動き出す日常
それから一週間後、僕たちは病院を退院した。
刹那姉さんは三日間昏睡状態だったが、その後目を覚まし、検査の結果、体に異常は見つからなかった。
どうやら、母様や静流婆さんの応急処置が功を奏したのだという。
家に帰った僕たちは、静かな空気の中、これまでの出来事を教えて貰った。
居間に集まった僕たちに向かって、母様、摩耶、そして静流婆さんが話を切り出した。
「葵、あなたが斬られた後、何があったのか話しておきたいの。」
母様が真剣な表情で口を開いた。
「刀祢と名乗る男に襲われ、あなたの魂を奪われかけた。でも、最終的に彼は立ち去り、私たちもなんとか帰還できたわ。ただ…あの状況で何が起きたのか、私たちにも分からない部分が多いの。」
その声には、明らかな困惑と不安が混じっていた。
摩耶が冷静な口調で補足する。
「葵お坊ちゃま、あのとき何か覚えていることや、感じたことがあれば教えていただけませんか?」
静流婆さんも重々しい声で言葉を添えた。
「若、儂らも手探りじゃ。何か変わったことがあれば教えてくれると助かるがのう。」
僕は少し考え込んだ。
でも、頭をいくら掘り下げても、何か明確な記憶があるわけではなかった。
ただ、ぼんやりとした暗闇の感覚と、何か遠くから聞こえた声が微かに脳裏に浮かぶ程度だ。
「正直、何も分からないんだ。」
僕は俯きながら答えた。
「気がついたら病院のベッドにいた。それだけで…。あの時、僕に何があったのか、全然思い出せないんだ。」
母様はそれを聞いても何も言わず、静かに頷くだけだった。
その目は、どこか寂しげで、何かを抱え込んでいるように見えた。
「でも、なんだか…虚しくなった気がする。」
僕はふと口を開いた。
「自分でも何が変わったのか分からないけど、あの日から、何かが違う気がしてる。身体に違和感があるとか、そんなことじゃなくて、もっと内面的な…何かが…」
その言葉に、摩耶は静かに考え込むような表情を浮かべた。
静流婆さんも腕を組み、しばらく黙り込んだ。
「気になるのう。」
静流婆さんがぽつりと呟く。
母様は僕に近づき、優しく頭を撫でてくれた。
「葵、分からないことだらけで、不安も多いと思う。でも、私たちがついているわ。一人で悩む必要はないから、何かあればすぐに言うのよ。」
その言葉に、僕は少しだけ気が楽になった。
家族やみんなが僕のそばにいてくれるという安心感が、心を少しだけ暖かくしてくれる。
「ありがとう、母様。」
僕は小さな声でそう言った。
暗闇が広がる黒い海。
僕はその中にゆっくりと沈み込んでいった。
手を伸ばしてみても、何も掴めない。
ただ、底の見えない海の中に、ただただ沈み続ける感覚だけがあった。
「助けて…」
そう思っても、声は出ない。
胸を押しつぶされるような静寂が耳に響き、身体は重く、動かせない。
その時、不意に誰かが僕を捕まえた。
温かく、力強い手が僕の腕を引き寄せ、闇の海から引き上げようとする。
僕はその手に縋りつくようにしがみつき、全力で掴み返した。
「はっ…!」
次の瞬間、僕はベッドの上で飛び起きていた。
全身から大量の汗が噴き出しているのが分かる。
髪は汗で張り付き、パジャマもびしょ濡れだ。
息が荒く、胸が苦しい。
心臓がバクバクと早鐘を打つように鳴り響いている。
「夢…」
声に出してそう呟いた。
だが、その夢が何を意味しているのかは分からない。
ただ、深い不安感と、何かを失ったような感覚が胸を締め付ける。
ふと視線を上げると、目の前に二人の顔があった。
摩耶と沙耶だ。
「お目覚めですか、葵お坊ちゃま。」
摩耶が静かに声をかける。
その声には、どこか緊張感があった。
沙耶もじっと僕を見つめている。
その表情はいつもの彼女らしい無邪気さではなく、鋭く何かを見極めるような真剣なものだった。
「…どうかしたの?」
僕が尋ねると、二人はお互いに視線を交わし、わずかに頷き合った。
「いえ、何でもありません。ただ…少しだけ心配になりまして。」
摩耶がそう言いながら微笑むが、その笑みには少しばかり硬さが残っている。
「それにしても、大量の汗ですね。少し着替えましょうか。」
沙耶が立ち上がり、タオルを持ってきてくれた。
その動作は、いつも通りの丁寧さと気遣いが感じられる。
だが、二人の視線には、何か僕に隠しているような、微妙な違和感があった。
二人が手伝ってくれて汗を拭き、着替えを済ませると、部屋の中が少し落ち着いた。
けれど、あの夢の感覚と、二人の微妙な様子は、僕の心に何かしらの疑念を残していた。
「葵お坊ちゃま、何か気になることがあれば、私たちに何でもおっしゃってくださいね。」
摩耶の言葉には、普段よりも重みがあった。
「うん…分かった。」
僕はそう答えたけれど、本当に分かっていたのは、自分の中にまだ言葉にできない不安が根付いているということだけだった。
家族全員が揃った食卓は、久しぶりに平穏な雰囲気に包まれていた。
みんなの顔に少しずつ日常を取り戻した様子が見える。
そんな中、不意に母様が口を開いた。
「葵、レベルを20まで上げる必要があるから、明日からダンジョン攻略を始めるわ。」
その一言で、静かだった食卓の空気が一変した。
「母さん、いくら何でも早すぎるわ!」
刹那姉様が、箸を置いて声を張り上げた。
「葵はまだ回復したばかりなのよ?せめてもう少し休ませてからでもいいじゃない!」
姉様の声には強い反対の意志が込められていた。
視線は母様を真っ直ぐに捉えている。
母様は刹那姉様の抗議にも動じることなく、冷静に言葉を返した。
「刹那、葵には時間がないのよ。」
「でも母さん、それでも体力が完全に戻るのを待つべきじゃないの?」
千鶴姉様も口を挟んだ。
いつも冷静な彼女が珍しく眉をひそめている。
母様は一呼吸おいてから、視線を葵に向けた。
「葵、あなたがこれから探索者として生きていくには、最低限の戦闘能力が必要になるわ。それを身につけるには、レベルを上げておかないといけないの。」
「でも、僕…」
僕は言葉を詰まらせた。
あの日の戦いで感じた恐怖と無力感が、頭をよぎる。
母様の瞳は優しく、それでいて鋭かった。
「葵、これはただの訓練じゃない。あなたがこの世界で自分の意思を持って生きていくための準備なのよ。」
「…御館様。」
静流婆さんが重々しい声で口を開いた。
「確かに若が早く成長するに越したことはないが、身体がついてこんようでは話にならんじゃろうて。」
その言葉には説得力があり、母様も一瞬考え込むように目を伏せた。
「葵お坊ちゃまに無理をさせない範囲で進めていくのが現実的ではありませんか?」
摩耶が冷静な提案を出した。
「例えば、まずは低難度のダンジョンから開始し、基礎的な動きを鍛えるのが良いかと思います。」
その案に、一同は少しだけ表情を和らげたように見えた。
「…分かったわ。葵の体調を見ながら進めることにしましょう。」
母様は最終的にそう言って折れた。
「ありがとう、母様。」
僕は小さな声で感謝を伝えた。
「でも覚えておきなさい、葵。」
母様が真剣な表情で僕に言った。
「あなたの未来を守るためには、強くなることが必要なの。だから、必ずやり遂げるのよ。」
その言葉には、母様の強い覚悟が込められていた。
重々しい空気が漂う執務室。
茜は机に書類を並べ、摩耶、沙耶、そして静流婆さんを呼び寄せて話を始めた。
彼女の表情には深い疲労が滲んでおり、目の下にはわずかに影が見える。
「摩耶、沙耶。」
茜は冷静を装いながら口を開いたが、その声にはどこか焦燥感が含まれていた。
「今朝方、葵の部屋に慌てて駆けつけたようだけど、何かあったの?」
その問いに、摩耶と沙耶は一瞬だけ顔を見合わせた後、摩耶が静かに答えた。
「はい。葵様が突然大声を上げて目を覚ましたのです。悪夢か何かだと思ったのですが…」
「悪夢…?」
茜の眉がわずかに動いた。
「ですが、葵様の様子が少し変でした。」
沙耶が低い声で付け加える。
「どういうこと?」
茜の問いかけに、沙耶は少し言葉を選ぶようにして話を続けた。
「匂いです。葵様の身体から漂う匂いが、以前のものとは微妙に違っていたのです。」
摩耶と沙耶の報告を聞いた瞬間、茜は「そう…」っと嘆くと、机の上に頭を抱えるように伏っした。
そして、声を震わせながら叫んだ。
「どうして!どうしてあの子なのよ!」
その叫び声は、執務室に響き渡り、室内の空気をさらに重苦しいものに変えた。
摩耶も沙耶も、そして静流婆さんも、その嘆きに何も言葉を返すことができなかった。
しばらくの沈黙の後、茜は再び口を開いた。
机に伏したまま、まるで独り言のように、力なく呟いた。
「ねぇ…もうあの子は帰って来ないのかしら…」
その言葉に静流婆さんが口を開く。
彼女の声には、いつもの落ち着きと、どこか厳しい響きが混じっていた。
「御館様…今は若の言葉を信じて、事の成り行きを見守る方が先決じゃろうて。」
「でも…」
茜がかすれた声で返そうとするが、静流婆さんはその言葉を遮るように話を続けた。
「残された若はどうするんじゃ?あの子とて御館様の子じゃろうに…無下にするのかえ?」
その言葉に、茜は顔を上げると、静流婆さんを見つめた。
そして、しばらく沈黙した後、申し訳なさそうに言った。
「…ごめんなさい。」
茜は自らの頬を軽くパンッと叩き、気を引き締めた。
そして、静流婆さんに向き直り、指示を出した。
「静流、もしあの子の話が事実なら、あそこは危険よ。皆を連れて屋敷に避難して来なさい。」
「承知しました。」
静流婆さんは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
続いて茜は摩耶と沙耶に視線を向ける。
「摩耶、沙耶。二人はできるだけあの子の要望どおりに必要なものをかき集めてちょうだい。」
摩耶が即座に答える。
「畏まりました。部下を総動員して事にあたります。」
その言葉に、沙耶も同調するように頭を下げた。
すべての指示を終えると、茜は立ち上がり、執務室の窓から外を見上げた。
青空が広がるはずの空は、どこか鈍色の曇りがかかっているように見える。
「今はあの子の言う通り、事の成り行きを待つしか無いのかしら…」
その呟きは、誰に向けたものでもなく、自分自身に言い聞かせるような響きだった。
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