8.天使、策を授けられる
「えっ? まだ手を繋いだこともないの?!」
天大のカフェテリアで、わたしは思わず大きな声で言ってしまった。
当惑した顔で彼女は周囲を見回した。気づいた人はいないようだ。
そんな彼女を見て、わたしは言った。
「ごめん、ごめん。でも、ちょっと驚いちゃったものだから」
10月の第4木曜日。2限の法哲学の講義を受けるつもりで天大のキャンパスに行ったところ、休校だった。3限まで時間が空いたので、図書館に行った。
自習コーナーでしばらく講義の復習と受験勉強をしてから、早めにカフェテリアへ行こうか、と入口へ向かう途中、見覚えのある女子に気づいて声をかけた。
「あの...たしか吉野さん、だったよね」とわたし。図書館なので自然とひそひそ話になる。
平均より少し小柄でボブカットのその子は、読んでいたテキストから顔を上げて言う。
「はい。吉野です。浅山センパイ...ですね」
わたしを見上げるつぶらな瞳が可愛らしい。
「名前覚えていてくれたんだ。嬉しいな」
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その日1限の講義に出た後、2限は休講だったので、わたしは図書館で勉強していた。
1時間ほどした頃、その人が声をかけてきた。170cm近くはあるだろうか、スラっと伸びた背に長い黒髪、端正な顔立ち。
司法試験受験研究会のメンバーで、ケイさんにやたらと馴れ馴れしくするのが気になっていた、浅山輝佳さんが目の前に立っている。
「今日は、どうしてこちらへ?」
ルミナス女子大、通称「ルミ大」に通うその人は、今期の木曜2限に天大の講義を受講しているという。天大とルミ大は、T県内の大学間単位互換プログラムに参加している。
「アプリで休講かどうか確認せずに来ちゃったから最悪。ここで時間つぶしてたんだけど、混まないうちにカフェテリアに行こうと思って。よかったらご一緒しない?」
一瞬躊躇したけれど、お兄さまから「お昼は一緒にできない」と連絡が入っていたので、彼女にお付き合いすることにした。
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ヨッシーが大学に入学してから、授業のある日は、オレはたいていカフェテリアで昼食を一緒にしている。
今日は3限のゼミで報告の番が回ってきた。2限が休講とわかっていたので、その時間で準備できるだろうと高を括っていたが、ぜんぜん間に合わないことがわかってきた。早めにヨッシーに連絡して、お昼の時間がとれないことを伝えた。
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2限が終わるのが11時50分。だから11時半のカフェテリアはまだ空いている。
わたしは日替わりのBランチ。メインは白身魚のフライ。吉野さんナポリタンスパゲティー。トレーをもってカフェテリアちょうど中央あたりの席に向かい合わせになって座る。
「キミは、ウチダくんとよく一緒にいるよね」と白身フライをタルタルソースにからめながらわたし。
「研究会の帰りもいつも一緒だし」
スパゲティーをフォークで巻き取りながら吉野さんが答える。
「ケイ...内田センパイは、高校のときにバンドの仲間だった子のお兄さまなんです、浅山センパイ」
「『浅山センパイ』はやめよう。『ルカ』にして」。
「わかりました。ルカさん。じゃあ私は『ヨッシー』でお願いします」
「高校でそう呼ばれてたんだ。天高かな?」
「いえ、ルミ女です。高校から」
「なんだ、わたしの後輩じゃない。こちらはルミ中からルミ大までずっとルミナスだけどね」
旧制女学校がルーツのルミナスは、「ルミ女」と言えば高校のことになる。
「ウチダくんは天高の出身だよね」
「はい。そうです」と少し表情を固くしたヨッシー。
「ウチダくんは...そうねえ、わたしの将来のパートナー候補の一人かな」
「えっ?!」と小さく叫んで、ヨッシーがフォークに向けていた目をわたしに向ける。
「あっ、ごめん。驚かしちゃった? パートナーっていっても、法律事務所のパートナーのことさ」
天歌市は県庁所在地のT市に近いから、地場の弁護士の数がまだまだ少ない。新規に事務所を構える余地は十分にある。ルカさんは研究会には2年のときから参加しているけど、将来事務所を一緒に立ち上げるパートナー候補を探すのも目的の一つだと言う。
「でも...本当にそれだけですか。だってルカさん、内田センパイと...いつもとても楽しげにお話しされてるから」
「そうか、それが気になるんだね。悪いことしたかな。でもそうだとしたら...キミにはウチダくんしか目に入っていない、ということだね」と穏やかな口調でわたし。
「えっ?」
「わたしは、他の男子とも、同じように話をしているよ。それに気づかないくらい、キミはウチダくんだけが気になっているんだ」
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人が増えてカフェテリアがほぼ満席になった頃、ルカさんが改めて切り出した。
「で、ウチダくんとは知り合ってからどれくらいなの?」
「初めて出会ったときからだと、2年半くらいでしょうか」
コンビニでの出会い。バンドの仲間のお兄さまだったことを知ったこと。1年ほどたって、初めて二人きりになったこと。本格的に受験勉強を始めてからカテキョーをしてもらっていたこと...気がついたらルカさんのペースに乗せられて、いろんなことを話してしまっている。こういうキャラクター...知ってる。鷹司ミクと同じだ。
「...そうして晴れて『天大カップル』になったわけだ」
「ええ...」と少し言葉を濁すわたし。
「どうしたの? うまくいってないのかな」と、少しじれったそうにルカさん。
「...そういうわけではないんですけど、ケイさん、あっ、内田センパイのことですけど...手を繋いでもくれないんです」
この一言に、ルカさんは本当に驚いたように声を上げた。
「えっ? まだ手を繋いだこともないの?!」
「そうか、これはどうしたものか...おっと、いけない。今日はルミ大で3限あるんで、そろそろ戻らなくちゃ」とルカさん。
「軽く夕飯でも食べながら、もう少し話ししない? ヨッシー、今晩ご予定は?」
「今日はバイトがあって...」
「じゃあ、明日?」
「はい。お願いします」
「時間と場所は、まかせるから」
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ゼミの報告はなんとかこなすことができた。准教授は、いくつかの論点について少数説をとりあげて補足説明をしたけれど、その他はおおむね十分な議論がてきていたとの講評。どうやら及第点だったようだ。
夜はJUJUのバイト帰りのヨッシーと、ずっとそうしてきたようにコンビニのカウンターで向かい合う。今日は並んでいるお客さんがいなかったので少し会話。オレからゼミの報告がうまく行ったことを簡単に話す。彼女は、なにか話したかったようだけれど、結局話さずに帰って行った。
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翌日、金曜日の7時にヨッシーと天歌駅改札前で待ち合わせした。5分前くらいにわたしが着くと、彼女は先に来ていて、軽く会釈しながら「よろしくお願いします」と言った。
彼女が連れて行ってくれたのは、駅前商店街にあるハンバーガーショップの「JUJU」。
「高校の頃からバイトして、バンドの仲間とも来てて、毎日のように来ていたこともある店なんで、一番落ち着くんです」とヨッシー。
カウンターで注文して席に着く。しばらくして40くらいの男性がトレーを2つ持ってやってくる。
「こちら、この店のオーナーの半澤さん」とヨッシー。
「お初にお目にかかります。この方は吉野さんの先輩?」
「ええ。高校の先輩で、大学のサークルも一緒です」
「浅山 輝佳と申します。よろしくお願いします」
「それはそれは。以後ご贔屓にお願いしますね」とニコニコしながら半澤さん。
ヨッシーはベジタブルバーガーの、わたしはクラシックバーガーのセット。決して小食ではないわたしにとっても「単品にしとけばよかったかな」と思うくらいのボリューム。
美味しい! 全国チェーンよりかなり高めの価格設定だけど、納得感大いにあり。ポテトの最後のひとかけまで、大満足で完食した。
しばらくわたしの法律の勉強について話す。
勉強を始めたのは高校2年のとき。1年のとき天大の法学部生とつき合って、学年が替わる頃にふられた。弁護士志望と言っていたそいつに、いつか法廷で闘って勝ってやるんだと思って、弁護士を目指して勉強を始めた。ルミ女では特進コースだったけれど、受験勉強の時間がもったいなかったので、内部進学で好きな学部を選べるレベルの成績を維持する以上には、学校の勉強はしなかった。ルミ大では人文社会科学部法律コース。大学2年のときから司法試験予備試験にチャレンジしている。
「すごい、高校の頃からお勉強されているのですね」と驚いたようにヨッシー。
「私なんか、高校では政経が最初苦手科目で、ケイさんにカテキョーしてもらって、どうにかできたんです」
「じゃあ、弁護士になろうと思ったのは?」とわたし。
「弁護士志望のケイさんのお話を聞いて、興味を持ったんです」
「ところで、ヨッシーの恋愛遍歴を聞かせてくれるかな」と、本題に入る。
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ルカさんはご自身の司法試験を目指したきっかけや勉強について話してくださった。
そして本題。まずはわたしの恋愛遍歴について。
「えーと...中学のときに、一応3人つき合ったことがあります」
「すごいじゃん。共学とはいえ3人も?」とびっくりした風のルカさん。
「みんな1ヶ月以内に終わりました。短いのは1週間」
「へええ。なんか、それもすごいね」
「わたし、こう見えても結構気が強いところがあって、見かけとのギャップにみんな引いてしまったようです」
「たしかに、キミは見るからに可愛らしい女の子だからね。『GAP萌え』にはならなかったんだ。それで高校のときは?」
「家族と学校の先生とバイト先以外で、男の人と話をしたのはケイさんだけでした」
「そうすると、ウチダくんを入れて4人、ということだね。私はあと大学1年のときにT大生とつき合って別れて、今は彼氏いないから、2人。頭数ではキミに負けてるんだ」
「ケイさんとは...本当につき合っている、と言えるかどうか、自信が無いんです」
「そのケイさんは、キミの外面と内面のギャップは気にしなかったの?」
「そうですね...ケイさんはとにかく優しくって、わたしの気が強い部分を表に出す機会が、っていうか出す必要がなかったんです」
「なるほど...それが問題なのかもしれないね」
「じゃあ、改めて私から質問」一呼吸おいてルカさんが言った。
「キミは、本気でケイさんと男女の仲になる気があるのかな?」
「えっ...その、男女の仲と言っても...」
「どこまで進むかは当事者の合意によるものとして、キミの言動から察するに、少なくとも手を繋ぐ仲にはなりたいんだよね」
「は...はい、そうだと思います」
「いまのキミたちは、飼い犬と飼い猫のようなものかな」少し顔を傾けてルカさん。
「...」
「古い歌の歌詞じゃないけれど、彼の中のオオカミを引っ張り出さなければならない」
「...オオカミ、ですか」
「そのために、キミの中のトラ、勝ち気な部分を出してみたら?」
そう言うとルカさんはドリンクを一口啜った。
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「今夜はルミ女の先輩に会う」とヨッシーはお昼のときに言っていた。
今頃「JUJU」にでもいるのかな、と思いながら、オレは商品出しをしていた。レジにお客さんが並んだのを見ると、すぐに飛んでいく。
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「...さて、問題はどうやってそうするか、だね」
オオカミとトラについて話したところで、わたしは腕を組んだ。
しばらく黙って考える。
「ここはひとつ、芝居を打ちましょうか。三文芝居を」
「三文芝居、ですか?」と怪訝な顔でヨッシーが聞く。
「いや、恋愛には意外と三文芝居が効くのさ、特に初期の段階ではね」
「はあ...で、どんな?」
「うん、そうねえ...来週の研究会は月末だから、終わった後に定例の飲み会があるよね」
「はい」
「研究会が終わったあと、わたしがウチダくんを引き留める。15分くらいかな。キミは先に飲み会に行っていて、わたしとウチダくんが遅れて会場に入る。わたしが彼を強引に隣に座らせて、その日はずっと終わりまでそうする」
ここまで一気に言うと、ひと呼吸置く。
「飲み会の帰りはいつも、ウチダくんがキミを家まで送っていくんだよね」
「ええ」
「そのときにキミがトラになるのさ」
「どうやって?」
「それはキミにまかせる。キミの本来の勝ち気な部分をそのまま出せばいいんじゃないかな」
「でも...もしもそれで、ケイさんが私のことイヤになってしまったら」
「そうなったら、また一緒に考えよう。それに...そうはならないように思うな、話を聞いている限り」
「仲直りのターゲットは、学園祭あたりに置くといいかもね」と、さらにアドバイスをする。
「わかりました。いろいろと...でも、どうしてここまで?」
「ルミ女のかわいい後輩のためだし、事務所パートナー候補のキャンパスライフの充実のためということもあるし...そうだね...キミを見ていると、なぜか放っておけない気になるんだ」
どうしてだろう。2歳下のヨッシーのことが、実の妹のように思えてならない...。