第8章:目覚めの前夜
二年が過ぎ、ネリアはまもなく五歳の誕生日を迎えようとしていた。
家族の暮らしは穏やかに続いていた。
オークマウの事故は村に影を落としたままだったが、人々はそれでも日常を取り戻していた。
「さあネリア、起きなさい。
私と市場に行くなら、起きないとだめよ、可愛い子」
ゼフィラはそう囁きながら、ネリアの頬をそっと撫でた。
ネリアは大きく伸びをし、半分閉じたままの瞳で、重たそうに身を起こした。
「起きたら台所に来なさい。
朝ごはんを用意するから、いい?」
ゼフィラはそう付け加えた。
彼女は部屋を出ていき、ネリアはゆっくりと目を覚ました。
毛布を払いのけ、小さな羊毛のミュフランを履く。
台所へ向かうと、温めた乳の匂いがゆっくりと広がり始めていた。
「おはよう、お母さん。
なに食べるの?」
ネリアはあくびを噛み殺しながら言った。
「ミルクに浸せるように、金色の月を焼いてあげたわ」
ゼフィラはそう答えた。
彼女はネリアの前に杯を置き、乳を注ぎ、まだ湯気の立つ金色の月を三つ並べた。
立ちのぼる甘い香りに、ネリアの腹が鳴り、早く食べたい衝動に駆られる。
なんだか不思議。
蜂蜜入りのクロワッサンみたいなのに、作り方は全然違うのに。
ネリアはそう思い、不思議そうに眺めた。
彼女は小さな月を一つ手に取り、乳に浸した。
噛むと、生地が歯の下でさくりと音を立てる。
表面の蜂蜜が舌に触れて溶け、味の重なりにネリアは思わず力を抜いた。
「ありがとうお母さん。
すっごくすっごくおいしい」
口いっぱいに頬張ったまま、ネリアは言った。
「まったく、この小さな食いしん坊。
口に物を入れたまま話さないの。
ほら、口を拭きなさい、乳が垂れてるわ」
ゼフィラはくすくす笑いながら布巾を差し出した。
朝食の残りは終始和やかだった。
ゼフィラはネリアと軽口を叩き合い、ネリアはわざと母を困らせて笑っていた。
「その笑顔、絶対に忘れないで。
今のあなた、とても綺麗よ。
でも外ではあんまり笑いすぎないでね。
村の男の子たちを虜にされたら、困っちゃうもの」
ゼフィラは慈しむような眼差しで、そう囁いた。
杯が空になると、ネリアの手を借りて卓を片付け、二人は外出の支度をした。
空は晴れ、太陽が地平線から控えめに顔を出し、空を淡い青に染めていた。
「少し待ちましょう。
テリシアも一緒に行くから」
ゼフィラはそう説明した。
数分待つあいだ、ネリアは庭を走り回り、目に入ったものを追いかけて遊んでいた。
ゼフィラは腰掛けに座り、小さな本を読んでいた。
やがて小さな鈴の音が鳴り、ネリアは走るのをやめ、門へと駆け寄った。
「テリシアー!
やったー!」
ネリアは腕を広げて叫びながら走った。
テリシアは身を屈め、ネリアを抱き上げ、そのまま立ち上がった。
顔には大きな笑みが浮かんでいた。
「まあまあ、ずいぶん元気ね。
それで?
もう私のこと、タタィシアって呼ばないの?」
彼女は小さく笑いながら言った。
だがそのとき、二人の背後に影が差した。
冷気が走るような緊張が、瞬時に二人を凍りつかせた。
「ねえテリシア。
まさか私の娘を盗もうとしてるんじゃないでしょうね。
私の代わりになりたいってこと?」
ゼフィラは低く唸り、鋭い視線を向けた。
「ち…違います、奥さま。
わ、私は……そんなつもりじゃ……」
テリシアは震えながら答えた。
「ふうん、ならいいわ。
あんたには私の鈍い夫をくれてやる。
でも私の可愛い子には指一本触れないでよ」
ゼフィラはそう言って、吹き出した。
張り詰めていた空気は一気に緩み、ゼフィラは小さな門を開いて皆を外へ促した。
「ほんと、時々あの人怖い。
冗談なのか本気なのか、まったく分からない時があるわ」
テリシアは声を潜めて息を吐いた。
「いじわるママ。
タタィシア、こわかった」
ネリアはゼフィラを振り返って言った。
「違うわよ、私の宝物。
本気だったら、あなたは今その腕の中にいないわ。
少し力を抜きなさい、テリシア。
訓練で気が張りすぎてるんじゃない?」
ゼフィラは柔らかいが、芯のある声でそう言った。
テリシアはネリアの位置を直し、右の腰に乗せ直すと、ひとつ溜め息をついた。
「分かってる。
でも選抜がもうすぐで、不安で。
候補者はみんな強いし、自分に可能性があるなんて思えなくて……失敗するのが、怖いの」
テリシアはそう小さく漏らした。
その曇った表情を見て、ネリアはテリシアの髪に手を伸ばし、ゆっくりと撫で始めた。
「ママがこうするとね、あとですごく楽になるの。
こわい怪物も、こわくなくなる」
無垢な声で、ネリアは言った。
その仕草に二人は思わず笑い、ゼフィラもネリアの頬に手を置き、同じように優しく撫でた。
「人を慰めるには、まだちょっと早いんじゃない?
本当は私たちの役目でしょう?」
ゼフィラはそう言った。
「でもタタィシア、こわかった。
こわいのは、だめ」
ネリアはそう返した。
三人は会話を変えながら、テリシアの試験の話に戻しつつ、市場のある大きな広場へと向かった。
広場は様々な露店で溢れ、衣服の商人から野菜売り、武器や鎧を扱う者まで並んでいた。
ネリアは月に一度、母と市場に来ており、何時間もかけて並ぶ品々を眺めていた。
品揃えは定期的に変わる。
テリシアもこの日はよく同行していたが、ここ数か月は過酷な訓練のため、顔を出すことが少なかった。
それでも、エルドランと庭で訓練をしている時、ネリアはいつも近くにいて、簡易的に調整された稽古に混ざっていた。
三歳の誕生日にもらった剣はまだ使えなかったが、五歳になったら使わせると、エルドランは約束していた。
三人は、いつも笑顔の若い女性が営む小さな屋台の前で足を止めた。
ネリアは彼女が好きだった。
いつも小さな甘味をくれるからだ。
「こんにちは、メルフィナ。
今日は商売どう?」
ゼフィラが声をかけた。
「順調よ。
不正な衛兵がいないだけで、どれだけ楽か。
王都はもう疲れるわ、どんどん酷くなってるもの」
苛立ちを隠さず、メルフィナは答えた。
「それで、あなたは元気? ゼフィラ」
「ええ、おかげさまで。
今日はこの子のためのお出かけよ。
明日が誕生日なの。
とうとう五歳。
本当に、時間が過ぎるのは早すぎるわ」
ゼフィラはそう言って、ネリアの頭を撫でた。
メルフィナはネリアに視線を向け、笑顔をさらに大きくした。
知っている相手とはいえ、じっと見られ、ネリアは落ち着かなくなり、両手をきゅっと握った。
「もうそんなになるのね。
昨日会ったばかりみたいなのに。
うちの息子なんて、もうすぐ二十なのよ。
それなのにまだ家にいて、恋人一人いない。
この調子じゃ、孫の顔を見るのは当分先ね」
メルフィナは笑いながら言った。
「そのうちよ。
家を出たら、今度は帰ってきてほしくなるもの。
私は正直、ネリアにはできるだけ長く、男の子のことを考えずにいてほしいわ」
ゼフィラはそう言って、彼女と一緒に笑った。
「それで、他に必要なものは?
新しい林檎が入ったの。欲しければね。
ケルモラから直で来てるのよ。
仕入れるのに苦労したけど、飛ぶように売れてるわ」
メルフィナはそう言って、真面目な表情に戻った。
ゼフィラは卓に並ぶ品々に目を向け、果物や野菜を手に取り、指先で確かめるように触れた。
しばらく無言で見比べる時間が続き、長さに耐えかねたネリアがこっそり目を回す中、ゼフィラはようやく指でいくつかを示した。
「これを四つ。
それを二つ。
それから新しい林檎を十個ほど」
ゼフィラは手短に言った。
メルフィナは小さな布袋を取り、頼まれた品を次々と入れて手渡した。
そして、まだネリアを抱いているテリシアのほうへ向き直った。
卓の下に手を入れ、回り込むようにして近づく。
「明日はあなたにとって大事な日ね、お嬢ちゃん。
ちょっと目を閉じてくれる?」
そう尋ねた。
ネリアはゼフィラを見た。
ゼフィラは微笑みながら自分の目を閉じ、うなずいて合図を送った。
ネリアは言われた通り目を閉じ、メルフィナの次の言葉を待った。
「もう開けていいわ。
きっと気に入るはず」
数秒後、彼女はそう言った。
ネリアは目を開けた。
メルフィナは目の前に立っていた。
だがその手には、白い小さなドレスがあった。
さまざまな模様のギピュールで飾られていたが、ネリアにはよく分からなかった。
「まさか、明日が誕生日だって忘れたと思った?
これはね、あなたが――」
メルフィナが言いかけたところで、ゼフィラが突然彼女を後ろへ引いた。
言葉は途中で遮られた。
母の行動に驚き、ネリアは目を見開いて二人を見つめた。
ゼフィラは低い声でメルフィナに話しかけた。
ネリアには聞こえないほど低く。
「なるほど。
ごめんなさいゼフィラ、知らなかったわ。
もう話してあるものだと思ってた」
メルフィナはそう答えた。
「大丈夫よ。
知らなくて当然だもの。
まだ何も言ってないの。
驚きは取っておくわ。
一生に一度のことだもの、自分で知ったほうがいい」
ゼフィラはそう説明した。
それを聞き、ネリアの頭の中には疑問が次々と浮かんだ。
何の話をしているのか、まったく分からなかった。
だがメルフィナは再び近づき、小さなドレスを差し出した。
ネリアはそれを受け取り、胸にぎゅっと抱きしめた。
「ほら、なんて言うの?
礼儀を忘れちゃだめよ」
ゼフィラが言った。
「……ありがとう、ございます」
ネリアはそう答えた。
メルフィナは微笑み、もう片方の手で甘味を差し出した。
それを見て、ネリアの顔がぱっと明るくなる。
彼女はゆっくりとそれを受け取り、母を見上げた。
「ええ、食べていいわ。
まだ食事までは時間があるもの」
ゼフィラは優しい声でそう言った。
「本当に、変な癖をつけないで。
ドレスだけでも十分すぎるわ、メルフィナ」
「やめてよゼフィラ。
大したものじゃないわ。
それに、この顔を見て。
この機会を逃せるわけないでしょう?
あなたには本当に素敵な娘がいる。
私は王都にいることが多いから、ここじゃ手に入らないものにも手が届くのよ」
メルフィナは笑いながら言った。
二人がそんな話をしていると、テリシアがわざとらしく咳払いをして注意を引いた。
「話の腰を折るつもりはないけど、そろそろ時間なの。
エルドランと訓練に合流しないと、ゼフィラ」
少し気まずそうに、テリシアは言った。
「うん、私も、私も。
パパと訓練したい」
ネリアはそれを聞いて、弾んだ声を上げた。
ゼフィラは小さく溜め息をついた。
テリシアの都合と、ネリアのはしゃぎようを前に、選択肢がないと悟ったのだ。
三人はメルフィナに別れを告げ、家の方向へと歩き出した。
「こんなに時間がかかるとは思わなかったわ。
ごめんなさい、テリシア。
でも心配しないで。
もしエルドランが遅れを責めたら、私が直接相手をする。
弟子の前で叩きのめされたら嫌でしょうから、何も言わないはずよ」
道すがら、ゼフィラはそう言った。
「謝らなくていい。
それに、この子のためだもの。
明日は特別な日。
ちゃんと準備しないとね」
テリシアは答えた。
残りの道は静かだった。
ネリアは、またテリシアと父と訓練できることを思い、胸を弾ませていた。
門の前に着くと、エルドランはすでに剣を手に待っていた。
「ずいぶんいい時間だな、奥さまたち。
少し気が緩んでるんじゃないか?
腹を満たす暇もなかったぞ。
これはもう、女房を替えるしかないな。
寂しいよ、ゼフィラ」
エルドランは半分笑いながら言った。
だが剣を腰掛けに立てかけると、テリシアに近づき、ネリアを腕に抱き上げ、そのまま高く持ち上げた。
ネリアは声を上げて笑い、エルドランは彼女を引き寄せた。
「ほら見ろ、誰が来た。
俺の愛しい娘だ。
村一番の娘だぞ」
甘ったるい声で、彼はそう続けた。
その様子に、テリシアとゼフィラは揃って目を回し、腰掛けに座って彼の時間が終わるのを待った。
しばらくネリアとじゃれ合ったあと、エルドランは彼女を地面に下ろし、テリシアへと意識を向けた。
ゼフィラは家の中へ入り、テリシアとネリアは訓練の構えを取った。
一日はあっという間に過ぎていく。
ネリアの頭にあったのは、ただ一つ。
すべてが素晴らしく思えるこの時間を、精一杯味わうことだけだった。




