彼氏もいないくせに
スーツを着た女がぼろアパートの階段を上っている。厚化粧でも隠しきれない濃いクマがあるが、眼は竹林に潜む虎のように爛々と輝く。
右手には大きなワイヤーカッターを抱え、ガチガチとハサミのように噛み合わせながら二階角部屋の前に立った。ドア脇の黄ばんだ表札には「小田」と書かれている。
ココッコッココッコッ。
椿はリズミカルにノックした。ドアスコープに中の光が漏れているから、人がいるのはバレている。ドア越しに奥からこもった衣擦れの音がして、小田弓子がやってくる。
「……はい」
沈んだ声とともにドアが開いた。瞬間、椿はワイヤーカッターを隙間に押し込み、ドアチェーンを切断した。
「ちょっ」
慌てる弓子を押しのけ、カップラーメンの食べ跡やらのゴミを蹴散らしパソコンの前に座った。
「なんだ、ずっと連絡せずに閉じこもってると思ったら、ちゃんと書いてるじゃない」
椿はディスプレイを覗き込む。ワイヤーカッターを床に放り、スーツの上着をハンガーに掛けた。
「あ、まだ見直しとかアレだからあんま読ま――」
「ってコレ別のやつじゃないの。『アマネオ』の続きは」
弓子は寝起き姿だった。幼稚園児が描いたようなキリンさんが所々にプリントされているパジャマに、戦時中かと疑う丸メガネ。胸だけは無駄に大きい。脂でテカテカしている長い黒髪がゆらりと垂れる。
「できてませんごめんなさいすいません」
椿の口元がフ……と歪む。退廃的な笑みだった。
傍から見ればまるで江戸時代の農民が武家様にぺこぺこしているようだが、彼女にはそれほど優越感はない。何故なら真実、困っているからだ。
「わかってるわよね、明日がデッドライン――〆切だってこと」
「あれ、そういえば椿嬢、痩せた?」
話を逸らすつもりらしい。
「そう、痩せてるのよ。誰かさんの気まずそうに『できてません……』って言う顔を見て、印刷所の人に土下座して回ることを繰り返してるから。睡眠不足で私の肌はゴビ砂漠みたいに乾き果てているわ」
「ご、ごめん」
「いいから書いて。売れるものを書くことで償いをするのよ。弓ちゃんはそれしかできないんだから。それはさておき『アマネオ』ではないこれは何かしら」
ファイル名には『ゆめゆめガールRRR』とある。
「恋愛モノ? 珍しい。弓ちゃん、彼氏もいないくせに書けるのかしら。それとも彼氏がいないからこそ書けるのかしら」
「…………」
弓子は押し黙っている。いつもぽやんぽやんとしている彼女が決然とした目をしていた。
「言わないというわけ。わかった、深くは聞かない。こういうときは絶対言わない性格だもん。よくよく考えたら彼氏なんていてもいなくても変わらないし? で、これはどうするの。同人誌で発表するつもり」
弓子は天井に目をやりながら、ポリポリと頬を掻く。
「やー、これは何ていうか、時々書くライフワークってか自伝フィクション――でもほとんど一日のことだけど――みたいなモンで、発表とかそういうのはちょっと」
「ふうん、面白そう」
言葉とは裏腹に、椿はどうでもよさそうに言う。
「読ませてよ」
「ダメ」
「お見せ」
数刻の問答の末、弓子の紙一重の作家魂なのか、編集者としての椿の資質なのか――ほどなく「ゆめゆめガールRRR」の冒頭はディスプレイに表示された。
「言っとくけど中学校時代の話だから」
「私が出てるのかしら。グッド! ますます面白いわ。私が読んでる間、『アマネオ』のアイデアでも練ってなさい」
弓子はため息を吐き、所在なさげにノートにアイデアを書き出した。
椿はそれを見届けると文章をスクロールし、読み始めた。