プロローグ
その日、若者はいつもどおり森に入った。
十年前に父を病で失って以来、毎日この森で木を切って生計を立てている。
ここで採れる木材はしなやかで耐久性に優れており、弓の材料として重宝されていることから、母とふたりで慎ましく暮らしていく分には十分な収入を得られていた。
若者が暮らしているのは王都から遠く離れた山岳地帯にある、周囲を深い森に囲まれた寂れた村である。
子供の頃は都の華やかな暮らしに憧れたりもしたが、人見知りな性格もあって、今では黙々と木を切る生活の方が性に合っていると思っている。母はことあるごとに「孫の顔が見たい」と言ってくるが、器量も野心もない男に嫁の来手などあるはずもなく、当分は期待に応えられそうになかった。
森に入ってしばらくして、若者は森の様子がいつもと違うことに気付いた。
普段よりも静かなのだ。まるで森全体が眠りについているかのようで、鳥のさえずりや獣の鳴き声がまったく聞こえてこない。この森で木を切るようになって長いが、こんなことは初めてだった。
と、ふいに辺りが薄暗くなる。
若者は「ひぃっ!」と引きつった声を出して身を竦ませた。
立ち止まって周囲の様子を窺う。
が、しばらく待っても特になにも起こらなかった。
どうやら太陽が雲に隠れただけのようだった。
「お、驚かせやがって……」
若者は盛大に安堵のため息を吐いた。
臆病な性格は自覚しているが、普段ならばこの程度でびくついたりはしない。きっと、つい先日顔なじみの行商人から聞いた話が尾を引いているせいに違いなかった。
なんでも、都へ向かった商人たちが次々と行方知れずになっているというのだ。
都の周辺では得体の知れないバケモノが度々目撃されているという噂もあり、人々の間では『魔王』が復活したのではないかとまことしやかに囁かれているという。
魔王とは、このガラトの地に古くからある伝承に出てくる闇の化身である。
邪悪な力を操り、大地を支配しようとする闇の魔王。その野望を阻止すべく立ち上がった光の勇者の活躍を描いた英雄譚……。若者はその英雄譚が好きで、小さい頃は寝る前によく母親にねだって話をしてもらったものだ。
伝承では、魔王は勇者によって討伐されたことになっているが、なにせ伝説の魔王と恐れられるほどの存在だ。なにかの拍子で復活したとしても不思議ではない。
もし魔王がこの森にやってきたのだとしたら……そう考えると、見慣れたはずの森の風景がどこかおどろおどろしく感じられた。
「ばかばかしい」
若者はあえて口に出して笑い飛ばした。
魔王など所詮はおとぎ話に出てくる悪役に過ぎず、今では「良い子にしていないと魔王がやってきて闇の世界に連れ行かれちゃうよ」という母から子への脅し文句に使われるだけの存在である。
そもそも、あの行商人は刺激に飢えた田舎者に旅先で仕入れた摩訶不思議な出来事を面白おかしく披露するのが趣味なのだ。魔王よりも隣国のエレニール帝国の軍隊が攻め込んでくるほうがよほど現実的な脅威だろう。
そう言い聞かせたものの、一度抱いた不安はそう簡単には消えてくれなかった。
もう少し行った先に、昨日のうちに目を付けておいた木がある。その木を切ったら、今日はさっさと帰ろう。若者はそう決めて、足を速めた。
やがて目的の木が見えてくる。
「――えっ?」
近寄ろうとして、思わず足を止めてしまった。
目の前に異様な光景が広がっていたのだ。
目的の木の周りに、鹿やリス、兎といった動物たちが集まっている。それもこの森で暮らすすべての動物が集まっているのではと思うほどの数だ。まるで神聖な儀式を執り行っているような、そんな荘厳な雰囲気さえ感じる。
動物たちの視線は、ある一点に注がれていた。
木の根元だ。そこに白い布にくるまれた何かが置かれてあった。
「なんだ、あれは……?」
その声に反応して、動物たちが一斉に逃げ出した。だが、完全にはいなくなったわけではなく、木の上や茂みの中から様子を窺っているのが気配でわかる。
不思議と恐怖は感じなかった。
若者はゆっくりと木の根元に近づいてゆく。
そして、そこに置かれているものの正体を知って絶句した。
白い布にくるまれていたのは、小さな赤子だったのだ。
「なんでこんなところに赤ん坊が……?」
若者はなにかに導かれるように赤子を抱き上げていた。
赤子は静かに寝息をたてている。おそらくまだ生まれて間もないだろう。
気のせいか、全身から淡い光が発せられているように見えた。
「この光はいったい……」
そう呟いた直後、いきなり赤子の全身が眩い光を放った。
「うわっ!?」
若者は思わず目を背けた。
が、白金色の輝きは一瞬ごとに強さを増していき、視界が真っ白に染め上げられた。
全身が温かい光に包まれる。それは、まるで身体が溶けて光と一体化してしまうような不思議な感覚だった。
……数分後、若者は赤子を抱いて、来た道を引き返していた。
この赤子が、いずれ『光の勇者』と呼ばれる存在になることを、この時の彼は知る由もないのであった。