第9話 出発
「よし、出発だ!」
全員が騎乗したことを確認すると、ラーズは号令を発した。
「ロセヌ神の加護があらんことを!」
ハイマンが厩舎を出ていく一行に片手を上げて祝福する。
一行は一列になって砦の門をくぐる。なだらかな丘の斜面を下り、朝の活動を始めたばかりの村の横を駆け抜けていく。
先頭はラーズ、二番手にイームクレンが続く。聖者一行を挟んだ最後尾にはウォーレンとオッシがつき、左右後方を警戒をする。東のボタモイ平原を抜けるまでは、この隊形で進むつもりだった。
収穫が終わったばかりの畑を抜けて原野に出ると、ラーズは振り返って後方を確認した。事前の申告どおり、フィリスたちはしっかり馬を乗りこなしており、問題なくついてこられているようだった。
それならば、と馬に拍車を入れ、一気に速度を上げる。
この旅は時間との戦いになる。
ゆえにラーズは、かなり無茶な強行軍を一行に強いた。
速駆けと小休止を繰り返しながら、ひたすら走り続ける。
道中、口を開く者はほとんどいなかった。慣れている騎士たちでさえ余計な軽口を叩く余裕がないほどだった。
騎士隊の馬はそんな常軌を逸した進軍にもへこたれることなく、騎士たちを背にガラトの大地を颯爽と駆け抜けていく。
そろそろ日が暮れようかというところで、ラーズはようやく行軍の停止を告げた。
本来ならば夜通し進みたいところだが、さすがに人も馬も疲労の限界だった。
特に魔術師トーキルは疲労困憊といった様子で地面にへたり込む。
それを見たオッシが近寄り、「大丈夫かい?」と水袋を差しだした。
トーキルは声を出すのも億劫らしく、手でそれを押しとどめた。そしてゆっくりと体を起こすと、大きく息を吸い込み始める。
コーッという喉の奥になにかが引っ掛かるような呼吸音と共に、数回深呼吸を繰り返す。たったそれだけで真っ青だったトーキルの顔はみるみる血色が良くなり、あっという間に元気を取り戻した。
「いやぁ、こんなに馬に乗ったのは初めてですよ。さすがにしんどいですねぇ」
トーキルは呆気に取られているオッシに笑顔を向けると、差し出されたままの水袋を受け取り、美味そうにぐびぐびと喉を鳴らした。
「……いったい何をしたんだ?」
オッシは好奇の視線をローブ姿の男に向けた。
「なにって、深呼吸をしただけですよ」
「嘘だろ? それだけでそんな元気になる?」
「我々魔術師は『魔素』と呼ばれる大気中のエネルギーを体内に取り込むことができるんです。今はその魔素を取り込む為の特別な呼吸法を行なったんですよ」
「……そういやあんた、魔術師だったっけか」
「ええ。私は他の方々と違って身体を鍛えたりしていませんからね。魔術の力を借りなければ、とてもついてはいけませんよ。むしろ騎士の方々はいつもこんな無茶をしているのですか?」
「いつもってわけじゃないけど、敵はいつ何時攻め込んでくるかわからないからね、無茶には慣れっこなのさ」
「……なるほど、私に騎士はとても務まりそうにありませんねぇ」
トーキルは肩をすくめてから「よっこらせ」と立ち上がった。
「そんなことよりも、せっかくだからなにか魔術を使ってみせておくれよ」
オッシが目を輝かせながら言った。
「……ついさっきまで疲労困憊だった人間にその要求をしてくるとは、あなたもなかなかの鬼畜ですねぇ。申し訳ありませんが、今は勘弁してください。いずれ機会があればお見せしますから」
「そりゃ残念……。ところでさ、さっきあんたがやってた呼吸法をマスターすれば、俺も魔術が使えるようになったりする?」
オッシの質問に、トーキルは少し考えてから答えた。
「さてどうでしょうか。魔術の習得は容易ではありません。学ばなければならないことは多岐にわたりますし、魔素を取り込む呼吸法は何年も修行を積まないとできるようにはなりません。なにより魔術を扱うには特別な才能が必要です。残念ながらあなたの年齢で今から魔術師になるのは極めて難しいと言わざるを得ないでしょう」
「そっかぁ……難しいかぁ」
がっかりするオッシを見て、トーキルは苦笑した。
「そんなに良いものではありませんよ。魔素は魔術を扱うのに必須ですが、人体にとっては毒でもありますから、取り込めば相応に健康に害を及ぼします」
「じゃあ、ひょっとしてその顔って……」
「ええ、これも魔術を扱う代償の一部です」
「痛くないの?」
「別に痛くはありませんよ」
言いながら、トーキルは自身の顔の黒ずんだ部分を指先でつつく。
「魔術師って、みんなそんな顔してるのかい?」
「オッシ殿は、ひょっとして魔術師を見るのは初めてですか?」
「少なくとも、あんたみたいな顔をした奴は見たことないね」
「まぁそうでしょうねぇ。魔術師の多くは人間社会に溶け込むために魔術で容姿を変えていますからね。一皮むけばみんなバケモノみたいな容姿をしてますよ」
「そうなの? けど、あんたは見た目を弄ってないじゃないか」
その言葉に、一瞬だけトーキルが真顔になる……が、すぐに相好を崩して砕けた調子で言った。
「一度偽ってしまうと、延々とそれを続ける羽目になりますからね。それでますます代償が重くなる。まさしく負のスパイラルというやつで、そんなことに労力を割くのは馬鹿らしいじゃないですか」
「ふぅん……あんた変わってるね」
「それは誉め言葉として受け取っておきましょう」
トーキルは顔の半分だけで笑顔を作った。
その後、一行は近くの泉で馬に水を飲ませ、それから夜営の準備に取り掛かった。
作業が一段落した頃合いを見計って、ラーズは騎士たちを集めた。見張りの順番を決めるためである。
いつものことなので手早く順番を決めていく。
すると、それを見咎めたフィリスが慌てて駆け寄ってきた。
ラーズが用向きを問うと、「わたくしも見張りにつきます」と申し出た。
大の大人でも根を上げるような強行軍をした後だというのに、彼女の毅然とした態度は一向に崩れる気配がない。しかも、「我々も」ではなく「わたくしも」と言うあたりがいかにもこの少女らしい。元々の性格なのか、それとも聖者としての使命感がそうさせるのか。いずれにしろ根が真面目なのは間違いないだろう。
ただ、ラーズは彼女の申し出を丁重に断った。慣れない行軍で疲れているだろうから、というのが口にした理由だが、本音は違った。
ラーズはフィリスの人となりは信用していたが、能力を信頼してはいなかった。
聖者として戦闘訓練は積んでいるとのことだが、その実力は未知数である。協力し合うとは言ったものの、隊の安全を預けるとなれば話は別である。
信じられるのは己の力と隊の仲間だけ。
ラーズはこれまでそうやって生きてきたし、これからも変えるつもりはなかった。
申し出を断られたフィリスは気落ちした様子で戻っていった。
アイラがすぐさま主のもとへ駆け寄り、労わるように肩を抱く。慰めの言葉を口にする彼女の表情はまるで慈愛に満ちた聖母のようだったが、ラーズと目が合うと一瞬でものすごい形相に変貌した。
てっきり文句を言いにくるかと身構えたが、結局はなにも言ってこなかった。
フィリスが無理をしているのは誰の目にも明らかで、アイラも内心では休んでもらいたいと思っていたのだろう。思惑が一致したおかげで、どうやら災難からは免れたようだった。
先に見張り番となったウォーレンがさっそく見回りに向かうと、ラーズは自分の寝床と定めた地面にどっかりと腰を下ろした。
さすがに身体は疲労を感じていた。
馬から下ろした荷物に背を預け、空を見上げる。
空には雲一つなく、星がこれでもかと瞬いている。美しい星空を眺めていると、この地に黒い霧や怪物が存在していることが嘘のように思えてくる。
だが、今はまだ奴らの勢力圏外にいるだけなのだ。ここからさらに東に進めば怪物と遭遇する可能性は飛躍的に高まる。
ゆっくり身体を休められるのは、おそらく今夜が最後だろう。
ラーズは大きく伸びをしてから地面に寝転がり、そして目を閉じた。