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第四章 玉鋼の君

 初めて踏み入れた後宮エリアは、思いのほか状態がよかった。刀傷や血飛沫などの目立った傷みや汚れは少ない。ここは争いの際に主戦場にはならなかったのだろう。だからこそ、この空気の重さは異質と言えた。

長い長い廊下。ところどころ御簾の下から誰のものともつかない色とりどりのあでやかな五衣の裾が押し出され、その持ち主たちと思しき声が、通りすがりざまに聞こえよがしにひそひそと耳打ちし合う。嫉妬と情念の渦巻く女の園へようこそと言わんばかりの光景だ。


「ねぇ、見た?あの出で立ち。まるで……」

「ええ。それに立ち振る舞いも。どこの田舎娘かしら」

「それに香や紅のひとつも……主上は何故あのような……」

「うるっせぇぇぇえええ!!!!!文句あんなら出てこい!!!」

モニカが吠えると、カラフルな影たちはきゃあと慌てふためき奥の几帳や柱の向こうへと消えていった。彼女たちは襲い掛かってくる様子はなかったが、好奇と嫉妬の視線に晒される妙に疲れる空間だった。

「主上って誰だよ。たぶんここの王様のことだよな?」

「ぶにゅ」

ふところから顔を覗かせたぷにすけは瘴気にあてられたのかぼんやり気だるげにしていた。気休めにと口にホタル飴を押し込むと、気をよくした様子でカラコロと体内で発光させながら転がし始めた。

「あとで先生に聞いてみっか。答えてくれるか分かんねーけど。あいつ多分知ってるだろ。ここのお偉いさんだと思うんだよな」

「……もに!」

ぷにすけが注意を促した。短い触手が指す方向を注視すると、廊下にコンフェイトが落ちていた。薄紅色、檸檬色、鶯色、水色とさまざまなそれが数メートル先にもう一つ、さらに先に一つ……点々と続いている。

「なんだこれ。大丈夫なやつか?まだ食うなよ?」

「ぷゆぷゆ」

「おい、先行するなよ。近くにいろって」

先程までのぐったり感はどこへやら。予想外のお宝をご機嫌で拾い始めたぷにすけ。たっぷりと戦利品を腕に抱え、モニカのバッグからいそいそと保管用のガラス瓶を取り出す。そうこうしているうちに、曲がり角の死角からまたひとつ転がり出てきたではないか。ころりと綺麗な藤色のコンフェイトだ。

「おいおい、さすがに怪しすぎるぞ。ぷにすけ!待て!」

ひと月ぶりの大好物に目がくらんだ軟体生物は、制止を振り切って飛び出して行った。そして、角から伸びてきた細っこい腕に捕らえられてしまった。

「こら!ぷにすけ返せ!」

曲がり角の向こうの小さな影を追う。兵児帯をつけた童女らしき亡霊は、きゃらきゃらと笑い声を立てながら、ぷにすけを抱いて回廊の奥へと消えていった。もう子供だろうが手加減はしていられない。抜き身のサーベルを引っ提げ追跡しようとすると、刹那、空気を切り裂く音がした。とっさに身をかわし、見れば無数の簪が行く手を阻むように床板に深くめり込んでいた。あと一秒反応が遅ければ、きっと身体を貫かれていただろう。勇者は御簾の向こうの簪の持ち主に切っ先を向け、宣戦布告した。

「出て来いよ。相手になってやる」


静かに巻き取られる御簾。とたんにむせかえるような芳香があたり一面に広がる。十二単の袖口からからすらりと伸びた青白く華奢な指が、金属製の簪を拾い上げた。口元の赤い月がくにゃりと弧を描く。

「……主上。お戻りになられたのですね」

「え」

「わたくし、ずっとお待ち申し上げておりました。お渡りがなくなったあの夜からずっと……ああ、ようやく……」

「おい……」

「わたくしを選んで下さったのね」

女がモニカに絡みついた。途端に冷水に全身を浸したかのような心地になる。これはよくないものだ。今ふところにぷにすけがいなくてよかったと心から思った。振りほどこうともがけばもがくほど力が抜けていくかのようだった。気合一閃、振り上げたサーベル。ごとりと重いものが畳にぶつかる。女の髪と右腕を斬り落としたモニカは、間髪入れずにその首を狙った。金属音が弾ける。ふわり宙に浮いた簪がサーベルの剣先を受け止めていた。

「おまえ、主上ではないわね」

女はわなわなと唇を震わせた。嚙み締めすぎて口の端に血が滲んでいる。宙を舞う無数の簪がその矛先をモニカへ向けた。

「主上が褒めて下さったのですもの。世に二つとないみごとな黒髪だと。あのお方が斬り落とすなんてあるはずもないわ」

絶え間なく降り注ぐ簪の雨を捌くも、瘴気の濃い後宮では視界が悪い。急所は避けたものの、そのいくつかは皮膚を裂いた。

血をぬぐいながら、モニカは目の端であるものを捉えていた。『それ』に目で合図を送ると、サーベルの刃を己のうなじに当てた。

「そいつは悪かったな。これはほんのお詫びだ」

勢いよく刃を滑らせると、豊かな黄金色の髪の束が首と泣き別れになりはらはらと床に零れ落ちた。

「まさか、おまえ何を考えているの」

「これで手打ちになるか?」

「冗談じゃなくてよ」

「だよなッ」

吐き捨てると同時にふところに踏み込む。考えなしにまっすぐ突っ込むなんて莫迦な子、と女は冷笑したが、ばさりと投げつけられた髪の束が視界に散らばり、動きを止めた。簪は標的を見失ったように空中を頼りなく漂い、すぐにサーベルによって叩き落された。畳みかけるように顔面に石の礫のようなものがばら撒かれた女は、咄嗟に袖で庇おうとしたが、間に合わなかった。一瞬の静寂ののち、はねられた首がごとりと庭の玉砂利に転がり、主人を失った簪たちも飛ぶことをやめてばらばらと地に落ちた。


キン、とサーベルを鞘に納めたモニカ。荒い息を吐きだし、苦々し気な顔でようやく振り返ると、女は虚ろな目で天を仰いでいた。

長い黒髪を失い、首だけの姿になってもなお美しさを失わない、在りし日の帝のかつての愛妾。玉鋼の君。彼女はモニカの隣に立つ童女をじっとりと睨んだ。そして恨み事一つ吐き出し、サラサラと塩の山となり、崩れ、消えてゆくのであった。

「ああ、にくらし……。おまえ、どうして、わたくしのもとに生まれて……れなかっ……の……」

童女の亡者は何も答えられなかった。モニカも何も言えなかった。ただ、彼女もまた暗い瞳で消えゆくものを見つめていた。慰めたいのだろうか、ぷにすけが藤色のコンフェイトで満ちた瓶をカラコロと転がし、少女たちの肩に触れ、一つだけ「ぷゆ」とだけ鳴いた。


 その童女が何者なのかは結局分からなかった。しかし無事に帰ってきたぷにすけは新しいおやつを味わいながら小躍りしていたし、押し付けるように手渡された古びた鍵がどうやら厨のものだと分かったので、おそらく亡者の中にも友好的な者はいるらしいとモニカは結論付けた。後宮の奥へと走り去っていく小さな背中を見届け、手渡されたもうひとつのものをもまた、じっと見つめた。

「きれいだな。割れちゃってるけど」

「ぷゆ」

螺鈿細工の椿模様が施された、漆塗りの美しい手鏡だった。なぜだか丁重に扱わないといけない気がして、鞄の奥のほうへと大事に大事にしまい込んだ。


 童女の鍵は厨の錠前とピタリと合っていたようだ。重く軋む戸を開け放ち、新しい風を入れた。瘴気交じりとはいえ、淀んだままよりはいくらかはマシになるだろう。こんもり積もったホコリやカビはあとで取り除くとして、これだけ調理器具が揃った厨だ。綺麗に掃除すればきっと今よりも食生活が潤うに違いない。モニカは期待に胸躍らせ、ほどなくして厨に併設された氷室を見つけた。石造りのそれは半地下になっているようで扉が半分ほど土に埋まってしまっている。立てかけてあった火かき棒で掘り出してやり、苔むした板戸を開け放った。

かがみこんで内部に入る。ひんやり湿った空気が、上気した頬の熱を奪ってゆく。モニカは中央のぽっかり空いた穴の中を覗き込み、敷き詰められた藁をかき分け、そして、絶句した。

「…………何も、ない?」

「ぶに……」

深く掘られた穴の中。ランタンで照らされたそこは濃い影を落とすばかりで、食べ物はおろか氷のひとかけらすら残っていないことが見て取れた。

「明日からどうすればいいんだよ……」

ぽつり吐き出された少女の嘆きに答えられるものはいなかった。



 日を同じくして、戌の刻、北西の鍛錬場にて。

板張りの道場の中ほどに、師は座していた。数日前に急ごしらえの修繕と浄化を済ませたそこは、まだいくつも刀傷やらが残っており、風が窓枠をガタガタと揺らしながら唸り声を上げていた。鬼は静かにその時を待ち、そして振り向かぬままに「来たか」と呟いた。

挑戦者の来訪を告げるかのように、鬼哭風がぴたりと泣き止む。ひたりひたり。緊張感を伴った気配が静寂を裂いた。揺らめく松明の赤に照らされ、勇者が姿を現した。

「剣をとれ」

「真剣か?」

「無論」

言葉少なに、だが確かにそれは始まろうとしていた。

初めて相対した時は、いともたやすくねじ伏せられてしまった。

今の自分がこの人相手に一体どこまで通用するだろう。このひと月、生き抜くのが精いっぱいで、ろくすっぱ修行らしい修行ができているとは思えない。今だって、空腹と疲労で立っているのがやっとだった。それでも、この人の技がまた見られるのなら。何かが掴めるのならば。

「よろしくお願いします」

一礼し、長く細く息を吸って、吐きだす。

期待にはやる気持ちをぐっと抑え込み、サーベルを構えた。

鬼もまた妖刀の鯉口を切り、それに応えた。

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