第18章:ソルヴァエルの地獄
ネリアは自分の部屋に入り、荷物を鞄に詰め始めた。
テリシアは、彼女が支度をする時間を取るため、先に自分の準備をしていた。
ネリアは大切だと思う物を選びながら仕舞っていったが、五歳の誕生日に着ていた白い小さな服を手に取ったところで動きを止めた。
「正直、こういうのは忘れたい。
あの視線も、あの言葉も、思い出したくない。」
緊張した声でそう呟き、彼女はそれを椅子の背に掛けた。
そして再び荷造りに戻り、小さな鞄を手早く満たす。
鞘を拾い上げて胸に装着し、剣を手に取って中へ収めた。
部屋を出て台所へ向かうと、粉や生地の欠片がまだあちこちに散らばっていた。
「今夜はテリシアのための日だったのに。
よりによって、今日じゃなくてもよかったでしょ。」
ネリアはため息をついた。
一方、テリシアもまた自分の荷をまとめていたが、ふと手を止めた。
直前にエルドランから渡された紙切れに目を落とす。
腰を下ろし、それを開いた。
紙は古び、何年も前に書かれたかのように傷んでいた。
喉が一瞬、強く締めつけられる。
そして、そこに記された文字を追った。
テリシア。
この言葉を読んでいるということは、状況が君の想像以上に深刻だということだ。
内容については、君とネリアを守るためにも詳しく書けない。
だが、二人はすぐに出発しなければならない。
以前、村の巡回中に見せた隠し出口を覚えているはずだ。
できるだけ早く、そこから村を出ろ。
森を抜ける間は、極力目立たないように進め。
テルヴィナンクの湖の近くまで行き、南側を沿って進む。
岩と木が一体化した場所を見つけたら、東へ向かえ。
決して道を逸れるな。
やがて、人里離れた大きな家に辿り着く。
そこには私の友人が住んでいる。
この紙を渡せば、事情は理解してくれる。
時が来たら、彼らがすべてを説明するだろう。
ゼフィラは、おそらく一緒には行かない。
あの頑固さだ、私と残るはずだ。
もし私たちが戻らなかった場合、ネリアを君に託す。
心から信頼できるのは君だけだ。
そして、彼女と本当に心を通わせられるのも君しかいない。
こんな役目を背負わせてしまって、本当にすまない。
本当は、違う形であってほしかった。
ネリアを頼む。
私たちが何よりも愛しているものを、君に預ける。
どうか、彼女を守ってくれ。
第二の母として、ネリアを育ててほしい。
あの子の無垢を奪わないでくれ。
幸せなままでいさせてほしい。
テリシアはしばらく、そのまま動けなかった。
文字を追っているはずなのに、言葉は目に入ってこない。
涙が滲み、何が起きているのか理解できなかった。
「私は……どうすればいいの。
あなたたちが戻らなかったら、ネリアが笑っていられると思ってるの?
何が、そこまであなたを怯えさせてるの。
どうして、今まで何も言ってくれなかったの……。」
掠れた声で、テリシアは呟いた。
そのとき、扉を叩く音が響いた。
「テリシア、準備できたよ。
来ないから、私から来ちゃった。」
扉の向こうで、ネリアの声がした。
テリシアは慌てて袖で目元を拭き、手紙を服の下に押し込んだ。
深く息を吸い、扉へ向かって開く。
ネリアが中へ入ってきた。
「遅いよ。
いつ戻れるかわからないから、必要そうなものは全部詰めた。」
ネリアはそう言った。
テリシアは何も答えず、台所へ向かった。
食料を少し取り出し、包む。
言葉は一切なかった。
そのまま自室へ戻り、ネリアが後を追う。
沈黙が続くことに、ネリアは違和感を覚えていた。
「そんなに落ち込まないで。
すぐ戻れるよ、きっと。
もし壊れても、また作り直せばいいんだから。」
ネリアはそう言った。
「わかってる。
ただ……全部が一度に起きすぎてる。
私は兵士だ。
本当なら、あの人たちと一緒に残るべきなんだ。」
テリシアは息を吐いて答えた。
「それって……。
私のこと、重荷だと思ってる?
パパに頼まれたから仕方なく、私の面倒を見るって思ってるの?」
ネリアは悲しげな表情で尋ねた。
テリシアははっとして振り返った。
自分の言葉が、どう受け取られたのかを理解する。
彼女はネリアに歩み寄り、その体を強く抱きしめた。
「違う、そんな意味じゃない。
ごめん。
ただ……私も、あの人たちを置いていく気がして。」
テリシアはそう言って、ネリアの髪を撫でた。
ネリアは彼女から離れ、少しの間、目を閉じた。
言葉の意味を理解し、同時に、テリシアにその思いを背負わせている自分を感じていた。
「でも、今は話してる時間がない。
急いで出なきゃ。
お願い、手伝って。」
テリシアはそう続けた。
ネリアは黙って頷き、引き出しを開けて中の物を次々と取り出し、袋に詰めていく。
数分後、最後の袋を閉じ、二人は扉へ向かった。
家を出ると、テリシアはかつてエルドランに示された道を選んだ。
生い茂る草木に隠れた細い小道へと身を滑り込ませる。
枝が折れ、葉が擦れる音が足元で鳴った。
やがて森の縁に辿り着き、テリシアとネリアは同時に振り返った。
そして何も言わず、木々の間へと身を沈める。
二つの影は、重たい沈黙の中へ溶けていった。
一方、ゼフィラとエルドランは門の前に集まった兵士たちの前に立っていた。
全員が集結している。
エルドランは深く息を吸い、わざと大きく喉を鳴らした。
視線が一斉に彼へ向けられる。
彼は一瞬だけ妻を見た。
ゼフィラは小さく頷いた。
「よく聞け。
王の軍は、侵略者を討つために来たんじゃない。
あれは、この村を滅ぼしに来た。」
エルドランの声は硬かった。
「無理なことを頼むつもりはない。
だが、あいつらの好きにさせれば、村人は全員死ぬ。
家族も、友も、誰一人として助からない。」
兵の間で、ざわめきが起こった。
誰もが理解できず、戸惑っていた。
「なぜだ。
俺たちは何もしていない。
王が理由もなく、こんなことをするはずがない。」
一人の兵が叫んだ。
「理由は、私よ。」
ゼフィラが前に出た。
「過去の因縁。
私自身、忘れていたもの。
でも、向こうは忘れていなかった。」
空気がさらに重くなる。
誰もが顔を見合わせ、理解できずにいた。
「だったら、あんたを引き渡せば終わる話だろ。」
先ほどの兵が荒く言った。
「引き渡す?
本気でそう思うか。
これだけの軍を動かして、村を素通りすると思うのか。」
エルドランは即座に返した。
「じゃあどうしろってんだ。
勝ち目もない相手と戦えってのか。
俺たちは、最初から見捨てられてたってことか。」
兵は声を荒らげた。
「黙れ。
あの人たちが、どれだけ俺たちを守ってきたと思ってる。
ここまで生き延びられたのは、隊長のおかげだろ。」
別の兵が怒鳴り返した。
「黙れ。」
エルドランが低く、しかしはっきりと言った。
「戦えとは言っていない。
俺が求めているのは、村人を逃がす時間だ。
一人でも多く、生かして逃がせ。」
言葉が終わる前に、荒々しい角笛が平原から響いた。
村の兵たちは悟った。
もう、言い争っている時間はない。
重苦しい沈黙が落ちる。
誰一人、口を開かなかった。
その答えは、すぐに示された。
青かった空が、急速に覆われていく。
「盾を上げろ。
今すぐだ。」
エルドランが叫んだ。
多くは反射的に従った。
だが、動けない者もいた。
次の瞬間、鋭い風切り音が降り注ぐ。
炎を帯びた矢が、空を埋め尽くしていた。
一斉射。
それが、何度も続いた。
時間が引き伸ばされたように感じられる。
悲鳴が上がった。
兵の中から。
村人の中から。
矢を受けた者が炎に包まれ、地に転がる。
燃え移った火が、他の身体へと広がる。
人と人がぶつかり合い、
恐慌が恐慌を呼び、
叫び声は、終わりのない嘆きのように重なっていった。
平原で、再び角笛が鳴り響いた。
同時に大地が揺れ、王の軍が動き出した。
兵の後方では、城壁を破るための破城槌が引かれ、前進してくる。
「村人を避難させろ、急げ。
一人でも多く助けろ。
迎え撃つな。」
エルドランは叫んだ。
部隊は動き出した。
だが、地に転がり始めた遺体を前に、足が止まる者もいた。
火に焼かれ、炭のようになった皮膚。
その光景に耐えきれず、恐怖で下衣を濡らす兵もいた。
「ゼフィラ、時間を稼ぐ必要がある。
頼めるか。」
馬を降りながら、エルドランは言った。
ゼフィラは頷いた。
だが動き出す前に、エルドランが彼女を引き寄せ、強く口づけた。
息を吐き、彼女を離す。
ゼフィラはそのまま城壁へ向かった。
身を晒すと同時に、迷いはなかった。
両手を前へ突き出し、進軍する兵を見据える。
破城槌が押し出されている地点を、正確に捉える。
深く息を吸い、目を閉じた。
記憶の中で、位置を固定する。
「サングイス・エンソ・キラ。
ヴァレス・イグニ=ヴァール。
ティル・オリム・クストディア。」
詠唱とともに、両手の皮膚が裂けた。
血が滲み、空気に吸い上げられていく。
金属臭が周囲に満ちた。
彼女の周囲で熱がうねり始める。
空気が膨張し、揺らぎ、景色が歪んだ。
「インフェルニア・クストディア。
第三円環の術よ。
我が呼びかけに応え、敵を焼き尽くせ。」
歪みは一瞬で消えた。
まるで、術が失敗したかのように。
だが、彼女が狙った兵たちが異変を感じ始める。
強烈な熱。
呼吸が困難になり、足を止める者が出た。
周囲の空気が歪み、極限まで圧縮されていく。
「離れろ、今すぐだ!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、ゼフィラが指を鳴らした。
空気が崩壊した。
爆ぜる炎。
広範囲を飲み込む熱波。
地に伏した兵たちが悲鳴を上げ、燃えながら走り回る。
そのまま崩れ落ちる者もいた。
だが、進軍は止まらなかった。
他の兵は、倒れた仲間を避けるだけで、前へ進む。
何もなかったかのように。
「……冗談でしょ。
何なの、この連中。
これを見て、躊躇いもしないなんて。」
ゼフィラは息を荒くしながら吐き捨てた。
「長くは保たない……。」
彼女は踵を返し、階段を駆け下りた。
入口では、エルドランが避難の指示を飛ばしている。
「ゼフィラ?
何をした。
今の音は……。」
エルドランが問う。
だが彼女は答えず、膝から崩れ落ちた。
呼吸は荒く、肩が大きく上下する。
彼女は顔を上げ、夫を見た。
「無駄よ。
数が多すぎる。
仲間が死んでも、気にも留めてない。」
震える声で続ける。
「倒れた兵を踏み越えて、避けて、進むだけ。
何も起きてないみたいに。」
エルドランは何か言おうと口を開いた。
だが、迫り来る巨大な車輪の音が、それを遮った。
彼は悟った。
もう話している時間はない。
間もなく、彼らを隔てている脆い壁は――
消える。




