今更泣きついても遅い。私はもう疲れました
「君との婚約は破棄だ」
王太子フェリアスの声は、驚くほど軽かった。
私は手にしていた書類を机に置き、静かに顔を上げる。執務室の窓から差し込む午後の光が、彼の金髪を照らしていた。
「理由をお聞きしてもよろしいですか」
「聖女エリシアと愛し合っている。君も知っているだろう」
知っている。三ヶ月前から、彼の様子がおかしかったことも、エリシアと密会を重ねていたことも。
「そうですか」
「君のためを思ってのことだ。愛のない結婚は不幸だろう」
君のため。
その言葉を、この三年間で何度聞いただろう。
「分かりました」
私は立ち上がり、深く一礼した。
「どうかお幸せに」
「……それだけか」
フェリアスが怪訝そうに眉を寄せる。
「はい。他に何か」
「いや……」
彼は言葉を濁し、視線を逸らした。
私は執務室を出る。廊下には誰もいない。いつも通りの、静かな王宮だった。
もう疲れた。
心の中でそう呟いて、私は自室へと向かった。
部屋に戻ると、机の上に一冊の革装丁の本があった。
業務日誌。
三年間、私が王宮で行ってきた全ての仕事を記録したものだ。予算管理、行事の調整、各国との書簡のやり取り、使用人の配置……誰も気づいていなかったが、この王宮の裏側は、私が一人で回していた。
フェリアスは知らない。エリシアも知らない。
誰も、私の仕事を見ていなかった。
そう思っていた。
コンコン。
扉を叩く音がして、私は顔を上げる。
「リゼット嬢、入ってもよろしいですか」
低く落ち着いた声。公爵クレイン・フォン・ノーザンベルクだった。
「どうぞ」
扉が開き、黒髪の男性が入ってくる。氷のように冷たい銀の瞳が、私を静かに見つめた。
「婚約破棄、お聞きしました」
「ええ」
「お辛いでしょう」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「むしろ、楽になりました」
クレインは何も言わず、私の隣に立つ。彼の視線が、机の上の日誌に向けられた。
「三年間、よく耐えられましたね」
「……ご存知だったのですか」
「見ていました。ずっと」
彼の声には、感情が滲んでいなかった。でも、その言葉が嘘でないことは分かった。
「今後、どうされますか」
「実家に帰ります。もう王宮にいる理由がありませんから」
「そうですか」
クレインは頷き、踵を返す。
「では、また」
扉が閉まる音がして、私は一人になった。
また。
その言葉の意味を考える余裕もなく、私は荷造りを始めた。
翌日、王宮は混乱に包まれていた。
「予算書が見つからない!」
「使節団への返書は誰が書くんだ!」
「晩餐会の座席配置が決まっていない!」
廊下を歩くたびに、悲鳴のような声が聞こえてくる。
私は足を止めず、王宮の正門へと向かった。
「リゼット様!」
後ろから声がかかる。振り返ると、侍女長が息を切らして走ってきた。
「お待ちください! 王太子殿下がお呼びです!」
「私はもう王太子の婚約者ではありません」
「ですが……」
「失礼します」
私は踵を返し、歩き出す。
侍女長の制止の声が背中に届いたが、振り返らなかった。
正門を出ると、一台の馬車が待っていた。ノーザンベルク公爵家の紋章が扉に刻まれている。
「お待ちしておりました」
御者が扉を開けると、中からクレインが降りてくる。
「ご実家までお送りします」
「ご親切にありがとうございます。でも……」
「構いません」
彼は私の荷物を受け取り、馬車に載せた。
「どうぞ」
差し出された手を見つめる。大きく、温かそうな手だった。
私はその手を取り、馬車に乗り込んだ。
馬車が王宮を離れて一時間ほど経った頃、クレインが口を開いた。
「リゼット嬢」
「はい」
「あなたの業務日誌を、王にお見せしてもよろしいですか」
私は彼を見つめる。
「……なぜ、そのようなことを」
「真実を知るべき人がいます」
彼の銀の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「三日後、王宮で晩餐会があります。そこで、全てが明らかになるでしょう」
「私は行きません」
「分かっています。でも、あなたには出席していただきたい」
「理由は」
「あなたの名誉のためです」
名誉。
そんなものは、もうどうでもよかった。
でも、クレインの真剣な眼差しを見ていると、断る言葉が出てこなかった。
「……分かりました」
私は頷いた。
クレインは小さく微笑む。初めて見る、彼の笑顔だった。
三日後、私は再び王宮にいた。
晩餐会の会場は、貴族たちで埋め尽くされている。正装した人々が談笑し、楽団が優雅な旋律を奏でていた。
「リゼット」
フェリアスが近づいてくる。彼の隣には、エリシアがいた。
「戻ってきてくれたのか」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「晩餐会に招待されただけです」
「そうか……」
フェリアスは言葉を濁す。彼の顔には、疲労の色が浮かんでいた。
「あの、リゼット様……」
エリシアが遠慮がちに口を開く。
「もしよろしければ、また王宮の仕事を手伝っていただけませんか。私たち、何をすればいいのか分からなくて……」
「お断りします」
私は即座に答えた。
「え……」
「私はもう、王宮の人間ではありません」
エリシアの顔が青ざめる。フェリアスが彼女の肩を抱き、私を睨んだ。
「冷たいな」
「そうでしょうか」
私は静かに微笑む。
「あなた方が選んだ道です」
その時、晩餐会場の扉が開いた。
王が入場し、全員が一斉に跪く。
「面を上げよ」
王の声が響き、人々が立ち上がる。
「本日は、重要な報告がある」
王は高座に着き、一冊の本を掲げた。
私の業務日誌。
会場がざわめく。
「この三年間、王宮の運営を一手に担っていた者がいる」
王の視線が、私に向けられた。
「伯爵令嬢、リゼット・フォン・アルトハイムだ」
フェリアスとエリシアの顔が、見る見る青ざめていく。
「予算管理、外交文書、行事の調整……全て、彼女が行っていた。にもかかわらず、王太子フェリアスは、彼女を無能と決めつけ、婚約を破棄した」
王の声は、静かだが力強かった。
「フェリアス」
「は、はい」
「お前は、自分の婚約者が何をしていたか、知っていたか」
「……いいえ」
「エリシア」
「はい」
「お前は、王太子妃として何ができる」
エリシアは口を開くが、言葉が出てこない。
沈黙が会場を支配する。
「リゼット嬢」
王が私を呼んだ。
「はい」
「お前に、王宮への復帰を命じる」
「お断りします」
会場がどよめいた。
王も、驚いたように目を見開く。
「理由を聞かせてもらおう」
「私はもう、疲れました」
私は真っ直ぐに王を見つめる。
「三年間、誰にも認められず、ただ働き続けました。もう、あの日々には戻りたくありません」
「……そうか」
王は深く息を吐く。
「ならば、フェリアス」
「はい」
「お前には、王宮の業務を三ヶ月以内に正常化させることを命じる。できなければ、王太子の地位を剥奪する」
フェリアスの顔が、真っ青になった。
「ちょ、父上!」
「黙れ。自分で蒔いた種だ」
王は立ち上がり、会場を去っていく。
残されたフェリアスとエリシアは、呆然と立ち尽くしていた。
「リゼット……」
フェリアスが私に手を伸ばす。
「頼む、戻ってきてくれ。君がいないと、僕は……」
「今更泣きついても遅いのです」
私は彼の手を払う。
「あなたは私を選ばなかった。それだけのことです」
「でも……」
「お幸せに」
私は背を向け、会場を後にしようとした。
その時、一つの声が会場に響いた。
「お待ちください」
クレインだった。
彼は人々の間を歩き、私の前に立つ。
そして、片膝をついた。
「リゼット・フォン・アルトハイム嬢」
銀の瞳が、私を見上げる。
「私と婚約していただけませんか」
会場が、静まり返った。
「……え」
「三年間、あなたを見ていました。あなたの誠実さ、強さ、優しさを」
彼は懐から小さな箱を取り出す。
「私はあなたを、誰にも渡したくありません」
箱を開けると、深い青の宝石が嵌められた指輪が現れた。
「どうか、私の妻になってください」
私は彼を見つめる。
冷たいと思っていた銀の瞳が、今は温かく私を見つめていた。
「……はい」
私は頷いた。
クレインは立ち上がり、私の左手を取る。そして、指輪を薬指に嵌めた。
会場が、拍手に包まれる。
フェリアスの顔は、見なかった。
もう、関係のない人だから。
晩餐会が終わり、クレインと共に王宮を出る。
馬車の中で、私は指の指輪を見つめていた。
「お気に召しませんでしたか」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「とても綺麗です」
「ノーザンベルクの海の色です」
クレインは窓の外を見つめる。
「あなたには、あの海を見せたい。澄んだ青が、どこまでも続く景色を」
「楽しみです」
私は微笑む。
「でも、まだ信じられないんです。私が、公爵夫人になるなんて」
「信じてください」
クレインは私の手を取る。
「私はあなたを、決して手放しません」
「……独占欲、強いんですね」
「ええ」
彼は認める。
「三年間、王太子の隣にいるあなたを見ているのは、苦痛でした」
「それなら、もっと早く声をかけてくださればよかったのに」
「タイミングを待っていました」
「タイミング」
「あなたが、自由になる時を」
クレインは私を見つめる。
「今、あなたは自由です。そして、私はあなたを選びました」
彼の手が、私の頬に触れる。
「私も、あなたを選びます」
私は彼の手に自分の手を重ねた。
馬車が、ノーザンベルクへと向かって走り出す。
窓の外には、満天の星空が広がっていた。
私の新しい人生が、今、始まろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「もう疲れた」と思う主人公が、静かに自分を取り戻す物語を書きました。
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