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灰焔の残響の中で (R16)  作者: Wolfy-UG6
第1巻 ― 再生の残り火
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第3章:新たな命の叫び

熱の月モワンドルクレールの最中、エリュニス暦十八日。

アスヴェンの環帯と呼ばれる未開の地にあるソルヴァエル村で、一つの産声が響き渡った。

村の中にある質素な小屋の一室で、一人の女がベッドに横たわっていた。

先ほどまでの激しい苦痛の名残で、その顔は汗に濡れている。

その傍らには男が立ち、彼女の手を握って静かに支えていた。


ベッドの足元には、もう一人の女がいた。

彼女は横たわる女の身体を覆っていた毛布の下から腕を引き抜き、

生まれたばかりの小さな命を、強く、だが慎重に抱き上げる。

そして、その赤子を男と女の視界へと掲げた。


「おめでとう、ゼフィラ。

女の子よ。」


微笑みとともに、そう告げる。


赤子は小さく身じろぎし、か細い呻き声を上げた。

やがてその声は強まり、途切れない泣き声へと変わる。

女は新生児を木製の小さな揺り籠に寝かせ、毛布をそっと掛けた。


彼女は次に、炎で熱した刃と、乾燥させたイラクサの撚り糸を手に取る。

根を煎じた液で強化されたその糸を使い、

へその緒を腹部から数センチのところで切断する。

切り口に丁寧に糸を結び、

最後に、強いセージの香りを放つ褐色の軟膏を塗り込んだ。


「大丈夫、ゼフィラ?

相当、疲れただろう。」


男がそう問いかける。


彼はゼフィラの手を離し、傍らに屈み込むと、

水を含ませた小さな布で、彼女の額を拭った。


「平気よ、エルドラン。

ただ……やっと、痛みが引いてくれて嬉しいだけ。」


息を切らしながら、彼女は答えた。


エルドランは立ち上がり、揺り籠へと近づく。

その目には、こらえきれない涙が浮かんでいた。


「抱いてもいいか、メルフィナ?」


だが、メルフィナは手で制し、首を横に振る。

彼女は使い終えた器具をテーブルに置き、

再び赤子のもとへと近づいた。

そして、親指をそっと額に当て、奇妙な印を描く。


淡い光が生まれ、

薄紅色の輝きが、見慣れぬルーンを形作った。


その動きに呼応するように、赤子は泣き止み、

ゆっくりと目を閉じて、深い眠りへと落ちていく。


「……もういいわ。

抱いてあげなさい。」


ようやく、そう告げた。


エルドランは慎重に、

片手を首の下へ、もう片方を膝の裏へと差し入れ、

毛布を整えながら、我が子を抱き上げる。

そして、ゼフィラのもとへ歩み寄り、

身をかがめて、その小さな顔を見せた。


「……綺麗ね、エルドラン。」


ゼフィラは微笑む。


「でも……本当に、この子を育てるつもり?

私が話したことの後でも……。

無理をしてほしくないの、あなた。」


彼は赤子を、そっと妻の胸元へ預けた。

ゼフィラは腕を回し、我が子を抱きしめる。


「ゼフィラ。

君を愛している。

何があったとしても、この子は俺たちの娘だ。

いいか?

必ず、幸せにしよう。」


穏やかな笑みとともに、そう言った。


その言葉に、ゼフィラの表情が和らぐ。

彼女の視線は、腕の中の娘へと落ちた。

メルフィナもまた、二人のもとへ歩み寄り、

その光景を見て、はっきりとした笑みを浮かべる。


「さて。

それじゃあ、名前を決めないとね。

まさか、一生“赤ちゃん”って呼ぶわけにもいかないでしょう?」


笑いながら、そう言った。


ゼフィラとエルドランは顔を見合わせ、

まるで不意を突かれたかのように固まる。

二人の視線は宙を彷徨い、しばし考え込んだ。


「……ネリア。」


ゼフィラが、やさしい声で言った。


「この名前、すごく好き。

あなたはどう思う、あなた?」


彼女の夫は妻を見つめ、

そして、そっと視線を下ろし、

彼女と娘の間へと目を走らせた。


「いいと思う。

それに、名前を付けるのは昔から君の方が上手だ。」


エルドランはそう言って微笑んだ。


「ようこそ、俺たちのもとへ。

小さなネリア。」


メルフィナはその名を二枚の紙に書き留め、そのうち一枚をエルドランへと差し出した。


「これは大切に保管して。

何かあった時に、ネリアがあなたたちの子だと証明するものだから。

それじゃあ、私はこれで失礼するわ。」


そう言って、彼女は説明した。


彼女は道具を片づけ、汚れた布や諸々を小さな金属製の桶にまとめる。

その上に右手をかざし、乾いた指鳴らし一つ。

すべては一瞬で燃え上がり、残ったのは小さな灰の山だけだった。


メルフィナは出口へ向かい、扉を開け、ふと立ち止まる。


「何かあったら、遠慮なく呼んで。

もっとも……見たところ、ネリアはとても元気そうだけどね。」


そう言い残し、扉を閉めた。


静かな夜が、小さな家を包む。

温かな闇の中で、一つの小さな星が生まれた。


エルドランはネリアを腕に抱き、そっと揺り籠へと寝かせる。

薄い毛布を掛けると、彼女の小さな手が、空を探るように動いた。


彼はゼフィラのもとへ戻り、隣に横になる。

口づけを交わし、彼女を抱き寄せる。

二人の視線は揺り籠に向けられたまま、やがて穏やかな眠りへと落ちていった。


翌朝。

太陽が昇り、村全体を柔らかな光で満たした。

窓から差し込む光が、ネリアの意識を揺り起こす。


……あ、また昨日、雨戸閉め忘れた。


そんな考えが、ふと浮かぶ。


彼女は身体を起こそうとするが、言うことを聞かない。

疲れているのだろう、とそのまま横を向き、もう一度眠ろうとした。

頬の下に手を入れようとする。


――何も、触れない。


目を開き、ネリアは凍りついた。


自分の手が、異様に小さい。

丸く、ふにゃりとしていて、ほとんど思うように動かない。


ゆっくりと視線を下げる。

そこにあったのは、見慣れた身体ではなかった。

立つことすらできそうにない、か細い脚。

丸みを帯びた、小さな腹。


ここ……どこ?

何なの、これ……。

あの変な夢みたいなの……あの老人は……。

私、本当に……世界、変わったの?


混乱と恐怖が、一気に押し寄せる。


できる限り首を動かし、周囲を見る。

木製の柵越しに見えるのは、素朴な室内。

すべてが木でできていた。


理解が追いつかない。

視界が滲み、胸の奥が締めつけられる。


そして――感情を抑えきれず、ネリアは泣き出した。


……ごめんなさい。

死にたかったわけじゃない。

どうして、望んでなかったのに……こんな目に……。


涙が、頬を伝う。


ネリアの泣き声に、エルドランとゼフィラは飛び起きた。

予想よりも早い、初めての目覚めに驚きながら。


ゼフィラは立ち上がり、揺り籠へ近づき、身をかがめる。


「どうしたの、ネリア?

怖い夢でも見た?

それとも……お腹、空いた?」


優しい声だった。


彼女はネリアを抱き上げ、胸元に引き寄せ、椅子に腰を下ろす。

衣を緩め、右肩から布をずらす。

ゆっくりと、娘を胸へ導いた。


ネリアの腹が、小さく鳴る。

そして、自然に口が動いた。

まるで、最初から知っていたかのように。


……私、何してるの……?

でも……落ち着く……。

それに……これ……不思議と、美味しい……。


戸惑いながらも、その感覚に身を委ねる。


その時、視線がゼフィラのものと重なった。

そして、気づいてしまう。


……待って。

この人……誰?

知らない人の胸に……私は……。


思考は混乱したまま、ネリアの心は揺れていた。


やめようとした。

だが、その動きはまるで反射のようで、満たされるまで止まらなかった。

やがてゼフィラの胸から口を離し、彼女が服を整えるのをぼんやりと見つめる。

ゼフィラはテーブルの上にあった布切れを取り、ネリアの口元を拭いた。


「お父さんそっくりの飲みっぷりね、ネリア。

ほんと、食いしん坊なんだから。

ほら、こんなにこぼして。」


笑いながら、そう言う。


起き上がっていたエルドランが、声を立てて笑いながら近づいてきた。

彼はゼフィラに口づけをし、それからネリアへ視線を向ける。


「そんなこと、娘に吹き込まないでくれよ。

これじゃ、俺が酒浸りの父親みたいじゃないか。」


そう言って、ネリアに近づき、額に軽く口づけた。


――やだ。

やだやだやだ。

こんなの、いらない。


ネリアの内心は、嫌悪でいっぱいだった。


エルドランは身体を起こし、ゼフィラの顔を見た。

その瞬間、顔をしかめる。

不快な匂いが、鼻をついた。


「……どうやら、娘はおむつを替えないといけないみたいだな。」


そう言って、距離を取る。


ネリアも小さく鼻を鳴らした途端、吐き気を覚えた。

匂いが、容赦なく鼻腔を突く。

恥ずかしさと不快感に耐えきれず、彼女は再び泣き出してしまった。


「……娘?

あなた、都合のいい時だけ“娘”って呼ぶつもり?」


ゼフィラはそう言いながら、ネリアをテーブルの上に寝かせ、

足で脇に置かれていた小さな袋を引き寄せた。


「我が愛しき妻よ。

君は冒険者だろう?

ならば、戦場は任せた。

俺は水を汲んでくる。」


そう言って、エルドランは立ち去る。

扉が閉まっても、彼の笑い声はしばらく残っていた。


「お父さんは勇敢よ、ネリア。

でも……あなたの世話をする方が、

魔物に立ち向かうより勇気がいるみたいね。」


そう囁き、ゼフィラは微笑んだ。


彼女はネリアを丁寧に拭き、

穏やかな子守歌を口ずさむ。

室内を、やさしい風が通り抜けていた。


衣を整え終えた後も、ネリアは母の一つ一つの動作を、じっと観察していた。

そして、その時――思いもよらぬ光景が、彼女の目に映る。


ゼフィラは使い終えた布を小さな金属製の桶に入れ、

その上に手をかざした。

最初は、何をしているのか分からなかった。


だが、次の瞬間。

桶の中から、煙と炎が立ち上った。


ネリアは目を見開き、思わず手をぱたぱたと打ち鳴らす。


「まあ。

魔法が好きなの?

でも、まだ早いわ、ネリア。

使えるようになるには、もう少し待たないとね。」


そう説明され、ネリアの胸に、かすかな落胆が広がる。


――どうして?

今、使いたいのに……。

こんなに、綺麗なのに。


だが、そのはっきりとした思考も、

ゼフィラの耳には、


「ばばー、ぶれれー、にぃー」


としか聞こえず、彼女は微笑んだ。


ネリアは母の顔を見つめる。

穏やかで、やさしい女性。

長い茶色の髪、すっきりとした顔立ち、

そして、柔らかなヘーゼル色の瞳。


ゼフィラはネリアを再び腕に抱き、

娘の頭を支えながら扉へ向かい、静かにそれを開いた。


ネリアは、初めてこの世界の外を目にする。


扉の先には、木造の小さなポーチ。

そこから砂利道が伸び、小さな門へと続いていた。

左右には緑の区画。

一方は花が咲き誇る庭、

もう一方は、色とりどりの野菜が育つ畑。


ゼフィラは木陰の椅子に腰を下ろす。

ネリアは、そのすべてに見入っていた。


だが、

やわらかな光、

ほんのりとした温もり、

頬を撫でる微風。


それらが重なり、瞼が重くなる。

気づかぬうちに、彼女は深い眠りへと落ちていた。


「おやおや、もうお昼寝か。

母親に似て、ずいぶん怠け者だな!」


エルドランの声が響く。


彼は小さな門を開け、

水を満たした二つの桶を運んできた。

それを畑の脇にある小さな水場へ注ぎ、

その後、妻の隣へ腰を下ろした。


「怠け者、ですって?

それなら今夜は厩舎で馬たちと一緒に寝てみたらどう?

きっと、あの子たちの元気さが身に染みるわよ。」


ゼフィラは、からかうような口調で言い返した。


「……もう、何も言わない方がよさそうだな。

君なら、本当にやりかねない。」


エルドランはそう呟き、少し間を置く。


「これから、俺たちの生活は変わる。

……ちゃんと、やっていけるかな。」


ゼフィラは彼の肩にそっと手を置いた。

エルドランはその手に気づき、顔を向ける。

そこには、穏やかな笑みがあった。


「兵の一隊を率いてきた人が、

小さな女の子一人、面倒を見られないわけないでしょう?

無理をしなくていい。

あなたらしくいればいいの。

そうすれば、この子はあなたを愛するわ。」


真剣さの中に、やさしさを含んだ声だった。


二人はそっと額を寄せ合う。

ゼフィラは、娘が落ちないよう、布でしっかりと身体を留めた。


そして、寄り添ったまま、静かに眠りへと落ちていく。


その鼓動一つ一つが、

これから始まる新しい人生を、確かに刻んでいた。

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