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今更泣きついても遅い。私はもう疲れました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/02

「君との婚約は破棄だ」


 王太子フェリアスの声は、驚くほど軽かった。


 私は手にしていた書類を机に置き、静かに顔を上げる。執務室の窓から差し込む午後の光が、彼の金髪を照らしていた。


「理由をお聞きしてもよろしいですか」


「聖女エリシアと愛し合っている。君も知っているだろう」


 知っている。三ヶ月前から、彼の様子がおかしかったことも、エリシアと密会を重ねていたことも。


「そうですか」


「君のためを思ってのことだ。愛のない結婚は不幸だろう」


 君のため。


 その言葉を、この三年間で何度聞いただろう。


「分かりました」


 私は立ち上がり、深く一礼した。


「どうかお幸せに」


「……それだけか」


 フェリアスが怪訝そうに眉を寄せる。


「はい。他に何か」


「いや……」


 彼は言葉を濁し、視線を逸らした。


 私は執務室を出る。廊下には誰もいない。いつも通りの、静かな王宮だった。


 もう疲れた。


 心の中でそう呟いて、私は自室へと向かった。



 部屋に戻ると、机の上に一冊の革装丁の本があった。


 業務日誌。


 三年間、私が王宮で行ってきた全ての仕事を記録したものだ。予算管理、行事の調整、各国との書簡のやり取り、使用人の配置……誰も気づいていなかったが、この王宮の裏側は、私が一人で回していた。


 フェリアスは知らない。エリシアも知らない。


 誰も、私の仕事を見ていなかった。


 そう思っていた。


 コンコン。


 扉を叩く音がして、私は顔を上げる。


「リゼット嬢、入ってもよろしいですか」


 低く落ち着いた声。公爵クレイン・フォン・ノーザンベルクだった。


「どうぞ」


 扉が開き、黒髪の男性が入ってくる。氷のように冷たい銀の瞳が、私を静かに見つめた。


「婚約破棄、お聞きしました」


「ええ」


「お辛いでしょう」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「むしろ、楽になりました」


 クレインは何も言わず、私の隣に立つ。彼の視線が、机の上の日誌に向けられた。


「三年間、よく耐えられましたね」


「……ご存知だったのですか」


「見ていました。ずっと」


 彼の声には、感情が滲んでいなかった。でも、その言葉が嘘でないことは分かった。


「今後、どうされますか」


「実家に帰ります。もう王宮にいる理由がありませんから」


「そうですか」


 クレインは頷き、踵を返す。


「では、また」


 扉が閉まる音がして、私は一人になった。


 また。


 その言葉の意味を考える余裕もなく、私は荷造りを始めた。



 翌日、王宮は混乱に包まれていた。


「予算書が見つからない!」


「使節団への返書は誰が書くんだ!」


「晩餐会の座席配置が決まっていない!」


 廊下を歩くたびに、悲鳴のような声が聞こえてくる。


 私は足を止めず、王宮の正門へと向かった。


「リゼット様!」


 後ろから声がかかる。振り返ると、侍女長が息を切らして走ってきた。


「お待ちください! 王太子殿下がお呼びです!」


「私はもう王太子の婚約者ではありません」


「ですが……」


「失礼します」


 私は踵を返し、歩き出す。


 侍女長の制止の声が背中に届いたが、振り返らなかった。


 正門を出ると、一台の馬車が待っていた。ノーザンベルク公爵家の紋章が扉に刻まれている。


「お待ちしておりました」


 御者が扉を開けると、中からクレインが降りてくる。


「ご実家までお送りします」


「ご親切にありがとうございます。でも……」


「構いません」


 彼は私の荷物を受け取り、馬車に載せた。


「どうぞ」


 差し出された手を見つめる。大きく、温かそうな手だった。


 私はその手を取り、馬車に乗り込んだ。



 馬車が王宮を離れて一時間ほど経った頃、クレインが口を開いた。


「リゼット嬢」


「はい」


「あなたの業務日誌を、王にお見せしてもよろしいですか」


 私は彼を見つめる。


「……なぜ、そのようなことを」


「真実を知るべき人がいます」


 彼の銀の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。


「三日後、王宮で晩餐会があります。そこで、全てが明らかになるでしょう」


「私は行きません」


「分かっています。でも、あなたには出席していただきたい」


「理由は」


「あなたの名誉のためです」


 名誉。


 そんなものは、もうどうでもよかった。


 でも、クレインの真剣な眼差しを見ていると、断る言葉が出てこなかった。


「……分かりました」


 私は頷いた。


 クレインは小さく微笑む。初めて見る、彼の笑顔だった。



 三日後、私は再び王宮にいた。


 晩餐会の会場は、貴族たちで埋め尽くされている。正装した人々が談笑し、楽団が優雅な旋律を奏でていた。


「リゼット」


 フェリアスが近づいてくる。彼の隣には、エリシアがいた。


「戻ってきてくれたのか」


「いいえ」


 私は首を横に振る。


「晩餐会に招待されただけです」


「そうか……」


 フェリアスは言葉を濁す。彼の顔には、疲労の色が浮かんでいた。


「あの、リゼット様……」


 エリシアが遠慮がちに口を開く。


「もしよろしければ、また王宮の仕事を手伝っていただけませんか。私たち、何をすればいいのか分からなくて……」


「お断りします」


 私は即座に答えた。


「え……」


「私はもう、王宮の人間ではありません」


 エリシアの顔が青ざめる。フェリアスが彼女の肩を抱き、私を睨んだ。


「冷たいな」


「そうでしょうか」


 私は静かに微笑む。


「あなた方が選んだ道です」


 その時、晩餐会場の扉が開いた。


 王が入場し、全員が一斉に跪く。


「面を上げよ」


 王の声が響き、人々が立ち上がる。


「本日は、重要な報告がある」


 王は高座に着き、一冊の本を掲げた。


 私の業務日誌。


 会場がざわめく。


「この三年間、王宮の運営を一手に担っていた者がいる」


 王の視線が、私に向けられた。


「伯爵令嬢、リゼット・フォン・アルトハイムだ」


 フェリアスとエリシアの顔が、見る見る青ざめていく。


「予算管理、外交文書、行事の調整……全て、彼女が行っていた。にもかかわらず、王太子フェリアスは、彼女を無能と決めつけ、婚約を破棄した」


 王の声は、静かだが力強かった。


「フェリアス」


「は、はい」


「お前は、自分の婚約者が何をしていたか、知っていたか」


「……いいえ」


「エリシア」


「はい」


「お前は、王太子妃として何ができる」


 エリシアは口を開くが、言葉が出てこない。


 沈黙が会場を支配する。


「リゼット嬢」


 王が私を呼んだ。


「はい」


「お前に、王宮への復帰を命じる」


「お断りします」


 会場がどよめいた。


 王も、驚いたように目を見開く。


「理由を聞かせてもらおう」


「私はもう、疲れました」


 私は真っ直ぐに王を見つめる。


「三年間、誰にも認められず、ただ働き続けました。もう、あの日々には戻りたくありません」


「……そうか」


 王は深く息を吐く。


「ならば、フェリアス」


「はい」


「お前には、王宮の業務を三ヶ月以内に正常化させることを命じる。できなければ、王太子の地位を剥奪する」


 フェリアスの顔が、真っ青になった。


「ちょ、父上!」


「黙れ。自分で蒔いた種だ」


 王は立ち上がり、会場を去っていく。


 残されたフェリアスとエリシアは、呆然と立ち尽くしていた。


「リゼット……」


 フェリアスが私に手を伸ばす。


「頼む、戻ってきてくれ。君がいないと、僕は……」


「今更泣きついても遅いのです」


 私は彼の手を払う。


「あなたは私を選ばなかった。それだけのことです」


「でも……」


「お幸せに」


 私は背を向け、会場を後にしようとした。


 その時、一つの声が会場に響いた。


「お待ちください」


 クレインだった。


 彼は人々の間を歩き、私の前に立つ。


 そして、片膝をついた。


「リゼット・フォン・アルトハイム嬢」


 銀の瞳が、私を見上げる。


「私と婚約していただけませんか」


 会場が、静まり返った。


「……え」


「三年間、あなたを見ていました。あなたの誠実さ、強さ、優しさを」


 彼は懐から小さな箱を取り出す。


「私はあなたを、誰にも渡したくありません」


 箱を開けると、深い青の宝石が嵌められた指輪が現れた。


「どうか、私の妻になってください」


 私は彼を見つめる。


 冷たいと思っていた銀の瞳が、今は温かく私を見つめていた。


「……はい」


 私は頷いた。


 クレインは立ち上がり、私の左手を取る。そして、指輪を薬指に嵌めた。


 会場が、拍手に包まれる。


 フェリアスの顔は、見なかった。


 もう、関係のない人だから。



 晩餐会が終わり、クレインと共に王宮を出る。


 馬車の中で、私は指の指輪を見つめていた。


「お気に召しませんでしたか」


「いいえ」


 私は首を横に振る。


「とても綺麗です」


「ノーザンベルクの海の色です」


 クレインは窓の外を見つめる。


「あなたには、あの海を見せたい。澄んだ青が、どこまでも続く景色を」


「楽しみです」


 私は微笑む。


「でも、まだ信じられないんです。私が、公爵夫人になるなんて」


「信じてください」


 クレインは私の手を取る。


「私はあなたを、決して手放しません」


「……独占欲、強いんですね」


「ええ」


 彼は認める。


「三年間、王太子の隣にいるあなたを見ているのは、苦痛でした」


「それなら、もっと早く声をかけてくださればよかったのに」


「タイミングを待っていました」


「タイミング」


「あなたが、自由になる時を」


 クレインは私を見つめる。


「今、あなたは自由です。そして、私はあなたを選びました」


 彼の手が、私の頬に触れる。


「私も、あなたを選びます」


 私は彼の手に自分の手を重ねた。


 馬車が、ノーザンベルクへと向かって走り出す。


 窓の外には、満天の星空が広がっていた。


 私の新しい人生が、今、始まろうとしていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「もう疲れた」と思う主人公が、静かに自分を取り戻す物語を書きました。


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