至福の一時
朝からの激しい訓練で全身が傷だらけになった俺は、泥まみれで地面に大の字で寝転がっていた。
疲労と痛みが重なり、動く気力すら湧かない。
しかし、その時、柔らかな魔力の気配が体に触れ、温かな薄緑色の光が俺を包み込む。
「これで少しは楽になりますよ、葵様。」
治癒に長けてメイドが傷を癒してくれる。
彼女は俺のそばで優しく微笑みながら、両手から癒しの魔力を注いでくれる。
彼女は黒羽家の分家の一つ聖家の人間だ。
聖家は代々治癒魔法に長けた名家で、特に医療の分野で超一流と評されている家系だと聞いている。
その家にあたる彼女の治癒の腕は超一流だ。
傷ついた体が彼女の魔力で癒されていくのがわかる。
痛みがじわじわと引いていき、疲労さえ和らぐような心地よさに包まれ、思わずため息が漏れた。
「…ありがとう」
感謝の言葉を口にすると、彼女はいつもと同じように微笑んでくれる。
彼女に名前を聞いたことは何度かあるが、毎回「メイドの身分で出過ぎたことですから」と、控えめに答えをはぐらかされてしまう。
それでも俺は彼女の世話と優しさに感謝して、素直に「ありがとう」を伝えるようにしている。
そのたびに、彼女は柔らかな笑顔で「ふふ」と笑いながら、そっと俺の頭を撫でてくれる。
その手の温かさに、俺は自然と気持ちが和らぎ、いつも少し照れながらも彼女の優しさに甘える。
傷が癒えた俺は摩耶に抱きかかえられ、疲れきった体を浴場へ運んでもらう。
この時ばかりは、毎回摩耶に心から感謝している。
訓練後の体力と気力の限界に加え、自力で浴場までたどり着くのは億劫だからだ。
浴場に着くと、摩耶がそっと俺を下ろしてくれるが、次の瞬間、沙耶が一瞬で俺の衣服を剥ぎ取る。
彼女の速さと技術には毎度ながら感心する。
だが、剥ぎ取った俺の服を手にした沙耶は、顔を埋めて「葵様の…葵様の…」とぶつぶつとつぶやき始め、何やらトリップしてしまっている。
この状態の沙耶はしばらく戻ってこないので、俺と摩耶は無言で浴場へ向かうことにする。
うちの浴場は広々としており、銭湯のような大きさがある。
魔道具の力で水や火の管理が行われているため、湯を張る手間も少なく、嗜好品とされていた大浴場等は、魔道具や魔道技術のインフラによって安価な物に変わりつつある。
浴場に入ると、摩耶が俺の体をくまなく洗い始めてくれる。
疲れ果てた体を優しくほぐされ、泥と汗が洗い流されていく。
彼女の世話にはありがたさを感じつつ、まだ幼い俺の身体では大人の喜びを感じることもできないのが少々残念だ。
摩耶が俺を洗い終えると、自分の体を洗い始める。
正直、眼福以外の何物でもないが、待つ間が少し暇なので、俺は毎回摩耶の髪を洗ってあげることにしている。
摩耶は「ありがとうございます」と微笑みながら、心から嬉しそうに笑ってくれる。
お互いに洗い終わると、摩耶が再び俺を抱き上げ、そのまま湯船に浸かる。
俺は摩耶の膝の上に座り、彼女の大きな胸に頭を預けながら湯に浸る。
摩耶の温かい肌に触れながら、湯の心地よい温もりが全身に染み渡る。
温かい人肌と湯の心地よい温もりに包まれて、全身の疲れがゆっくりと溶けていく。
日々の鍛錬で張り詰めていた体と心がほぐれる至福の瞬間だ。
この瞬間だけは転生した事に感謝している。
前世では絶対に味わう事の出来なかった一時なのだから。
そして、摩耶の温もりと湯船の心地よさに包まれ、俺はいつの間にか眠りの世界へと引き込まれていくのだった。