやりすぎていただけです」
アシュレイは何も言えないまま、しばらくその場に座っていた。
やがて立ち上がり、礼もそこそこに応接室を出ていった。
廊下に馬の蹄の音が遠ざかっていくのを、私は窓越しに聞いていた。
胸の奥にあるのは、罪悪感ではなかった。
もっと静かな、別の感覚だった。
それから半月後、私はクレシェンド公爵家の離れを使って、薬草の小さな研究室を作り始めた。
古書市で買った植物誌をきっかけに、薬草の調合に興味を持っていたのだ。
フェルナンドの商会から仕入れた高山植物の標本が、今は窓辺に並んでいる。
王都では、少しずつざわめきが広がり始めていると耳にする。
北部との協議が難航しているらしい。
議会でも摩擦が起きているとか。
完全な破滅ではない。
でも、崩れかけている。
私はそれを聞いても、駆け出していかなかった。
静かな朝、研究室の椅子に腰かけながら、ふと目を閉じた。
婚約が破綻した夜から続いていた未来視が、今また静かに発動する。
今度見えたのは、自分の未来だった。
小さな薬草園が見えた。
どこかの地方の、穏やかな土地。
フェルナンドと思しき人物と何かを話しながら、私は笑っていた。
声が聞こえるわけではないけれど、その表情は——今まで見たどの未来の私よりも、満たされていた。
目を開けると、朝の光が標本の瓶を透かして床に落ちていた。
「初めて、"自分のための未来"を選んだ」
声に出してみると、その言葉はひどく自然に、空気に溶けた。
窓の外では、初夏の風が薬草の葉を揺らしている。
世界は今日も、静かに美しく、続いていく。
終幕




