序章 堕ちた帝
この世の涯の離島から、一体どのようにして都の御所へ帰り着いたのかもはや定かではない。ただ、雪深い山間の悪路だとか、己を怯えた様相で見上げる百姓だとかは記憶の水底に欠片として存在していたし、道中生きたまま貪った野鼠の砂混じりの血の風味などは今も小骨と共に喉に張り付いている。
そして今この瞬間、政敵の喉笛から噴き出る血飛沫を浴びることで克明な意識を一時的に取り戻すに至った。絹を引き裂くような悲鳴が上がる。視界の端で全裸の女がすっ転がって失禁していた。つい先程まで政敵と睦み合っていた女御だ。軽く刀を振ると静かになり、血溜まりの中に二人仲良く折り重なった。
「続きはあの世で楽しまれよ。流石に私の刃も煉獄までは届きますまい」
あらゆる体液で汚された其処は、幾月前までは確かに己の寝所だった。窮屈で混沌とした、陰謀渦巻く政界の中で、呼吸することを許された畳何枚か分の小さな居場所を、天啓は黒く冷えた瞳で見下ろした。
もう此処には何の未練もない。
この部屋に辿り着くまでに何人手にかけただろうか。十を超えたあたりから数えることを放棄してしまった。部屋を出てからも同様。
我が物顔で御所にのさばる、己から全てを奪った彼奴等は勿論のこと、門番から厩番、腕に覚えのある公達に至るまで、邪魔立てする者は皆一様に斬り伏せ薄氷の張った庭の池やら井戸へと雑に放り込んで行った。雑食の鯉が人肉に食いつくさまを暫し愉しんだが、すぐにどうでも良くなった。
次だ。次のを早く斬らなければ。
寒空の下どれだけ動いても不思議と寒さも疲れも感じず、瞬きを忘れたまなこで勝手知ったる御所内を徘徊し次々に命を食らい尽くして行った。
彼の内側を舐めるどす黒い炎は、やがてその身を灼き肉の器をも捻じ曲げた。殺戮の高揚感は頭蓋を突き破り鋭く尖った角となった。額に一本、こめかみに二本。天啓は人の身に余る業を自ら進んで背負い、名実共に鬼と化してしまったのだ。
見てくれなどはおまけのようなもので、復讐を果たした今も鎮まるどころかより増幅する怨嗟の念と、血肉を斬り刻みたいという飢餓感に似た衝動が彼を蝕み、政敵と、行く手を阻む者以外は決して斬るまいという仏への誓いをいとも容易く破らせた。
殿中での騒ぎに気付いた人々は注意を促し合い山間へと避難したようで、夜も眠らぬと言われていた都は嘘のような静けさで鬼をもてなした。限界まで酷使した腕が血を吸った刀の重みに負ける。だらりと垂れ下げた切先で雪野を撫でながら、どこか夢見心地のような足取りで大路を歩む。
耳鳴りがするほどの静寂の中で、けたたましい鼓動が疼痛を伴い頭を揺らす。鬼は頭蓋の中で反響するいくつもの声に追い立てられながら、人の気配やにおいを辿った。
「隠れ鬼の始まりだ」「復讐は済んだ筈だ」「もうどうなったって良い」「××は帰ってこないのだから」「誰でも良い。早く斬りたい」「こんな私にした奴らに知らしめてやるのだ」「××はこんな事望まない」「関係ない、私は地獄行きなのだ」「誰か助けてくれ」「こんな国滅ぼしてしまおう」「こんなこと意味がない」「構いやしない。愉しんでしまえ」
「私にはもう何もないのだから」
そう思い至った瞬間に、懐から転がり出た小さな手鏡が足元の砂利に叩きつけられ砕けた。螺鈿細工が施された美しい工芸品。いつかの喧嘩の詫びにと妻に贈るはずだったものだ。破片に、醜く歪んだ顔が映り込む。妻が美丈夫といって愛してくれた男はもう何処にも居ない。口元に何の意味もない弧を描いた。自分を慰めたかったのかもしれない。
果たして鬼は、壊れた心と新たに芽吹いた本能の赴くままに甘美な匂いに誘われ辿り着いた川のほとりにて、次なる獲物を見つけてしまった。
親とはぐれたのであろうか。鬼は所在なげに立ち尽くす娘を、何の罪もない少女の無垢な身体を斬り裂いた。
新鮮で温かな血の雨を浴びた心身は高揚感で満たされ、刹那の間飢餓感は慰められたかのように思えた。しかしほんの微かに残された人間性がそうさせたのだろうか。鬼は振り返り、己が斬ったものを見た。
今はもうこの世に居ない自分の娘とそう変わらない歳の頃だと気づくや否や、少女の面差しがぐにゃりと歪み、記憶の中の我が子のそれに重なった。桃色の頬から色が失われてゆく。新雪を赤く染めあげながら人が物に変わり果てるさまを呆然と見つめた。
娘の命もきっと、己の手の届かぬ所でこのようにして奪われたのだろう。私は彼女らを守れなかった。私が娘を斬ったも同然だ。この少女にもきっと己が命よりも大事に想っている親があっただろう。それを今し方私が欲望の赴くままに奪ってしまった。どんな道理があったとて許される事ではない。死するべきは誰かは明白だ。
彼は名も知らぬ少女に、娘に、妻に届かぬ詫びを譫言のように繰り返し、最初からこうすれば良かったのだと自嘲し「私のような外道に来世はない。されど叶うのであれば、地獄にて贖罪が果たせたならば、どうか妻子とこの少女だけは極楽へ召されますよう、畏み畏み申す」ひとつ辞世の言葉を遺すと、べったりと血に濡れた赤い刀身を己の首筋にあてがい勢いよく滑らせた。
しかし頑強な鬼の身はろくに刃を受け付けず、彼に償いの機会を与えることを許さなかった。それどころか、たっぷり恐怖と絶望を吸った刃が彼のかんばせにその呪縛の飛沫を浴びせた。政敵だけではない、戦場で吸わせてきた何百何千人分もの命の炎が彼の眼球を犯し、網膜を蝕み、とうとう天啓の両の眼からは永久に光が失われることとなった。