第二章 手の鳴る方へ
鳥居をくぐるや否や、灰色の雪景色が彼女を取り囲んだ。薄着の彼女はガチガチと奥歯を打ち鳴らしながら震える手でポケットをまさぐり、メイプルに貰った辛辛糖果を急いで口に放り込む。すると十数える間にみるみる身体が芯から温まり動けるようになり、どうやら今いる場所がどこかの都の大路だと分かった。
雪と濃霧と生臭い血煙の中を歩いて数刻が経った頃、ようやく視界が開けてきたので目を凝らしてみると、見慣れぬ景色に取り囲まれており勇者は困惑した。気がつけば背の高い塀にぐるりと四方を囲まれていたのだ。廃御殿とでも言うのであろうか、極東風の武家屋敷が何軒も点在しており、それぞれが壊れかけた橋や木の板の腐った廊下で辛うじて繋がれている。
「うっ……ひっでぇニオイ……」
薄氷の張った溜池に生き物の気配はなく、どろりとした暗褐色の何かがプカプカ浮いていたが正体を確かめる気にはとてもなれなかった。この場所そのものを含め良くないものだということは火を見るより明らかだ。
洞窟の奥にいるにも関わらず、見上げれば重苦しい鉛色の空があり、鬼哭風が牡丹雪をせっせと運んでいる。
枯れた庭園には松の木なんかも生えている。
ここが先ほどの地下と地続きではない、異空間であることは魔法や呪術の類に詳しくない彼女にも察しがついた。
「おっかねぇところだな。はてさて……どこから探索するかな」
勇者アベルは取りこぼしがないよう隅々まで探索するタイプであったが、モニカはよほど楽しいダンジョンでもなければ目当てのものを手に入れたらさっさと帰って温かいご飯にありつきたかった。九龍の言葉通りの強敵なら自分が来たことなどとっくに勘づいているだろう、こそこそする必要はなし。そう判断し一番大きな本丸らしき御殿の正面扉を蹴破ると、まず最初にカビ臭さが鼻にまとわりついた。
そして奥へ進むほどに門の外でも感じた殺気は鋭さを増して肌を刺すようで総毛立った。モニカはボスの気配に集中することで振り払おうと試みていたが、実はそこらじゅうでうめき声やすすり泣き、悲鳴、ぼそぼそと耳打ちし合うような声が彼女の足取りを重くしていた。泥濘の中をドブ攫いしながら進んでいるかのようだ。
特に重い右脚に、断続的にひんやりした感触があり、流石に奇妙に思って見遣るとなんと言うことでしょう。半透明の小さなお化けがグスングスン泣きながら巻きついていた。
「ぎゃっ!!!びっくりしたぁ……!ぷにすけ、おまえ着いてきてたのかよ」
「ぷゆ」
勇者の身体をよじ登り、甘えるように胸元に顔を埋めるクラゲのようなクリアボディの謎の生き物。アストラリムのステラ。アストラル教団に軟禁されていた時に仲良くなった個体がその後ずっとそばを離れず、まぁいいかと結局ペット感覚で世話をしていた。
ぷにすけはぷゆぷゆと身振り手振りで説明した。門に入る前にキノスに預けたのだが、どうやらモニカの鞄の中のコンフェイトを狙って潜り込み、お腹いっぱいになってそのまま眠っていたらしい。
目が覚めるとお化け屋敷真っ只中でパニックになり泣いていた……ということらしい。透け透けのお腹の中を未消化のコンフェイトが漂っている。
「カラフルで綺麗だなぁ……じゃなくて!!あーあ、おれの食糧ほとんど食いやがって」
「ぷゆゆ!」
ジトっと睨むも、クラゲは悪びれる様子もなく満足そうにお腹をさすっている。コンフェイトの瓶はすでに空っぽで水と行動食が目算で二、三日ほどしか残っていない。これは早めに決着をつけて帰るしかなさそうだ。
いつでも『対応』できるよう抜き身の剣を引っ提げ廊下の先を見据えると、空気の流れが変わった。背後からの冷たい隙間風が進行方向に走り抜ける。間違いなく、何者かが急き立てている。
「鬼が呼んでら。行くぞぷにすけ、怖かったら鞄に隠れてろ」
言い切る前に鞄に潜ったクラゲは、ご丁寧に触手を伸ばしてきゅっと開け口の紐を結んだ。その様子にちょっと笑ってしまったが、すぐに気を引き締めた。
誘われるがままに土間造りの厨、客間、大広間を抜けてゆく。奥へ進むほどに柱や梁、襖などの刀疵や返り血らしき赤黒い染みが増えてゆく。
そこかしこに折れたりひん曲がった刀が無造作に打ち捨てられている。凝った意匠のものも多々あったが、いずれも使い物になりそうにない。身分の高い人たちが生前ここで刃を交え、果てて行ったのだと見て取れる。この廃御殿も荒御魂の溜まり場と化してしまっているが、一時は栄華を極めた立派なお屋敷だったに違いない。
程なくして本丸の最奥に辿り着く。酸素が薄い代わりに、ありがたくないことにひときわ瘴気が濃い。額を伝う冷や汗を乱暴に拭い、血まみれの襖を開けば今までと打って変わって中は不自然なほどの整然さであった。
品の良い調度品たちが澄まし顔で鎮座し、香炉から漂う甘い芳香や御簾の奥から聞こえて来る澄んだ龍笛の音に身を任せていた。
御簾の向こうは中庭のようだ。いつの間にやら雪は雨に変わっていたらしく、パラパラと雫が砂利を打つ音がする。
分厚い雲が被さった頼りない月明かりが、それの輪郭を曖昧に描いていた。大柄の男性のように見えなくもないが、こちらに背を向けており角の有無は確認できない。モニカは迎撃姿勢を取りつつそれに話しかけた。
「なあ、おまえがうちの仲間をバラした鬼か?」
途端にピタリと龍笛の音が止む。思わず生唾を飲み込んだ。影は動かない。ただ、気怠そうなため息と、落ち着いた深い声が返ってきた。
「口直しに面白い祭りができるやもしれんと期待したが、おなごか」
「おなご?」
聞き慣れない単語に首を傾げていると、男の影はゆったりとした仕草で盆らしきものをそばに引き寄せた。酒瓶と盃を手で示して、御簾の内側の彼女に手招きした。
「足元の悪い中折角参られたのに忍びないが、女子供を斬る趣味は無いのだ。そら、此方に来て付き合われよ。久方ぶりに今宵はよい幽月が拝めそうだ」
ここに食べ物はないから真似事だけだが、と彼が付け加える通り、手酌の瓶から何かが注がれる様子はなかった。何故、と薄ら寒いものを感じたがどうやら九龍の仇で間違いないらしい。勇者は抜き身の剣で御簾を薙ぎ払った。
縁側に腰掛けた大柄の男がゆっくりと、ゆっくりとこちらを向いて笑った。
「はは、ふられてしまったか。手弱女ではないようだ」
雲間が晴れ、望月の銀灯が差し込んだが逆光と顔布に遮られ鬼の表情は窺い知れない。ただ、額と左右のこめかみに大きな角が突き出ていることは確認できた。鬼が動くよりも先にモニカは先手必勝とばかりに斬りかかったが、気がつけば足を掬われて転がされていた。
こちらは半ば奇襲、あちらは座り込んでおり有利な筈だったのだが、まるでモニカの動きが初めから分かっていたかのような反応の早さだった。見れば、握っていたはずの剣が鬼の手に渡っており彼はしげしげと刀身や意匠に触れながら吟味していた。
「勇猛な姫だな。訛りや、刀の作りを見るに西洋の生まれか。目的はこれか?」
鬼は二人の間合いの真中に赤い刀を突き立てた。
禍々しくも妙に惹きつけられる、恐ろしいほど美しい、血の色の刀だった。モニカはそれから目が離せないでいた。胸が不吉に騒めく。あれは良くないものだ。あれを手にすれば、きっと破滅へと誘われるだろう。分かってはいたが、今この場所に他に武器はない。モニカは紅月に手を伸ばした。
「その通りだ。これは貰っていく」
鬼は動かない。黙ってこちらを見下ろしていた。
歯を食いしばり柄を握りしめた。途端に何かが手のひらを伝って流れ込み、身体中を食い破らんばかりに暴れ始めた。それは悲鳴であり、怒声であり、啜り泣き、慟哭だった。刀が吸ってきた何百何千ものあらゆる感情が、声が彼女の打ちのめした。精神の鍛錬を積んでいない常人であれば耐えきれず心を壊してしまったかもしれない。だが未熟ながらも幾度も死線を潜り抜けてきた彼女は己を叱咤ししかと両脚で踏ん張った。そして手の中の不吉の塊に向かって咆哮を浴びせた。
「今のが鬨の声だ。覚えとけよ」
握りしめた柄は灼けつくように熱かったが、かまいやしなかった。冴え冴えとした青い瞳と、赤い切先を鬼に向けて宣戦布告した。
「この刀はおれのものだ。邪魔するなら斬るぜ」
その場の重力が増したかのように思えた。ピンと張り詰めた空気の中、白い顔布の向こうで鬼が笑ったような気がした。
「其方を侮っていたようだ。最早只の女子供だとは思わぬ。」
鬼はゆらりと立ち上がり、雨夜色の直衣を翻し霜立つ庭先へと降り立った。そして勇者の剣をすらりと構え、彼女を祭りへと誘った。
「参られよ」