第1話 黒い霧
オーソシア大陸の中央部から東部にかけて広大な領土を持つ大国、エレニール帝国。その版図は今もなお広がり続けており、それ故に争いの火種がそこかしこで燻っている。
その火種のひとつが、帝国の東に位置するガラト王国であった。
十年前、部族同士の内乱を鎮め、国内の平定に成功したガラト人の王クルステンが、その余勢を駆って帝国の国境付近にまで侵出してきたのである。
国境を越えて攻め込んでくるガラト人は、躊躇なく村に火を放ち、金品や作物を奪い、獣のように女を犯す、まさに悪魔のような存在だった。
ところが、大陸統一にまい進する帝国上層部にとって、東の辺境で起こった蛮族の襲来など些事に過ぎず、現地の総督府に「適宜処理せよ」というおざなりな指令を出しただけで具体的な対策は何も講じなかった。
そうなると現地に暮らす民や兵士は見捨てられたも同然だった。
特に国境沿いにあるハルディ砦の守備隊は、ろくな支援も受けられないまま神出鬼没なガラト人との絶望的な戦いを強いられた。
戦いは十年以上に渡って続き、多くの兵や民が犠牲となった。
そしてその数はこれからも増え続けていくのだろうと誰もが思っていた。
ところが、二カ月前を境に、ガラト人の襲撃がぱたりと途絶えたのである。
あの強欲なガラト人がなんの理由もなく手を引くなど考えられない。
唐突に訪れた平和は、人々に安堵よりも不安をもたらした。
過去にない大攻勢の前触れだと警鐘を鳴らす者。
疫病が蔓延したのかもしれないと憶測を口にする者。
これまでの悪行に神罰が下ったのだと声高に叫ぶ者。
それらの流言飛語があらかた出尽くした頃、ガラト領内からやってきた行商人が衝撃的な情報をもたらした。
なんと、ガラト王国が滅亡したと言うのだ。
にわかには信じがたい話だった。
なぜなら、ガラト王国は大陸の東端、突き出た半島に位置しているため、エレニール帝国以外に隣接する国が存在しないからだ。
では、いったい誰に滅ぼされたというのか。
その疑問に対して、行商人は恐怖で顔を引きつらせながらこう答えた。
あれは魔王の仕業に違いない、と。
あまりに荒唐無稽な話に、最初は誰もまともに取り合おうとはしなかった。
だが、現にガラト人の襲撃が途絶えているのは事実である。そしてガラトから逃れてくる者が次々と同じようなことを口にしたことで、いよいよ無視できなくなった。
そこでハルディ砦の司令官は、信頼する四人の騎士にガラト王国の調査を命じたのである……。
――――――――――――――――
四騎の騎馬が舗装もされていない泥道を縦に並んで進んでいた。
身に着けた鎧や外套は薄汚れ、顔には濃い疲労の色が張り付いている。それでも全員が油断なく周囲に鋭い視線を向けていた。
先頭を行くのは、この地方では珍しい黒髪と黒い瞳を持つ、精悍な顔つきの若者である。
若者は名をラーズという。
エレニール帝国に仕える騎士で、幼いころから父親に鍛えられた剣の腕前は騎士隊随一とも言われ、若くして騎士隊長の位を拝命していた。
突然、馬がいななき、その場で足を踏み鳴らし始めた。
「どうどう!」
ラーズは手綱を操り、馬を宥める。
「大丈夫……大丈夫だ」
馬の耳元で囁き、首筋をぽんぽんと叩く。
それでようやく馬は落ち着き、再び進み始めた。
先ほどから同じことの繰り返しだった。あきらかに先に進むことを嫌がっている。
馬は臆病な生き物だ。本能で危険を察知し、主人に引き返すよう訴えているのかもしれない。
ラーズはゆっくりと視線を巡らせた。広大な原野が広がっているだけで、差し迫った危険があるようには見えない。どこか空気が淀んでいるように感じるのは、見ている側の気持ちの問題だろう。
「引き返したい気持ちはわかるが、これも任務なんだ。我慢してくれ」
そう呟いてから、もう一度愛馬の首筋を撫でた。
「――なぁラーズよ」
部下のひとりが馬を横に並べてきた。
屈強な体躯の持ち主で、顔にはその体格に相応しい立派な顎髭を蓄えている。名をウォーレンといい、この隊の副長であり、ラーズとは十四歳のときに共に騎士団に入団して以来の付き合いである。
「なんだ、ウォーレン」
「本気でこの先に進むのか?」
馬の心情を代弁したかのようなウォーレンの台詞に、ラーズは思わず苦笑した。
「そういう命令だからな」
「今さらこんなことを聞くのもなんだが、今回の任務、お前はどう思っているんだ?」
「どう、とは?」
「本当にガラトが滅亡したと思うか?」
ラーズは少し考えてから答えた。
「……滅亡したかどうかまではわからんが、ガラト人が攻め込んでこなくなって二カ月以上が経つんだ。ガラト領内で何かが起きたことは間違いないだろう」
「例の行商人が言っていた魔王とやらか? お前は今回の件がその魔王の仕業だと本気で思っているのか?」
そう問いかけてくるウォーレンの眼差しは真剣そのものだった。
「それは今の段階ではなんとも言えないな。むしろお前はどうなんだ、ウォーレン。魔王の存在を信じているのか?」
「野蛮人どもの妄言だ。信じるに値しない……と言いたいところだが、どうにも嫌な予感がするんだ。なんていうか、肌がぞわぞわするような、そんな感じがずっと消えん」
「……」
「だいたい、おかしいと思わないか? ガラト領内に入ってから何日も経っているのに、今の今までガラト兵どころか人っ子ひとり見かけていないんだぞ」
その点はラーズも不審に思っていた。敵国への潜入任務であることから人目に付かないように街道を避け、山道や森を進んできたということを差し引いたとしても、あきらかに様子がおかしかった。
「怖いなら怖いって素直に言いなよ、ウォーレン」
後ろから揶揄するような声が会話に割り込んできた。
オッシという名の若い騎士だった。隊で一番若く、童顔で愛嬌がある顔立ちをしている。性格も陽気で心優しいのだが、いざ戦いになると獰猛な肉食獣のように敵に襲い掛かることから、仲間内では『狂犬』の二つ名で呼ばれていた。
「おい、誰が怖がってるだって?」ウォーレンは振り返り、オッシを睨んだ。「今のは副長として隊の安全を考えての発言だろうが。そう言うお前の方こそびびってるんじゃないのか?」
「もちろん、びびってるよ」
オッシは事も無げに言ってのける。
「だって魔王だよ? 実在するならそりゃ怖いに決まってるでしょ。あ、でも伝承になってるってことは大昔に誰かに倒されたってことで、つまるところ俺たちにも倒せる可能性があるってことか……。もしかして俺たちが新たな勇者になっちゃったりして」
「お気楽野郎め」
ウォーレンは吐き捨てるように言うと、この際だとばかりに最後尾の男にも声を掛けた。
「イームクレン、おまえはどうなんだ?」
イームクレンと呼ばれた痩身の男は素知らぬ顔で遠くを見つめていたが、やがてウォーレンの方を向いて真顔で答えた。
「本当に魔王とやらが実在するなら、ぜひ一度手合わせしてみたいものだな」
「……お前に聞いた俺が馬鹿だったよ」
「怖いのなら、俺が戦っている間に逃げるといい」
イームクレンは野性味と気品が絶妙なバランスで同居する顔に独特な笑みを浮かべて言った。
「ちっ、勝手に言ってろ、戦闘狂め! ……まったく、お前の部下には俺以外にまともなヤツはいないみたいだぜ」
肩をすくめるウォーレンに対し、ラーズは苦笑するにとどめた。
ウォーレンは臆病とは程遠い勇敢な戦士で、一連の言動が恐れをなしたものでないことは長い付き合いからわかっていた。これまで誰も口にしなかった魔王の話題をあえてこのタイミングで振ってきたのも、部隊内の微妙な緊張を感じ取ったからだろう。
もっとも、オッシやイームクレンもそれを承知の上で揶揄っているのだろうが。
「とにかく、この国でなにかが起こったことだけはたしかだ。それが何かは突きとめる必要がある。次に俺たちの砦が災厄に見舞われないとも限らないんだからな」
ラーズは全員に聞こえるように言うと、前方を見据えた。
すでにガラトの王都、ガラトバルガンまであとわずかというところまで来ている。道の向こうにある丘の頂からなら、王都の街並みが見えるはずだ。
ラーズは馬に拍車を入れ、一気に丘を駆けあがった。
他の三人もそれに続く。
そして現れた景色を見て、ラーズは絶句した。
「おいおい、どうなってやがる……」
ウォーレンが震える声で言った。オッシとイームクレンは一言も発することなく、ただ茫然と目の前の光景を見つめている。
想像していたものとは、あまりにもかけ離れた景色だった。
丘の向こうには、あるべきはずの王都の街並みがなかった。
消えてなくなったのではない。
霧だ。
濃霧という言葉すら生温いほどの黒い霧に大地が覆われているのだ。
悪天候……ということは考えられなかった。なぜなら、黒い霧のさらに上空には澄み渡った青空が広がっているからだ。
空と大地が青と黒の二色に綺麗に分たれた様は、まるで現実と虚構の境界線がそこにあるかのようだった。
「魔王……」
この世のものとは思えぬ光景に、ラーズは無意識のうちにそう呟いていた。




