第16話 暗雲
それから一行は、丸一日かけてニカール山の麓まで戻ってきていた。
行きと違い、荷馬車が通れる道を探す手間もあって、もどかしい行軍が続いた。
幸い、今のところ怪物どもが追ってくる気配はない。
ただ、孤立無援の状況と長旅による疲労の蓄積、そして怪物どもがいつ襲ってくるかわからないという不安が混然一体となって、一行から口を開く気力を奪い去っていた。
例外は、定期的に聞こえてくるコルウィンの無邪気な泣き声だけ。
ラーズは馬車に馬を寄せ、荷台を覆う幌をめくって中の様子を窺った。
中は食糧を積みこんでいるせいで狭苦しく、子供たちは一か所に固まって、不安そうに肩を寄せ合って座っている。そのなかにまじって、フィリスがコルウィンにミルクを与えていた。
どうやら赤子の扱いには不慣れらしく、いささか手つきが危なっかしい。隣にいるベルがはらはらした様子でいつでも手を伸ばせるよう身構えている。
赤子の面倒を見るフィリスの姿に聖者としての威厳はなく、年相応の娘にしか見えなかった。普段の落ち着いた佇まいから忘れがちになるが、彼女はここにいる子供たちとたいして年齢は離れていないのだ。そんな少女に世界の運命を左右するような使命を与えるロセヌ神に、ラーズは軽い嫌悪を覚えた。
馬車から離れようとしたところで、それに気付いたひとりの少年が「騎士さま!」と慌てた様子で身を乗り出してきた。
「どうした?」
「お願いがあります。ぼくを騎士隊に加えてください!」
「お前は騎士になりたいのか?」
少年は首を左右に振った。
「父さんや母さんの仇を討ちたいんです!」
ラーズは少年を顔をまじまじと見た。まだ十歳くらいだろう。その年齢に似つかわしくない悲壮感を漂わせている。
「少年、歳は?」
「じゅ、十三」
「嘘つきは論外だな」
「十一……です」
少年は顔を真っ赤にして訂正した。
「名前は?」
「ルーカス」
「ルーカス、よく聞け。今のお前に怪物と戦えるだけの力はない。ただの足手まといを騎士隊に加えることはできない」
ラーズはそう言いながら、少年と目線を合わせた。
「いいか、物事には順序がある。騎士になったからといって一朝一夕に強くなれるわけじゃない。お前はまだ子供だ。これから時間をかけて鍛錬を重ね、少しずつ強くなっていくしかない。十年後、今の気持ちを忘れてなければ、きっとお前は強い戦士になっているだろう。だから戦いは我々に任せ、お前は生き残ることだけを考えろ」
少年は悔しそうに唇を噛む。
頭では理解できても、心が追い付かないのだろう。両親を殺されたばかりなのだから、それは仕方のないことだった。
「……とはいえ、我々の能力にも限界がある。特に今のような状況では、怪物どもの襲撃に備えるのに手一杯で、どうしても他のことは疎かになりがちだ。こういうときは皆で力を合わせ、それぞれが自分にできることを精一杯やらねばならない。俺が言っていること、わかるな?」
こくりと頷くルーカス。
「よし。ではさっそく力を貸してくれ。その袋に入っているパンを外の者たちに配るんだ。それが済んだら、ここの子供たちにもだ。皆でちゃんと分け合うんだぞ」
「……」
不服そうに黙り込む少年を見て、ラーズは思わず苦笑した。
「働きによっては従者として傍に置いてやる。だからしっかりと働くんだ」
その一言で少年の目の色が変わった。元気よく頷いて、パンを両手に抱えて馬車を飛び出していった。
その背を見つめながら、ラーズは心の中で謝った。
従者云々は、少年を納得させるための方便だった。
難民は騎士になれない。成長すれば戦奴として戦地に連れていかれ、そこで死ぬまで戦わされる。運よく生き残れば騎士に取り立てられることがあるかもしれないが、ほとんどの者はそうなる前に命を落とす。
そもそも、十年後はおろか、一年後に世界がどうなっているのかさえわからないのだ。少年が成長するよりも先に人類が滅んでしまう可能性だって当然ある。
ただ、それをここで伝える必要はなかった。いずれ真実を知って恨むかもしれないが、それはそれで生きる糧にはなるだろう。
ふと視線を感じて顔を上げると、フィリスがこちらを見ていた。
嘘を咎められているのかと思ったが、そういうわけではなさそうだった。
彼女はかすかに微笑んだだけで、特に何か言うでもなく再びコルウィンにミルクを飲ませる作業に戻った。
ラーズも何も言わずに馬車から離れた。
それから数時間後、偵察に出ていたイームクレンが戻ってきた。
彼はラーズの傍に馬を寄せると、切迫した表情で言った。
「黒い霧の侵攻速度が上がっている」
「なんだと?」
「このままのペースだと俺たちが森を抜ける前に呑み込まれる可能性がある。それだけじゃない。黒い霧の周辺に大量のメッサーが出現していた。おそらく百は下らない」
奴らの狙いは最初から神託の子だったんじゃないのか――ウォーレンの言葉がラーズの脳裏を過った。
「ラーズ、どうする?」
イームクレンの視線は馬車の方へと向けられていた。
今ならフィリスと神託の子だけを連れて全速力で馬を駆れば、黒い霧に呑まれる前に森を抜けることができる、そう言っているのだ。
しかし、それは同時に子供たちをこの場で見捨てることを意味していた。
「……どうもこうもない。このまま可能な限り急ぐしかないだろう」
「それでいいんだな?」
「まだ間に合わないと決まったわけじゃない。可能性がある限り諦めはしない」
「ならばそんな顔をするな。お前が動揺すれば、皆が不安になる」
イームクレンのその言葉で、ラーズは自分が手綱を力一杯握りしめていることに気付いた。
力を抜き、深呼吸する。
それでようやく落ち着きを取り戻すことができた。
「ご苦労だった。疲れているだろう。荷台で少し休め」
「ああ」
イームクレンは馬から降り、手綱を引いて馬車の方へと歩いていった。
その日の夕刻。森の切れ目にある小川のほとりに出ると、ラーズは夜営する旨を皆に告げた。
急がねばならないことはわかっていたが、馬が限界に近かった。
馬だけではない。常に気を張り続けている騎士たちの疲労も相当なものだった。これより先は、いつでも戦えるように体力を温存しておかねばならない。休息はどうしても必要だった。
ラーズは愛馬に水を飲ませ、丹念にブラシをかけてから近くの木に繋いだ。
馬車の方から赤子の泣き声が聞こえてくる。フィリスとベルが交代であやしているようだが、一向に泣き止む気配はない。ラーズにはその泣き方が少し異常に思えた。なにかを訴えているような必死さを感じるのだ。
異変が起こったのは、それから十分ほど経ってからだった。
ラーズが何気なく南の空へ視線を向けると、茜色に染まる上空に複数の鳥が飛んでいるのが見えた。
否、鳥に見えたそれは、まったく別の何かだった。鴉をそのまま大きくしたようなシルエット。頭部にはメッサーと同じような触手が生えている。
「フーガーだ!」
ラーズは剣を引き抜き、周囲に向かって叫んだ。
フーガーは飛行型の怪物である。滅多に見かけることはないが、フーガーが飛んでいる場所には必ずメッサーもいるのがこれまでのパターンだった。
案の定、森の向こうから茂みをかき分ける複数の音が聞こえてきた。
「敵襲ッ! 敵襲だッ!」
すぐさまウォーレンとイームクレンが駆け寄ってくる。
ラーズは馬車の方を振り返った。すでにフィリスが子供たちに馬車の中へ隠れるよう誘導していた。その近くにはオッシの姿もある。
「オッシ、そのまま馬車を守れ!」
オッシは「了解」と片手を上げて応えた。
「イームクレンは空の奴らを頼む」
「わかった」
イームクレンは弓を手にその場から離れていく。
そのとき、なんの前触れもなく周囲が明るくなった。
馬車の上空に眩い光を放つ球体が浮かんでいた。その真下に、上空に向かって手を突き出しているトーキルの姿があった。どうやら彼が魔術で光源を作り出したようだった。敵に居場所を教えるようなものだが、怪物どもが夜目が利く場合、こちらが一方的に不利になるだけなので妥当な判断と言えた。
魔術の光に照らされた木々の合間から、複数のメッサーが近づいてくる。
「俺とお前であいつらをやるぞ」
ラーズは頼れる相棒に声を掛けた。
「やれやれ、あの数はさすがに骨が折れそうだな」
台詞とは裏腹に、剣を構えるウォーレンの顔は獰猛な肉食獣を思わせた。
「やらなきゃ死ぬだけのことだ!」
そう言い放ち、ラーズは先頭のメッサーに突っ込んでいった。




