ゆめゆめガールRRR(中)
四、バニラアイスの香りがする
下駄箱で上履きに履き替え、誠と一緒に二階の職員室へ。
妙に規律に厳しい名呑中学では、遅刻するとまず職員室へ行かなくちゃいけない。誠が先に入っていき、出てくるのを待つ。面倒なことに一人ずつ入って担任の先生に事情を話して――とは言ってもこの時点での弁解は全く意味がない、ただの慣例だ――プリントをもらう。出てきた誠とすれ違う形で私も同様に繰り返し、もらったプリントに遅刻理由を書き込む。
入り口脇にそのためだけに設置された長机とダンボール製の箱。そこにあったボールペンをノックして、はて考える。
「この場合の遅刻理由って何?」
A四サイズのプリントには遅刻理由の欄が大きく取られており、テキトーに書くとその空いたスペースのせいで反省の色がないともとられかねない。
「つい井戸端会議が踊りましてってのはどうかな?」
「オオカミが! オオカミが! 窓に! 窓にってどう?」
確かに反省の気持ちがまるでなかった。何度も書くうちにちょっとした大喜利の様相を呈してきたのでストップして、お互いに真面目に書いて箱に入れる。
誠とは教室が違うので、そこから別ルート。二階の端、二年一組が私の教室。逆端の二年五組が彼の教室だ。
彼が包帯の右手を振っている。
「じゃあ。滝本先生にだけは怒られたくないな……この平成の世に殴ってくる教師なんだよあの人は」
「せいぜい気をつけなさい」
「うるさいよ。んじゃ」
――私はその時、これが彼との最後の会話になるとは思いもしなかった。
「おい。不吉極まりないナレーションをボソッとつぶやくな」
笑い顔を抑えて、私は二年一組のドアを開ける。騒がしい教室へ、目立たないようにスルリと入る。窓際の席にカバンを置き、座る。どうやらホームルームが終わったばかりで、先生はすでに出て行ったようだった。
「その傷……いえ。おはようございます小田弓子」
「フルネームで私を呼ぶのは……」
振り返った後ろの席には、大徳寺椿がいる。画一的な教室の風景に花が添えられるように、白い肌と巻き上げられた黒髪に刺さる真っ赤なかんざしが印象的だ。セーラーの夏服である点以外は江戸時代の色町で芸者をやっても通用しそうな妖艶さ。
同じ中学二年生なのにどうしてこうも差が出るのか。化粧? それっていつ頃からするもの? それとも女性ホルモンの差? 遺伝子の差かも。
「椿嬢。おはよう」
「今日はまた、例の彼との逢瀬で遅刻でしょう?」
「逢瀬って。偶然会っただけよ」
カバンから机の中へ教科書を移す。椿嬢は背中をつんつく指で押してくる。
「へえ、『偶然』ね。毎朝出会うのは『偶然』じゃあないでしょう。一度会ったら友達で、毎日会ったらストーカーだって言うでしょう」
「でも、毎朝会おうって約束したわけじゃないし……」
椿嬢はそっと私の首筋を撫でる。手元が狂って厚い国語の教科書が床に鈍い音を立てた。でも教室内の誰も気にも留めない。それ以上にみんながうるさすぎるのだ。
「ちょっと、教科書落としたじゃない」
「会おうって約束しなくても会えるなんて……運命じゃないの、素敵ね。それとも、彼があなたの時間に合わせて登校しているのかしら。あるいはあなたが? ああ、何も言わずにお互いがお互いに合わせて時刻を調整しているのね……一層好ましいわ」
微笑を湛え、低い声で私のうなじに囁く。
「そういうんじゃないって。私とあいつはまだそんなのじゃない」
彼女はニヤッと口角を上げる。
「ふふ、弓ちゃんって可愛い。まだ、ってことは――将来はそうなることを希望しているってこと? 語るに落ちてるわ、顔が真っ赤よ」
「うう……うわーん!」
だって、アヤナミ包帯を巻く男だよ?
「ここは教室よ、暴れないの」
国語の滝本先生が入ってくる。このタイミングなら、誠はどうやらエンカウントせずに済んだらしい。
まもなく授業が始まり、詩が読まれる。滝本先生は悪い先生じゃないが、情感たっぷりに読みやがるから逆に冷める。私は一冊のノートを取り出す。
「どうかこれが天上のアイスクリームとなって……」
宮沢賢治はあんまり好きじゃないけど、永訣の朝は別。アイスクリーム、う・ま・そ・う。
椀にころんと盛られたバニラアイスは、ミントの葉が飾ってある。スプーンで切るようにすくって口に運ぶと、舌の上で溶けて消え去ってしまう。甘い香りが鼻から抜けて、頭の中に直接ひんやりした白いバニラが流れ込んでいく。
決めた。今日はバニラアイスが好きな男の子の話にしよう。
誠と話すため図書館の本――とりわけ授業で取り上げられる小説の類はたいてい読んでしまったので、現代文の授業は退屈で仕方ない。でも寝ると成績が下がるので、何か書く。
ノートの白いページを見ていると、理科の実験でやったあぶり出しのように「文字」が浮かびあがる。それが消えてしまわないうちに模写する。時を追うごとに「文字」はざばざば洪水のように溢れ出す。私はそれをこぼさないように必死だ。自分の手の動きが遅すぎて腹が立つ。早くしないと、浮かび上がる「文字」 は他の「文字」に重なって見えなくなってしまう。
そして何も聞こえなくなる。ノートとペンしか見えない。私は暗闇の中、たった一人で書き続けている。私は自動筆記をする機械だ。キーボードを叩かれているパソコン。果たして自分が書いているのか書かされているのかわからなくなる。きっと今アドレナリンがバンバン出ているのだろうな――なんて余計なことを考えると「文字」は遠ざかってしまう。うかつに掴むと形が崩れてしまう絹ごし豆腐のように。拾いきれなかった「文字」は溢れて私の足元を濡らす。やがてそれは水たまりから沼になる。
もっと速く。
もっと。
感覚が邪魔になる。腕が、目が、肩が疲れてくる。私の足は黒い沼から出てきた手の群れに絡めとられて動かなくなる。腕だけは必死に動かす。
白い。黒い。
ここは。
黒い。白い。
あれ。
何が起こった?
★
チャイムの音にふと気が付くと、ノートには途中までアイスクリームを巡る物語らしきものがあったが、そこから先は過剰に「文字」が先行して意味がわからなくなっていった。「文字」自体も崩壊を始めて、末尾に近づくにつれ書きなぐりになる。
「やっちまった……また文字酔いしてる」
いつもこうなってしまう。行き当たりばったりで書くから。文字の波に流されていくうちに文章に整合性がとれなくなっていくのだ。チャイムが鳴るとそれは終わり、結局は未完になってしまう。落ち着いたところで書けばいいと思うけど、このチャイムがなければ一体どうなるのだろう。文章は。私は。
あの黒い沼に引きずり込まれたら。
どうもこうもないか!
「何かしらソレ。小説じゃないかしら」
沈思黙考が過ぎた。不覚にもノートを閉じるのを忘れていた。
「単なる板書だって」
「嘘でしょう。タイトルが付けられてたもの。『バニラアイスの香りがする少年』って」
……危ない危ない。脳内で一瞬、椿嬢を殺して埋めている自分を想像してしまった。翌日の新聞に「自作小説を読み上げられたから、ついカッとなってやった。殺すつもりはなかった」と書いてあるのを確認したところで我に返った。
「やー、これは何ていうか小説と呼ぶのもおこがましい――単なる文章?」
「読ませて」
椿嬢は後ろの席から腕を伸ばす。積もった粉雪のように美しく白い手。見惚れているうちに、ノートは素早く掠め取られてしまった。
「ダッダダダダメダメダメダメダメダメダメSOSSOS!」
乙女のピンチ。
彼女が人差し指を立てると、私の口は封じられた。
「いい? 読んでもつまらないかもしれない。でも読まれなきゃ一生面白いか面白くないかもわからないのよ。お見せ」
「当然だし無駄に説得力があるけど、私のはそういう魂をかけた創作物とかいうものでもなんでもないしまずその姿勢が違うし未完だしキチンとアレしてないからダメでゴニョゴニョ……」
「じゃあ、読んでいいのね」
おーい、誰か通訳を呼んでください。
「……何も言わずに顔にも出さずに私が書いたってことも念頭に置かずにすぐ読んで返して」
彼女はハイハイと言いながらページを繰った。
「…………」
無言。いや、私がそうしろと言ったのだけれども。でも何だろうこの落ち着かない感覚。心臓の周りに長いヒゲの小猫がチロチロうごめいていて、でもそれに反応して動いたら自分が死んでしまうって刑に処されたような――百万人の無言観客の前で、薄氷の上で全裸創作ダンスをさせられてるような。しかも私の名前がアナウンスされ続けている。
「ふむ」
椿嬢は片手でパタンとノートを閉じる。
「全ッ然面白くない。物語ってわかってる? 読み手のこと考えてる? キャラクターを愛してる?」
「……どうやって死のうかな」
「冗談よ。面白いってば。でも未完なのは何故」
面白い。お・も・し・ろ・い。
「面白い? 私のが」
「ええ。そこらに転がってる二束三文で売られてる小説程度にはね」
ジワ。
私の奥の奥、ハート付近で熱い何かが染み出た。それは血管を通って全身に巡る。熱くなる。この感覚は、いつかどこかであった気がする。
「それで、未完なのは何故なの? 文字がどんどん汚くなっていくのは」
「文字に酔って、溺れて、書けなくなっちゃうんだ」
書くことはサーフィンみたいだ。波をうまく乗りこなさなくちゃいけない。
「書きなさいよ。書けば都。書けば官軍。書けばわかるさ。書いて書いて書いて、小説家になるの。素敵じゃない?」
「書かない人は他人事だから、みんなそう言うよね……」
「あ、暗い笑いだ。もうこの話はよしましょうか」
椿嬢はクスクス笑い、ノートを再度開く。
「さて、いいんじゃないかしら。表現技巧も話の運びも。ただ、そうね。もっとこう、ペンの赴くままに書くんじゃなくて、『物語』ってものを作ってみたら」
「落ち着いて流れをコントロール……『物語』って、例えばどんな?」
「いつかは白馬に乗った素敵な王子様が、待ってる私を迎えに来てくれるの。いつだって私が困ってるときには助けに駆けつけてきてくれるの」
両手を組んで神に祈るようなポーズで言う。
「なんて、ね」
ウインクを投げかける。
「なんてねって、椿嬢はそんなのが好みなの。意外だな」
「い、一応私も女の子だしね。ぐふ」
何故そこで照れる必要があるのか。
「でも別に私だけの話じゃないのよ。女の子が憧れるものって言ったらやっぱりシンデレラで、白馬な王子様だと思うの。別にそれをそのまま使えってことじゃなくて、そういう型。例えばお金持ちの男の子と出会うとか。例えば頼れる優しい男の子と出会うとか。とにかくガール・ミーツ・ボーイ。魅力的な男の子と会うってことよ」
「スルーするところだったけど、白馬な王子様だったらケンタウロスになっちゃうよね」
「ケンタウロスでもいいと思う、男の子なら」
椿嬢は口を尖らせて、珍しく子どもっぽい仕草をした。
「あー、でも私、そういうの苦手だな。恋愛ってよくわかんないから」
「現在進行形のくせに」
「だから、そういうんじゃなくて、そういう関係っていうか……恋愛って何?」
予期せずしゃべり場みたいな――あるいはグータンヌーボ的質問をしてしまった自分に嫌悪感。
「あなたそんなに本を読んでるくせにわからないの」
わかりません。わかろうとも思いません。私と誠ってそういうのを隣の山から望遠鏡で眺めてる感じだ。おむすびなんかを食べながら。
「恋愛とはなんぞや!」椿嬢は突然立ち上がり、芝居じみた所作で左手を胸に、右手を私に向ける。「それは好きな相手のことを想うと胸がきゅんきゅんドキドキボーン。他のことが手につかなくなることでしょ!」
妄想で他のことが手につかなくなることはよくあるけどねー。
五、ガール・ミーツ・ボーイ
変質者が出てるからどうだとかなんとか言っているホームルームが終わって放課後、教室には私一人。椿嬢は部活へ走って行った。
彼女のせいで授業中からずっと、脳内で馬と白タイツ男たちがむさ苦しく押し合いへしあいしている。その中で誠が迷惑そうな顔をして正座していた。
「ふっ」
想像して不意に笑いがこぼれた。誠と出会ったときのことを思い出す。
図書館。
家に帰りたくない小学生が、お金を使わずに時間を潰せる場所。めくるめく夢の世界が広がる知恵の宝庫。しょせん小学校のものだったから、置いてある本は大抵がいわゆる子供向けでたいしたものはない。
でも時々、何がどう間違ったのか「中学生が殺し合いする例のあれ」や「その元ネタのあれ」や、月刊ムーやトンデモ宗教の雑誌やハードBLなどが混じっていて気が抜けない。そういった本は、私の家で読むことが許されていなかったので図書館でカバーをかけて読んでいた。
両親が選んでくれる本はワサビのない寿司みたいなものばかりだった。読んで「両親の望ましい感想」を考えて言わなければならないのは、それはもはや感想なんかじゃなかった。それまで私の「読書」というのは良心的な回答を得ることだけだったのだ。
つまらなさの極み。
私はその日、噂に聞く幻のB級ホラー小説『アトム・オブ・ザ・リビングデッド』――街を守っていたロボットがゾンビ化して襲って肉片が弾け飛び男女かまわず犯していくのを淡々と描いている――を探していたのだ。普通なら小学校の図書館にはなかろうが、もしかしてという気持ちで。
滑りの悪いドアを開くと、かび臭い本の匂いがする。図書館は北向きで、夕方は薄暗くじめじめしていた。そんなところに寄り付く生徒はやっぱり類は友を呼ぶというか、小学生のくせにどこか表情に影のある人が多かった。
幼い私は本を探すうちに迷路を行くアリスのように奥へ奥へと進み、そこで一人の男の子を見つける。まだ背の低い彼はかわいらしい。全身に絆創膏、傷だらけのやんちゃな彼。思えばいつも彼は生傷が耐えなかった。いじめられていたのか。
「あっ」
彼がカバンの中に本を入れた。泥棒(当時は万引きという言葉を知らなかった)かと思ったが、理由がわからない。ここは図書館で、借りることができるのだ。
「……見た?」
私はコクンと頷く。
「黙っててくれないかな」
「何をしてるの」
「黙ってるって約束するなら教えてあげよう」
「約束する」
背たけの三倍はあろうかという巨大な本棚に囲まれて、私たちは約束する。指きりげんまんなんていう可愛いものじゃない。ちゃんと書類に残して、サインしたのだ。手書きだったけど。
「家に置けなくなった本をここに置いてるんだ」
そう言ってカバンからさっきの本を取り出し、棚に潜り込ませた。その本のタイトルは『アトム・オブ・ザ・リビングデッド』。
結局、その図書館にあった例のアブナイ本たちは全て彼が持ち込んだものだった。つまり彼は、私がオカルトやホラーや倫理観の薄い暗黒面へと道を踏み外す一因だったわけだ。
どうしてくれるのかとふざけて言ってみたら、彼は本に目を落としながら面倒そうに答えた。それは私の両親が聞いたら卒倒しそうな考えだった。
「その本を読んで君がどうかして誰を何人殺そうが僕に責任はないよ。何故ならフィクションをわきまえずに行動した君が悪いのであって、書物は関係ないからだ。ライ麦畑も時計じかけのオレンジもタクシードライバーもただのフィクションだ。本が君のどこかの窓を開く。それは素晴らしいことだよ。でもその窓から、泥を見るか星を見るかは君次第だろうさ」
ジワ。ああ、さっきの熱い何かが染み出し全身に回る感覚はこの時のだったか。
「にしても、思い返してみると……」
なんて運命的。好きな本を追って誠にたどり着く。まるでヘンゼルのまいたパンを追いかけたグレーテル? ってそんなシーンは無かったか。また記憶の改竄が起こっている。
それにしても白馬の王子様か。もしかして誠が私にとっての……。
ヴヴヴウヴウヴヴヴヴウ、ヴヴヴヴヴヴヴヴウヴヴヴ。
マナーモードの携帯が振動する。着信名を見て、心臓に冷や水をぶっかけたように、思わず手を滑らせて携帯を落としてしまう。胸の鼓動がどんどこどんどこ祭り囃子の盛り上がり真っ最中。
「も、もしもし」
「もしもし、弓子さん?」
誠の声がする。穏やかで優しい声。
「何?」
「なんていうか、そのう……」
普段かっこつけた台詞を吐くくせに、もじもじしている。
「や、何でもない。やっぱりいいや」
?
「いいから、言ってよ」
「あのさ……僕、隠してたけど今朝からけっこうお腹痛かったんだよね。それがさっき帰ってる途中でピークに達して公衆トイレに入ったんだ。それで、まあ概ね用は済ませて今は小康状態なんだけど。一つ頼みごとをしたいんだ」
いやな予感しかしねえ。
「紙がないから、ちょっとトイレットペーパーを買ってきてくれないかな」
「奇遇ね、私も頼みごとがあるの」
「え、なんだい――」
「お願い、もういっそ死んで」
ああ、世界は美しくなんかない……。知ってたけどね。
六、電話とメールとトイレと黒い腕
「いやありがとう。二十一世紀にもなってトイレに紙がなくて困るって、ビックリだよね。紙は僕を見放されたもうた」
電話しながら海沿いのコンビニでトイレットペーパーとガリガリさんを買う。外に出ると熱気がまだ残っていた。夕暮れ時の空気は海も町も全てを橙色に染めて曖昧にしていく。
眺めつつガリガリさんの袋を開ける。ソーダアイスは早くも溶け始めていた。
「大体、どうして私なのよ。普通、もっと男友達とかに頼むもんじゃないの」
「やー、僕、友達いないんだよね」
そんな悲しいこと言うなよ。
「で、どこのトイレなの」
「名呑池公園。右から三番目の個室」
帰り道の脇にある名呑池公園は時々大道芸人が来て、それを見によく家族連れがやってくる。私も小さな頃に来たことがある。珍しく両親が揃っていて――あれは何だったのだろう。記念日だったのかな。
周囲を見回して誰もいないことを確認すると、男子トイレに入る。右から三番目の個室――うんうんうなり声が聞こえる――のドアにノックする。
しばらくして、ノックが帰ってきた。
「紙、投げるよ~」
上から放り込むと、かちゃかちゃとペーパーホルダーにはめ込む音がしたので一安心。外に向かいながら、届いたメールを確認する。
「どうした? 今、校門で待ってるんだけど。今日はもう先に帰った?」
これは今――たった今、誠から来たメールだった。校門。トイレ。瞬間、私は肩越しにうなり声のするドアを見つめる。何か、奇妙なことが起こってる……。
さっき私は誠に電話で呼び出された。それは本当に誠の声だったか? 腹話術師が声色を使ってやしなかったか? まさか蝶ネクタイ型変声機――いや、そんなことはない落ち着け私。
電話もメールも誠からだ。番号とアドレスからこれは確か。でも矛盾してる。この矛盾を解決する仮説は。
「ちょっと、イタズラはやめてよ」
考えた挙句、ホラー映画で最初に殺されるキャラと同じ台詞を言ってしまったことに気が付く。電話とメールが同一人物によるものだとして、幸せな考えは「今トイレにいる誠がふざけてメールした」ってところだ。それなら話は簡単だ。誠を半殺しにすれば済む。
ではもし逆だったら。
「今校門にいる誠がふざけて電話でトイレに誘導していた」。いや、そうする動機がわからない。トイレに行かせる目的がないし、その場合は目の前の個室にいる唸ってばかりの人間は誠じゃないことになる。
あの無機質なドアの奥に、誰かが潜んでいる?
そして一番高い確率の、幻覚オオカミが出ている可能性。私の意識を通じて見ている限り、「現実」は都合よく改竄される。携帯の番号もアドレスも何も信用できないとなると、トイレにいる方がオオカミなのか校門にいる方がオオカミなのか。
「おおい」
トイレの主は私の言葉に返事をしない。カラカラと紙を巻き取る音が聞こえる。
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴ。ヴヴヴヴヴヴヴヴヴ。
携帯が振動して画面を見ると、高橋誠と出ている。どうする。この電話は本当に――客観的第三者から見ても鳴ってるのか? 走ってトイレを出て公園を見回すが、もう夕暮れになってしまって誰もいない。
「…………」
携帯を手に乗せて眺めていると、振動が止んだ。すぐに誠からメールが届く。
「もしかして幻覚オオカミが出た? 今どこ。助けに行く」
返信すべきか。わからない。私は公園に一人ぼっちだ。名呑池の柵に腰掛けて、離れたところからトイレの出入り口を監視する。
本物の誠はどっちなんだろう?
視線をずらして池を見ると、藻がびっしりと水面を覆いつくしている。おせじにも美しいとはいえない池だが、少し前に環境問題対策でここの水をきれいにする運動が行われていたはずだ。
確かここには何か魚がいた。アレは親と一緒に来たときの記憶で、小学一年生の頃。名呑池を覗き込んだときに魚影が――何だっけ。
小さな池には濃い影がいたるところにあって、私は夜が近いことを知る。東から藍色が迫る空には、すでに星がいくつか出ている。
――フ。フウウウウウウウ。フ。フウウウウウウウ。
不意に、肩に息が当たっていることに気づく。吐き気を催すような生臭い息が私の髪を揺らす。誰かが背後に立っているのだ。一体いつから。身体に針金を通されたように硬直して指先が震える。
目を逸らした隙にトイレから出てきたのか。水面を鏡にして背後を確認しようとするが、暗くて何も見えない。
誰だ。
「弓子さん、大丈夫?」
「え」
振り向くと、誠がいた。学生服で、今走ってきたらしく肩で息をしている。それ以外には誰も公園にいない。
「幻覚オオカミに、ハア、ハア――襲われてたみたいだね。急いで良かった」
「さっきのは……もう消えた?」
「僕の目には君が一人で震えてるようにしか見えなかった。それを聞いたこの瞬間、他者の視点による存在の否定が得られたから消えた。そして、この池にまつわる幻覚オオカミのことなら、今すぐ解決する」
安心させようと微笑んでくれているのがわかる。でも作り笑顔が苦手なのがバレバレで、口の端がピクピク痙攣している。私は笑ってしまう。
「君の幼いときの体験。かなり前に僕に話してくれたんだけど、もう忘れたかな」
「や、思い出しかけてる。小学一年のときに両親と一緒に来て、この池を覗いたの。でもそこから思い出せない」
彼は深呼吸して目を閉じ、息を整える。
「先に言っておこう。体育館地下の話でもそうだったけど、記憶はある程度君に都合の良いように捻じ曲げられてる。幻覚が剥がされたあとの事実は、痛みを伴うことが多いんだ。もちろん精神的な意味だけど。まるで純金製だと信じて買った置物からメッキが剥がれていくみたいに。まるでバイキンが入ったまま固まってしまった傷口からカサブタを剥がして消毒しなおすように」
心して、覚悟しろ。言外にそう聞こえる。
「だから、幻覚オオカミか事実かを判断するある程度の基準は、君にとって『痛いかどうか』なんだ」
染み一つない右腕が、まだ震えている私の頭を撫でる。
「さて君に昔聞いた話はこうだ。小学一年生のとき、両親と一緒にこの公園に来た。そしてこの池を覗きこんだ。そこには巨大な魚影が一つ、悠々と泳いでいた。君はその魚影に手を伸ばした」
――ぽちゃん。池に何かが飛び込む音がした。たぶんカエルだろう。
「そこで気づいたんだ。その魚に黒い二本の腕が絡みついている。魚は泳いでいたんじゃない、おもちゃにされていたんだ。陸からじゃその腕の主は見えなかったが、その既に死んだ魚が動かされている様を見て君は怖くなった。慌てて戻ろうとして君は池に落ちてしまった」
――周囲は暗くなっていく。誠の目元に陰ができている。
「でも柵を掴んですぐに戻った。なんだか重いと感じた君が足を見てみると、黒い手が掴んでいる。君は必死に振りほどいて逃げ出した。後日、君は僕に話したとき足首を見せてくれた。そこには大人の手の大きさで、紫色の痣があった。僕は記憶力には自信があるから、概ね間違っていないと思う」
彼は一旦そこで止めると、肩をすくめて言った。
「君にはどうやら黒い何者かが出てくる話が多いね。ワンパターンだ」
そうだった。そんな「体験」をしたんだった。思い出した。靴下を脱いで、足首を彼に見せたのだ。今だったら少し恥ずかしいかもしれない。
「それで。それで何なの。そんなやつはいないって言うんだよね?」
「そうだよ。まず、君は両親と一緒に来ていない」
やっぱり。
「おや、驚かないね。この話の気になるところは、両親が最初に出てそれから全く出てこない点なんだ。まるであとで取って付けた様にね。どうなのかな、親っていうのは自分の娘が池に落ちても声の一つもかけないものかい。まあ……そうか、この広い世の中だ。そんな親も時々いるだろうけどさ」
私の記憶は嘘を吐いている。事実を変えてまで、どうして両親をわざわざ登場させる必要があったんだろう。
「次に、魚影が見えるはずはないんだ。だってこの池は当時水質調査が行われたとき、ひどい言われようだったんだから。近隣の住民と業者がゴミをここに投げ込んで汚染が進んでたし、魚影が見えるような水質ではなかった」
そうだ。池をきれいにする運動が少し前にあったんだ。
「じゃあ、痣は。それはどう説明するの。誠も見たんでしょ」
「それなんだけど」誠は腕をこまねいて視線を逸らす。「当時の君は隠してたようだけど、身体中に痣を作ってた。それはやんちゃだとかいうレベルの話じゃない。もちろんイジメでもない。何故ならあれは大人のサイズの手だった。そして服を着ている状態だと見えないところにばかり痣があったんだ。着替えるところを見てそれに気づいた。当時は意味がわからなかったけど、今思うとアレは」
凍ったように張りつめた沈黙が私たちを包む。夏なのに刺々しく肌触りの悪い空気。
「虐待だったんじゃないかと思うんだ」
痛みを感じるほうに、現実はある。今まで生活してきた「平凡でちょっと窮屈な私の家」というメッキが剥がれていく。
「だって……でも、それは」
腕に、脚に、腹に、今まで気づかなかった青黒い痣が浮かび上がってくる。虐待。そんなの身近にあるものじゃなくて、もっと遠い出来事だった。しかし、だからこそなのかもしれない。
そう思っていたからこそ、虐待なんてされたら「平凡な家ファンタジー」が壊れてしまうと考えて……私は信じたくなかった?
「最後の部分は別に、信じなくてもいいんだ。もう池の幻覚オオカミは消えたんだから。君が怖い話を信じさせるために、わざと自分でつけた痣だってことにしたっていい」
誠は優しい。自分で「痛み」がどうだとか「現実」がどうだとか力説しておいて、ぶるぶる震える私を見た途端、そんなことを言い出すのだから。
「自分でつけた痣? そんなの私、本当にイタい女の子じゃない。包帯アヤナミ発言並みに」
私の声は震えていたけど、彼は必要以上に大きく笑った。多分、安心させようとしている。
「君にあんまり不評なんで、アレは外したんだ」彼は気取った動きで口笛を吹く。「そうだ、今から駅前の『浪漫珈琲』にでも行こうか。こういうときは甘いものを食べたほうがいいんだ。何か落ち込むようなことを言われたときには、甘くて温かいものが一番だよ。ココアなんか最適だと思う」
そんなことより……。
「ああ、もちろん、おごるよ」
そんなことより。
「おかしいの。さっきから震えが止まらない。夏なのに、なんだか寒くて」
「……お化けが出たんだね。そう、ぶるぶるって妖怪を知ってるかい」
「知らない」
「トイレに行くのを怖がらせるために、人間を抱きしめるんだ。こんな風に」
ぎこちなく近づき、誠がそっと抱きしめてくれる。頭を寄せると、胸から力強い鼓動が聞こえた。
「でも君の震えが止まらないときには、僕がぶるぶるを追い払うから。ずっと」
優しさに包まれ、それは暖かくてどうしようもない――。