プロローグ
身体を揺さぶられる感覚に、薄れかけていた意識が次第に戻ってきた。
瞼をゆっくりと開けると、まず目に入ってきたのは艶やかな黒髪を持つ一人のメイド。
鋭いツリ目に凛とした顔立ちに優雅な雰囲気を纏ったその姿、スタイル抜群のプロポーションに巨大な爆乳。完璧だ。
「お早う御座います、葵様」
澄んだ声と共に、沙耶が少しだけ微笑みながら頭を下げる。
彼女は御剣家に仕える御影家の次女で10歳、俺の専属護衛兼メイドとして日々傍にいてくれる存在だ。彼女の使命は、俺を守り支え、その忠誠を誓うことにある。
俺にとっては家族のようでいて、だが一線を引いた仕える者としての態度が徹底している。
「沙耶、今朝もありがとう」
言い慣れた挨拶だが、その度に沙耶の忠誠心が感じられる。
沙耶はいつも無駄なく完璧に仕事をこなすが、その振る舞いにはどこか控えめな情熱が秘められている。
それは、忠誠以上の何かかもしれないと感じることがあるのだが、彼女の真意を問うたことはない。
嫌な気配、いや、危険な匂いがするからだ。
俺は前世から転生してきたという記憶をぼんやりと持っているが、その大半は朧げで曖昧だ。
前世での生活や仕事に関する断片的な記憶があるが、肝心な詳細は掴めない。
ただ一つ確かなのは、この世界での「御剣 葵」としての自分は日々をこうして過ごし、そして守られている存在だということ。
「葵様、朝食のお時間でございます。準備が整いましたので、いつでもお越しくださいませ」
沙耶の声に現実へと引き戻され、俺はベッドから体を起こす。
沙耶に起こされて、ぼんやりと目をこすっていると、彼女は「お召し物のお着替えをさせて頂きます」と柔らかく微笑んだ。
俺が「いや、少し待って……」と言い終わるか終わらないかの間に、寝間着は一瞬で彼女の手中に収められていた。
毎度ながら、その俊敏さには驚かされる。
彼女は俺の寝間着を手にすると、何やらほっとしたように顔を埋め、目を閉じて鼻先をくすぐるように深呼吸を始めた。
「今日も、葵様の香りが……たまりませんね」と、うっとりとした声が漏れる。
どうやら俺の寝間着は彼女の「一日を始めるための儀式」らしいが、なんとも言えない気まずさに包まれる。
「沙耶、毎朝言うけど……せめて俺がいないところでやってくれ」とため息をつくが、彼女は気にした様子もなく、「いえ、葵様のすぐ近くでこそ、香りが一層引き立つのです」と、妙な哲学を展開しながら、至福の表情を浮かべ続ける。
その後、何事もなかったかのように俺の支度に戻るが、着替えの合間にもさりげなく鼻を近づける姿勢は崩さない。
おかげで朝から落ち着かないし、正直に言って居た堪れない。
こんな奇妙なルーティンに巻き込まれる日々が続いているが、俺は5歳の少年としての純粋さと少しの恐怖心が入り混じる中、どう対応するべきか悩むばかりだ。
俺は深いため息をつき、もう諦めの境地に達していた。
この世界に転生して以来、理解に苦しむことばかりだが、根本的な問題として男女比が1:1000。
通常であれば、異世界転生ならヒャッハーとハーレム満喫ライフが待っていると思いたいところだ。
しかし、この世界ではそう単純にはいかないらしい。
原因は、ダンジョンが現れたことで地球に存在しなかった魔力が溢れたことにあるらしい。
男性の身体、特に「生殖システム」は魔力に適応できなかった部分で、結果的に精子が死滅してしまったらしい。
要するに、男性にとって魔力は「見えない毒」みたいなものだそうだ。
そのため、出産率が激減し、男性の出生率もどんどん減っていった。
こうして残った貴重な男性は、国の「宝」として手厚く保護され、生活をサポートされる仕組みが整っているわけだ。
それに加えて、女性たちの間で男性を「敬う」文化が根付いた。
俺の専属護衛である沙耶が、俺の寝間着の匂いを堪能する姿を見ても、今では「まだカワイイ方」だと思うまでになった。
逆に、ほかの女性たちがどんなことをしているかなんて想像もしたくないが、この世界ではそれが「当たり前」らしい。
この「貞操観念逆転」世界で、俺がどこまでまともでいられるかが試されているような気がする。
俺が沙耶に着替えを手伝ってもらった後、朝食をとるため食堂に向かった。
部屋を出た瞬間、扉の前でメイド長の麻耶が深々と頭を下げ、優雅な笑みで朝の挨拶をしてくれた。
「おはようございます、葵お坊ちゃま。」
その声を合図にしたかのように、廊下の両側に整列したメイドたちが一斉に頭を下げ、声を揃えて挨拶をくれる。
「「「おはようございます、葵様。」」」
俺も軽く会釈しながら「皆もおはよう、麻耶もおはよう」と返事をした。
麻耶は満面の笑みを浮かべながらそっと俺に近づき、俺はふわりと抱き上げられた。
まるでお姫様抱っこのような姿勢で抱きしめられ、俺は一瞬戸惑ったが、麻耶の包容力に自然と安心感が湧き、抱えられたまま食堂へと運ばれていった。
後ろを振り返ると、メイドたちがきっちりと並んでついてきていて、皆が柔らかく微笑んでいる。
中でも一際わかりやすく不満げな表情をしているのが沙耶だ。
少しふてくされた顔で後ろについてくる沙耶を見て、思わず苦笑いしてしまう。
母親に抱き上げられた俺を羨ましそうに、そして悔しそうに見つめている彼女の姿は、普段の忠実な護衛というより、子供っぽい一面をのぞかせていて、なんとも微笑ましい。
俺を抱きかかえて運んでいる麻耶は、沙耶の母親であり、御影家の現当主でもある。
彼女は俺の母親である御剣 茜の専属護衛であり、世話係も務めている。
表の御剣家を支える影の一族、それが御影家だ。
暗殺や諜報活動を生業とする彼らは、御剣家に絶対的な忠誠を誓い、分家筆頭の地位を授けられている。
普段はこうして柔らかな表情で、メイドとしての役割を楽しんでいるが、一度その本性を解き放つと、冷徹な一面を見せる。
表の「武の御剣」に対して、裏の「影の御影」として畏れられる存在。
母や麻耶、そして周りのメイドたちが、俺をこのように守り、手厚く支えてくれている環境に、転生してきた俺は心の中で感謝している
食堂に運ばれた俺は、麻耶にそっと降ろしてもらい、目の前に並ぶ食卓へと歩み寄った。
そこには既に席についていた家族が、俺を待っていた。
「おはようございます。母様、おはようございます。刹那姉様、千鶴姉様。」
挨拶をすると、母様は穏やかな微笑みを浮かべて「はい、おはよう、葵」と柔らかく返事をしてくれた。
それに続いて、姉たちも「おはよう、葵」と声を揃えて挨拶を返してくれる。
俺が生まれ育った御剣家は、日本の三大名家の一つで、武力の象徴とされている。
代々日本の防衛を担い、その圧倒的な力で国を守ってきた一族でもある。
そして、我が母である御剣茜は、その武家の中でも突出した存在で、人類最強と称される人物だ。
単身でSSSランクダンジョンを討伐し、ダンジョン攻略の偉業を世界に知らしめたその実力は、まさに伝説そのものだ。
なぜ母様が「人類最強」として世界中に名を轟かせたのかというと、それは「ワールドアナウンス」という謎めいた存在が影響している。
ワールドアナウンスは、世界的な出来事や偉業が達成された際、謎の声が全世界に響き渡り、それを広く伝えるという現象だ。
歴史の中で最初にワールドアナウンスが響いたのは、ダンジョンが初めて出現した瞬間だった。
その後も、世界を揺るがすような事件、たとえば「世界同時スタンピード」や「システム解放」が起こるたびにワールドアナウンスが響き、世界中の人々に変化を知らしめた。システム解放の際、初めて人類は「レベル」「魔法」「スキル」といった概念を知ることとなり、ダンジョン攻略が生死を分ける戦いに変わった。
そして、初めて人類がダンジョン討伐を成し遂げたときにもワールドアナウンスが響き渡った。
その際、歴史に名を残したのは、皇家、御剣家、黒羽家、御影家、帝家、城山家、聖家の初代当主たちだったと言われている。
彼らはダンジョン攻略を通じて、世界にその存在を刻み付け、現代に至るまで彼らの名が語り継がれている。
俺が生まれた御剣家は、その強大な力と影響力から、国内外で注目される存在だ。
それが誇りであると同時に、畏怖の対象でもある。
「麻耶は相変わらず葵に甘々ね。」
母様は、俺を抱えてやって来た麻耶を微笑みながら見て、軽くからかうように言った。
麻耶は微塵も動じることなく「当然です。坊ちゃまは、我々のような者にも対等に接してくださる天使ですから」と自信たっぷりに俺を讃え始める。
その姿にはいつものことながら少しばかり苦笑を禁じ得ない。
「それにしても、麻耶、少しは加減したらどう?」
母様が問いかけると、麻耶はさらに真剣な顔で「むしろ、加減など必要ありません。我が子以上に大切にお世話させていただいておりますので」と断言した。
母様のため息がどこか深まるのも無理はない。
「刹那の時も同じように世話を焼いていたけれど、麻耶のその“過保護”さ加減は本当に異常ね。」
母様がため息を漏らすと、麻耶は何も悪びれずに「お褒めに与り光栄です」とぴしっと頭を下げた。
「褒めてないわよ!」母様が間髪入れずツッコミを入れる。
とはいえ、麻耶の世話好きぶりに少しでも救われていることは母様も否定できないようで、苦笑交じりに「でも…確かに麻耶がいてくれるのは助かってるのよね…」とつぶやいた。
麻耶が静かにうなずき、「茜様の立場を考えれば、当然かと存じます」と真面目な顔で応じる。
母様の立場や御剣家の位置づけは、尋常でないほどの責務を伴う。
御剣家が世界的に最強と称される武力を誇っているため、各国からの救援要請が日常茶飯事であり、母様は世界最強の称号を背負い、各地のダンジョン討伐に奔走している。
その影響で、刹那姉様もまた母様に同行したり、国内外の要請に応えながら忙しく飛び回っている。
だからこそ、今日のように家族全員が揃う機会は稀少で、こんな日が来るのを俺も楽しみにしていた。
俺は席につき、家族と一緒に朝食を取る。
テーブルの上には豪華な料理が並び、いつもながら御剣家らしい豪勢な朝食だ。
家族で交わす何気ない会話が、空気を和ませ、和気あいあいとした雰囲気の中で食事が進む。
朝食を終えた後、メイドたちが食後の飲み物を用意してくれた。
母様や姉様たちは上品にコーヒーの香りを楽しんでいるが、俺にはココアが用意されている。
この年齢でコーヒーを飲むのは少し早いと判断されているらしい。
「葵様、ココアのお味はいかがでしょうか?」麻耶が優しく尋ねてくれる。
「うん、美味しいよ、ありがとう。」
俺はそう答えながら、湯気の立つココアを一口飲む。
ふんわりと甘い香りと濃厚なチョコレートの味が口いっぱいに広がり、なんとも言えない安らぎを感じた。
麻耶が満足そうに微笑み、母様もコーヒーを味わいながら俺の様子を見守っている。
その視線がどこか微笑ましさを感じさせるもので、家族と過ごすこのひとときが、俺にとって特別なものであることを改めて実感する。
こうして、今日も御剣家の朝が穏やかに始まっていくのだった。