第11章:恐怖の中の誕生
ネリアは行き先も分からぬまま走り続けていた。
人々にぶつかり、子どもが一人でいることに憤る声を浴びる。
浮浪児だと思う者もいれば、親の躾を疑う者もいた。
やがて彼女は人気のない細い路地へと曲がり、そのまま走り続け、路地から路地へと逃げ込んだ。
だが涙を拭った瞬間、何かにぶつかり、後ろへ倒れそうになる。
顔を上げると、男が一人、目の前に立っていた。
「おいおい、前見て走れよ、クソガキ。
礼儀ってもんを教わってねぇのか?」
男はそう言いながら、脚をさすった。
ネリアは立ち上がったが、背後にいる複数の人影に気づき、心臓が跳ね上がった。
ナイフの刃を弄ぶ者。
露骨に不快な表情を浮かべる者。
「なかなか可愛いじゃねぇか。
なあ頭、少し遊んでもいいんじゃねぇ?
あとで売り飛ばせばいい。
この顔なら、そこそこ値が付くぞ」
別の男がそう言った。
集団は奇妙な視線でネリアを見つめ、獲物を前にしたように手を擦り始めた。
だが、頭らしき男が手を上げる。
「悪くねぇな。
まだ穢れてもいなさそうだ。
貴族どもに売れば大金になる。
あいつら、こういう商品が大好物だからな」
男はそう言って笑った。
ネリアは振り返り、再び走ろうとした。
だが次の瞬間、手首を掴まれ、足が地面から離れた。
「どこへ行くつもりだ?
俺の商売道具を傷つけた代償は、払ってもらわねぇとな。
こんな綺麗な体、使い道はいくらでもある」
男は舌で唇をなぞった。
「はなして。
やめて、お願い」
ネリアは必死にもがいた。
だが男はさらに強く握り、ネリアの手首に焼けるような痛みが走る。
「紳士諸君。
若い淑女に対して、その扱いは少々無作法ではありませんか」
背後から、静かな声が割って入った。
「それに、他人の獲物を奪うとは。
実に礼を欠いた行いだ」
一同が振り返る。
ネリアは、その人物がウェンズワースであることに気づいた。
彼は冷え切った表情で、彼らを見据えていた。
「その子をこちらへ。
今なら穏便に済ませましょう。
それが、双方にとって最良かと」
淡々と、そう言った。
「はぁ?
悪いがな、何言ってるのかさっぱりだ。
このガキが欲しいって?
残念だが、名前は書いてねぇ。
欲しけりゃ、金を出せ」
頭は嘲るように言った。
ウェンズワースは長く息を吐き、重そうな音を立てる金袋を取り出した。
中で硬貨が鳴る。
彼はそれを開き、一枚の金貨を取り出し、掌に乗せて男に見せた。
「これで?
私の財布を、あなた方の強欲で汚したいと?」
金貨を見つめながら、静かに言う。
「いいねぇ。
やっと話が通じた。
だがな、うちの連中は全員喉が渇いてる。
一枚じゃ足りねぇ。
飯代もあるしな。
この柔らかそうな皮膚の値段、払う覚悟はあるんだろ?」
頭はそう続けた。
「それは失礼。
私としたことが、配慮を欠いていました。
勇敢なる紳士方の腹を空かせたままにするなど、無作法もいいところ。
では、その中身を拝見しましょうか」
ウェンズワースは冷たく答えた。
彼は金貨を手の甲に滑らせ、親指と人差し指で挟んだ。
かすかな赤い光が走る。
次の瞬間、鋭い風切り音が空を裂いた。
金貨は、頭の背後にいた男のこめかみに突き刺さった。
鈍い音とともに、男は崩れ落ちる。
「さて。
これで一人は満足しましたね。
話では、一人につき一枚でしたか。
三十秒もあれば十分でしょう。
では、準備を。
ついでに、心付けも差し上げましょう」
そう言って、ウェンズワースは袋からさらに六枚の金貨を取り出した。
「い、いえ……どうぞ。
その子は差し上げます。
魔術師と揉めるのは御免ですし……。
そ、その……邪魔するつもりはなかったんです」
頭目は明らかに動揺しながら、そう答えた。
彼はネリアの手を放し、ネリアは地面に崩れ落ちた。
集団は振り返ることもなく、そのまま逃げ出した。
「まったく、無作法にもほどがあります。
子どもをあんなふうに放り出すとは」
ウェンズワースは低く息を吐いた。
彼は再び硬貨を指の間に滑り込ませ、鋭く投げ放った。
硬貨は逃げる頭目の太腿に突き刺さる。
路地に悲鳴が響き、仲間たちは即座に彼を見捨てて散った。
ウェンズワースはネリアに歩み寄り、手を差し出して起こした。
その瞳をまっすぐに見つめ、大きな笑みを浮かべる。
「大丈夫かい?
ひどいことはされなかったかな」
穏やかな声だった。
ネリアは涙を拭い、首を横に振った。
そして、ようやく小さく笑い返した。
「それなら良かった。
じゃあ、ここを離れよう。
一緒に来なさい」
そう言って、腕を広げた。
ネリアは近づき、抱き上げられると彼の肩に身を預けた。
二人は歩き出したが、ネリアは次第に違和感を覚えた。
向かっているのは教会ではない。
街の出口だった。
門で衛兵と短く言葉を交わすと、二人はそのまま外へ出た。
しばらく歩き続け、やがて森の縁にある小さな湖のそばへ辿り着く。
「ここなら、落ち着けるでしょう」
ウェンズワースはそう言った。
彼はネリアを水辺の近くに降ろし、少し前へ出た。
ネリアの視界には、彼の背中しか映らない。
なぜここへ来たのか分からなかったが、商品として売られずに済んだことだけは、確かに救いだった。
ウェンズワースは外套の中を探り始めた。
振り返った彼の右手には、短剣が握られていた。
「君のような“誤り”は、この世界では許されない。
本当に、すまない。
だが……消えてもらう」
沈んだ声で、そう言った。
ネリアは目を見開き、言葉の意味を測りかねた。
だがその眼差しが、冗談ではないことをはっきりと告げていた。
彼女は静かに目を閉じた。
抵抗する術はなかった。
どうして。
どうして、いつもこうなるの。
一番近くにいる人ほど、深く傷つけてくる。
ネリアは悲しみに沈んだ。
足音が近づくにつれ、心臓の鼓動が激しくなる。
体は震え、短剣を待つしかなかった。
そのとき、胸の奥から熱が湧き上がった。
一瞬の違和感。
それはすぐに消え、代わりに痛みが走る。
橙色の光がネリアの体から溢れ出した。
空気に溶け込み、粒子となって舞う。
呼吸が重くなり、渦を巻いた粒子が動き出す。
炎が弧を描いて噴き上がり、周囲の草を焼いた。
「やはり……そうか。
君は、彼らとは違う」
ウェンズワースの声が、低く響いた。
「しまってくれ。
頼む。
私は君を傷つけるつもりはない、ネリア」
そう続けた。
ネリアはその言葉に目を開いた。
目の前で起きている光景を、理解できずに見つめる。
そこには、優雅な猫科の姿をした存在がいた。
首と胴の境から、暗い骨組みを持つ巨大な翼が生え、
そこから炎が噴き出し、燃えさかる翼となって広がっている。
腹部の純白の毛並みは、脚や背に広がる暗色の、奇妙な模様と強く対照を成していた。
基部は黒く、先へ行くほど炎に裂けるような尾。
脚には、灼熱の爪が展開されている。
なに……これ。
どこから……?
ネリアは混乱した。
「落ち着いて。
私は敵じゃない」
ウェンズワースは言った。
「お願いだ。
これ以上燃やすのはやめてくれ。
注目を集めてしまう。
ネリア……言ってあげなさい。
戻るように、と」
静かな声だった。
「教会で見ただろう。
それを制御する必要がある」
ネリアはその存在に見入った。
膝をつき、周囲のことをすべて忘れたように、ただじっと見つめる。
彼女が落ち着いたのを感じ取ったのか、獣の炎は次第に弱まり、向きを変えて彼女のほうを向いた。
頭を低くし、ゆっくりと歩み寄ってくる。
だが近づいても、ネリアはその体から熱を感じなかった。
獣は彼女の前に座り、燃えるような瞳を伏せ、耳を垂らして身を低くした。
ネリアはためらいながら手を伸ばし、やがてその頭に触れ、自然と撫で始めた。
ウェンズワースは短剣を収め、その場に腰を下ろし、ネリアの隣で獣を眺めた。
「まさか、また一人いるとはな。
俺と同じく、再び生まれた者で、しかもこんな異形を持つとは」
そう言って、鞄から水筒を取り出した。
その言葉に、ネリアの動きが止まった。
聞き間違いかと思い、困惑した表情でウェンズワースを見る。
彼は水筒の中身を大きく飲み干していた。
「……え?」
ネリアは戸惑いながら尋ねた。
「普通に話していい。
まさか、自分だけだと思っていたわけじゃないだろう?
正直、同じ立場の人間に会うのは珍しいが……教会での出来事がなければ、俺も確信は持てなかった」
ウェンズワースはそう説明した。
ネリアはしばらく黙り込み、頭の中で疑問が渦巻いたあと、ようやく口を開いた。
「どうして……分かるんですか。
誰にも言ってません。
私をここに送った人に、話すなって言われて……
それなのに、どうして」
問いかけた。
「俺も同じだからだ。
この人生の前に、別の生があった。
そして、さっきの存在を見て確信した。
お前のマナは、この世界の法則に従っていない。
俺たちは縛られているが……どこか混ざりものだ。
説明は後だ。
まずは、その獣を呼び戻せ」
真剣な顔で、そう言った。
「それにしても……なんだあれは。
美しいな。
どうして一緒にいちゃだめなの?」
ネリアは撫で続けながら、ぽつりと漏らした。
「分からん。
俺も、あんなものは初めて見る。
だが急いだほうがいい。
誰かに見られたら厄介だ。
それに……両親が必死に探しているはずだぞ」
ウェンズワースは答えた。
「でも……どうやって信用すればいいんですか。
さっき、私を殺そうとしたじゃないですか。
これが消えたら、また同じことをしないって、どうして言えるんですか」
ネリアは警戒した目で言った。
ウェンズワースは水筒を仕舞い、深く息を吐いた。
肩が落ち、心底面倒そうな様子だった。
「答えは後だ。
今は場所が悪すぎる。
集中しろ。
獣を戻せ。
時間がない」
それだけ言った。
ネリアは納得できなかったが、この存在がこの世界にとって異質であることは分かっていた。
注目を集めたくはない。
彼女は目を閉じた。
教会で見た少年のように、どうすればいいのかを探る。
力を抜いた瞬間、体の奥に熱が広がり、獣が引き寄せられる感覚がした。
炎の存在は、抵抗することなく、彼女の中へと吸い込まれていく。
ネリアが目を開けたとき、そこにいたのはウェンズワースだけだった。
「早かったな。
よし、行こう。
親のところへ戻らないと。
街中をひっくり返して探してる頃だ」
彼は立ち上がりながら言った。
身を屈め、ネリアが立ち上がるのを手伝う。
そして来た道のほうへ視線を向けた。
「まったく……どうしてこんな遠くまで来たんだ。
さあ、戻るぞ。
抱いてほしかったら、遠慮なく言え」
肩をすくめて、そう言った。
歩き出したが、すぐに立ち止まり、ネリアを振り返る。
「それと……
これのことは、親には話さないでくれ。
俺から、それなりの話はしておく。
いくつかは……胸にしまっておけ」
そう言って、片目を閉じた。




