表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

第三章 師の名は天啓

勇者モニカ・フォーゲルの朝は早い。

春分のころ、卯の刻、呪われた御所の片隅にて。


大内裏の北西に位置する『瑠璃の湯』は、湯殿としての機能を放棄して久しい。亀裂の入った干からびた湯桶の中は存外温かく、黴臭ささえ我慢すれば寝床としては申し分ない。寝ぼけ眼の少女は、腕の中の軟体生物とゆっくりスリーブリンクをかわし合った。

二度寝は許されない。直接小言をいわれたわけではないが、さる気怠い雨の日に昼間まで惰眠を貪り、目覚めたときに師が無言でそばに佇んでおり、ドチャクソ肝を冷やしたからである。

「仕方ねぇ。起きるか」

「ぷゆっ」

観念した一人と一匹は、お腹の音に追い立てられるようにようやく身を起こしたのであった。


寝間着代わりにしているボロ着を旅装束に着替え、腰まで伸びた金髪をぎゅっと結わえる。手早く身支度を済ませ、湯殿『瑠璃の湯』の勝手口を出るとまだ日は昇りきっておらず、薄曇りの空が裏庭に粉砂糖をまぶしていた。先日浄化した井戸『瑠璃の井』の淵にも、霜が降りている。周囲を警戒しながらできるだけ静かに鶴瓶桶を落とし、表面の氷をかち割り水を汲む。冷たく澄んだ水で顔を洗い喉を潤すと、とたんに靄がかった意識が晴れ晴れと冴えてゆくようだった。

ふところから身を乗り出した軟体生物がおそるおそる桶の冷水を少しだけ口に含み、ぶるりと半透明の身体を震わせてすぐにまた元の場所に沈み込んだ。

「バカだな~ぷにすけ。湯冷まし作るまで待てって言ったじゃん」

ふところから「もに!」とくぐもった抗議の声が返ってきた。お前がうまそうに飲むからだと言いたいらしい。掌に掬い上げた水を見つめる。確かにここに来た頃に比べると随分と水質がよくなった。


「ついにこの日が来たんだな」


師である鬼の天啓に寒空の下に放り出されてから今日でちょうどひと月になる。空気は瘴気で淀み、血の川が流れ、四六時中亡者が徘徊する、命のない場所。呪われた御所『藤乃宮』。

そこは絶海の孤島、『修羅ヶ島』内の禁足地から繋がる異空間で、とうに滅びたはずの極東の都の内裏とよく似た景観をしていた。ただ、モニカが噂に聞くよりも随分とおぞましい様子であったが。

王国の勅命で妖刀目当てに殴り込んだ勇者モニカは、御所の主である鬼の天啓に挑み、その圧倒的な力の差のもとに完全敗北を喫したのだ。

しかし手ぶらで帰ることなどできやしない。そして何よりも力を求めていた彼女は、なりふり構ってなどいられなかった。

鬼に弟子入りを志願する勇者など前代未聞であっただろう。

天啓が何を思って承諾したのかはいまだに不明であるが、果たして師はまず第一の課題として、以下のことを言い放った。


「剣を教わりたくば、まずはこの地でひと月生き抜いて見せよ」


何を習うにしても、この場所で生きていけないことにはお話にならない。先ずは身を立てよ。至極真っ当な指示であった。かくして勇者モニカと相棒のアストラリムぷにすけは、呪われた御所でのサバイバルを余儀なくされてしまったのであった。


 そんな彼女が最初にとった行動は、あらかたの地形の確認と水源を確保するために御所内を駆けずり回ることだった。行く先々で亡者たちが涎なのか血なのかよくわからない何かをまき散らしながら襲い掛かってきたが、ここに何日いることになるか分からないので無駄な戦闘は避け、体力を温存したかった。

黒山の亡者だかりに魔女メイプル印の特製ピンク煙玉を投げ込むと、狙い通り亡者同志が絡み合い始めた。ただでさえ腐臭漂う地獄なのに別ベクトルの地獄絵図と化してしまった。なるべく見ないように隙間をすり抜け、四方八方に目を凝らす。


池や鑓水、手水舎などむき出しになっている水源は軒並みドロドロに汚染されていた。いくつか見つけた井戸もまた厳重に封印されていたり、悪趣味なことに生首が投げ込まれていたりでとても飲めそうになかった。手持ちの聖水での浄化が追いつくとは到底思えない。

加えて、アストラリムは瘴気に弱い。ぷにすけの半透明ボディが濁り、具合が少しずつ悪くなっていくのを励ましながらモニカはひた走った。北北西の湯殿脇に、簡素ながらも唯一使えそうな井戸を見つけた時は思わず泣きそうになってしまったのであった。


それから件の約束のひと月が経った。

師である鬼の天啓の生活拠点である清涼殿は、瑠璃の湯から庭園をひとつ挟んで南に建つ、荘厳な寝殿造の住まいであった。廂から昼御座側に回り込み、御簾の向こうの師に朝の挨拶をする。そして、今日の目標は厨および氷室の解放であることを告げた。いつもであれば「よい」「良きにはからえ」などと簡素な返事があるのみだったが、この日は少し妙な間があった。しかしやはり「好むようにせよ」と言葉少なに返ってくるのみであった。ゆったりと身を起こし去ろうとする背中に、もっと何かあるだろうとたまらなくなった彼女は御簾をめくり彼を呼び止めた。

「まっ待て待て待て!天啓!…………先生」

呼び止められた師は無言で彼女を見下ろした。大きな体躯に高貴な衣を纏った彼は、モニカが今までに出会った誰とも似つかない、独自の威圧感を放っていた。無理もない。そのかんばせは死人か審神者がつけるような白い顔布で覆い隠されていたし、長い漆黒の髪を分け入るように額から突き出た鋭い角が、彼の異質さを際立たせていた。

そんな彼を、鬼をモニカは師と仰いでいた。

自らの発した先生という響きがまだいまいち馴染まず、のど越しの悪い食べ物を口にしたような感覚になったが、慌てて気を取り直して二の句を継いだ。

「今日で一か月だよな!約束の!」

「そうであったな」

さらりとこともなげに答えながらも、彼は少女をじっと見据えた。

彼は盲ている。そのため、彼の真白い顔布の向こうの双眸が彼女を映すことはあり得なかった。しかし、彼は常人とは違う目を持っているかのようで、モニカは彼と対峙するときはいつも心の奥まで見透かされているような心地がした。思わずそわそわと姿勢を正した彼女の中に、この時の彼は一体何を見たのか。それは彼自身にしか分からないことであったが、彼は静かに「よろしい。今宵鍛錬場に来られよ。稽古をつけてやろう」と告げた。


「うまいか?」

「ぷゆ」

ニマニマ問いかけるモニカに、小さな相棒は可もなく不可もないという顔をして見せた。それもそのはずだ。朝餉は倒した亡者が落としていった麦と芋がらを塩と水で煮込んだだけのものだ。腹持ちは悪くない。しかしキノスの手料理や、アネモネのおやつによりすっかり舌が肥えた二人には、味気なく思えてしまうのだった。

ぷにすけはもう一度モニカの椀をのぞき込み、麦粥の上澄に口をつけた。そしてレモン色の触手で温度を確かめながらゆっくりと食後の湯冷ましを飲み、「ぷにゃ……」と満足そうに座布団に沈み込んだ。

彼女はそのまま相棒を抱え込んで二度寝に興じたくなったが、食糧の残りが非常に心もとないことを思い出した。

「ええい、気合いだ気合い」

頬をぴしゃりとひとつ叩く。座布団から相棒を引きはがし、小脇に抱え、後宮や厨や氷室が集まる東の対につながる長い渡殿を駆け出したのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ