4.天使と会話する
お兄さまは、去年新しくできたというカフェテリアへ連れてってくれた。お兄さまが通ってられた頃の食堂はボロくて、しかも小さいからすぐに売り切れになっていたらしい。
ホットコーヒーとオレンジジュースを買って、やわらかな五月の午後の陽が射しこむ窓際の席に着き、窓の外、行きかう人たちを眺めながら一息つく。
「ええと、この前はどこまで話したっけ」とお兄さま。
「どうして弁護士志望...」
「そうそう、そうだった。じゃあ、こちらから質問です。弁護士は『正義の味方』でしょうか?」
突然の質問に、面食らった形のわたし。
「...ちがうんですか?」
「では、もうひとつ質問。世の中でもっとも性質の悪い弁護士は、どういう弁護士でしょうか?」
「...わからない、です」
「それは、自分のことを『正義の味方』だと思い込んでいる弁護士」
お兄さまのお話。
例えば民事裁判。対立する主張があって、自分の主張が通るのが自分にとっての正義。けれど片方の正義が通れば、もう片方の正義は通らない。
刑事事件もそう。被害者にとっては、加害者の犯した罪に照らして最高の刑罰を科せられることが正義。けれど加害者とされている被告人は、無実かもしれないし、無実でなくとも刑罰を決める際に考慮すべき事情があるかもしれない。だから、刑事被告人の正義を守るために弁護人が必要になる。
「絶対的な正義」は、理念のレベルで想起できても、現実の人間社会の中には存在しない。
では、弁護士を含む法律家はどういう役割を果たすべきか。絶対的な正義は存在しないことを前提に、さまざまな事情を比較考量したうえで、法律という尺度をもって社会的公正を実現すること。
「弁護士法第一条が、単なる『正義』ではなく『社会正義』の実現と規定しているのは、そういうことだと思うし、そういう存在にボクはなりたいと思う」とお兄さまは締めくくられた。
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...振り返ってみれば、法学部2年の青二才が、偉そうなことを喋ったものだと恥ずかしくなってしまう。
けれど彼女は、そんなオレの話を、つぶらな瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれた。
「ごめんなさい...調子に乗って、ちょっとしゃべり過ぎたかな」とオレ。
「いえ、そんな...勉強になります。こちらこそ、うまくリアクションできなくてごめんなさい」とヨッシー。
「まあ、こんなこと考えてるヤツもいるんだ、くらいで聞いておいてください」
そうだ、彼女の嬉しかった話の続きを聞いてあげなきゃいけなかった。
ライブカフェ「エンジェル」に出演できることになったこと。天歌市近辺のアマチュアバントとしてはすごいことだそうだ。ルミ女の軽音部の伝統のバンド、ルミッコが年に2回、ワンマンライブをやるが、それ以外で「エンジェル」でワンマンライブをやるのはルミ女ではミクッツが初めて。オレは音楽のことは詳しくないが、それでもさっき聞いてきた天高のバンドと、ルミ女のステージで聞いたルミッコでは、バンドの格が違うことがわかる。
「天大のバンドがライブやる予定だったのが、急に解散しちゃってその代役なんです」とヨッシー。
「でも、実力が認められたんだよね。ボクの印象でも、去年の文化祭から一年たって、すごく上手くなったと思いますよ」
そしてお父さまの就職先が決まった話。
「ほんとよかったね。家族みんな一安心でしょう」
「おかげさまで。経済的なこともそうですけれど、なによりも父が、毎日生き生きと仕事に行っているのが嬉しくて」
「以前と同じ、営業の仕事とか」
「はい。面接受けたら、新規事業の営業責任者にぜひ、ということで逆にお誘いを受けたとか」
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せっかくルミ女と天高の文化祭2回で二人きりになった、というか、二人きりに、したのに、その後も相変わらず「あたためますか」と「お願いします」の仲が続いているらしい。
まあヨッシーは、わたしと違って真面目に受験勉強してるだろうから、アニキなりに気を遣っているのかもしれない。
6月10日の「エンジェル」ライブのチケットを渡すとき、わたしはアニキに言った。
「じいさんに取り成すのに条件がある。ライブ終わった後に反省会に参加すること」
我ながら「兄思いの、出来た妹」ではないか。
ライブ当日、梅雨入りしてときどき雨粒の落ちてくる生憎の天気。
アニキが午前中からバンで、メンバーと楽器をピックアップして行ってくれる。
最初に、いつもリハーサルをしているスタジオ「ソヌス」に12時に入って、1時間直前リハーサル。
「エンジェル」にわたしたちを推薦してくださった「ソヌス」オーナーの戸松さんにアニキを紹介する。
「いつも妹がお世話になっています」
「これはこれは、お兄さん。頼もしい『ロジ担当』ですね」と戸松さん。
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「ソヌス」を1時過ぎに出て、わたしたちはAUショッピングモールのフードコートへ行った。
軽く昼食をとりながら、あれこれ話をする。ソロの弾き語りをするマイだけが、言葉少なにギターポジションのチェックとかをしている。
お兄さまのバンでライブカフェ「エンジェル」に向かい、控室に楽器を運び込むと3時。
今日のステージ衣装はルミ女の夏服。右の胸元に校章の刺繍がはいった白の半袖ブラウスに、丈が膝から10cm上あたりの濃紺のスカート。地味な感じで、冬服のほうが人気が高い。
夢に見たステージ。セッティングをして、念入りにチューニングをする。
あっという間に3時30分の開場の時間。開演まであと30分。
お兄さまが客席に着いて、最初の観客になる。
入れ替わるように、ルミ女の夏服を着た、腰まで伸ばした黒髪が印象的な女の子が控室に入る。
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控室を出て客席に向かうときに、すれ違った女の子。どこかで見たような、と思ったが気にせずにいた。
本当は前のほうに座りたいのだけれど、図体のでかいオレがいると後ろの人の邪魔になるといけないので、後ろの席に着いた。
開場して10分くらいすると徐々に人が入ってくる。
座席定員60人と聞いていたが、開演までには9割方埋まった。
4時開演。1曲目の「YOU MAY DREAM」、2曲目がオリジナルの「天使のメッセージ」。ミカさんやマイさん、タエコには申し訳ないが、オレの目は、天使のキーボードとサイドボーカルのパフォーマンスにくぎ付けになっている。
3曲目の「1/2」とここまでオレがミクッツで聴いたことのある曲が続いた後、4曲目、マイさんのソロの弾き語りになる。 初めて聞く曲「愛の才能」。主コードが一発鳴ってボーカルとギターが始まる。少しハスキーな彼女の歌声が曲にぴったり。会場は彼女の渾身のパフォーマンスに完全に引きずり込まれていた。
スキャットの後奏がしばらく続き、突然曲が終わる。余韻が消えてしばらく静寂に包まれたのち、会場のそこここから拍手と歓声が起こり、会場全体に割れんばかりの拍手が広がる。オレも立ち上がって拍手を送った。
5曲目の「あなたがいま、いる」は、今日のためにミカさんが詞を書きマイさんが作曲した曲。ミカさんがこの曲を書いたいきさつを話した後、「大事な人のことを思いながら、聞いてほしい」と言って、しっとりとしたパフォーマンスで歌い上げた。「大事な人」とは、あの人のことだろう。会場を見ると、壁際の席に座っていた。
「最後の曲」6曲目は、プリプリの「Diamonds」。ミカさんと天使の掛け合い。オレの目はまた、天使にくぎ付けになる。会場のテンションがさらに上がって、曲が終わる。拍手の中から「アンコール」の声が聞こえたそのとき...
「やっほ~い!」と言いながら、ハンドマイクを持って控室から飛び出してきた女の子。この子はたしか...
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転校したミクこと鷹司 美紅がサプライズ参戦。アニキには悪いがメンバー以外には内緒にしていた。
最初から予定していた「アンコール曲」、ミクッツ最初のオリジナル曲「どぅ?」を、初代と二代目のダブルメインボーカルで演奏する。場内ほぼ総立ちの盛り上がり。
こうして、わたしたちが夢にまで見たライブカフェ「エンジェル」でのライブは、拍手と歓声の中、終演した。
お世話になった方々や見に来てくれた人に挨拶し、ステージを片付けると、いつもの4人にミクとアニキを加えた6人でJUJUへ行く。雨は本降りとなっていた。
今日はみんな、バーガーのセット。アニキとわたしがクラシックバーガー。マイがフィッシュバーガー。残り3人がベジタブルバーガー。
カウンターでオーダーして、奥の窓際のテーブルに向かう。まずアニキをベンチの奥に押し込めると、その向かい側にヨッシーを座らせる。ヨッシーの隣にミク、その向かいにマイに座ってもらい、マイの隣にわたし、その向かいにミカ、と、わたしが仕切って座席配置を決めた。
話題はライブの話と、ミクの転校先の話が中心に進む。少し落ち着いたあたりで、マイが、アニキとヨッシーが言葉を交わすように誘導する。マイがミクに目配せすると、勘のいいミクも事情を呑み込んだみたい。
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ライブの余韻が覚めない中、JUJUでみんなと過ごす。今日はサプライズ参戦のミクと、そして、お兄さまが一緒。
タエコの采配で席に着いたら、お兄さまと向かい合わせになっていた。コンビニのレジ越しを除くと、向かい合わせは3回目。
ひととおりライブの話が終わると、ミクの転校先での高校生活が話題の中心となる。進学校として有名な女子校に通っている。軽音部がないので、中学のときと同じ合唱部で歌っているとのこと。難関校コースに在籍しているけれど、ルミ女のときと同じくあまり勉強はしていないみたい。
「その点、ヨッシーとミカは頑張ってるんだよね。特にヨッシーは学年5位」とマイがわたしの話題にする。
「これはヨッシー、天大、当選確実かな?」とミク。
「うん...そうなったらいいんだけれど」とわたし。
「それなら、お兄さまの後輩ですよね」とマイ。
「まさに、『かわいい』後輩、じゃないですか、お兄さま」といたずらっ子っぽくミク。
「えっ、そ、そうですね」とお兄さま。
狼狽した様子のお兄さまの姿が、ちょっと嬉しいような気がした。
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マイさんとミクさんがオレとヨッシーの間に会話を成り立たせるよう、誘導しているように思えてきた。男子としていささか情けない気もするけれど、妹のお仲間のご厚意に甘えることとした。
あれやこれやと話して1時間半くらいたった頃、マイさんが軽く咳払いをして居住まいを正した。
重要な「業務連絡」らしい。
8月11日、「山の日」の祝日にライブの話をいただいたとのこと。会場はすでに2回ライブをやったことのある天大医学部付属病院のホールで、ミクッツのワンマンライブ。メンバーの予定を確認し、4人ともOKということで決まりとなった(ミクさんは参戦不能で「残念無念」)。
当初の予定では7月半ばの校内ライブが最後になる予定だったのが、ラストライブを校外でできることになって、みんな嬉しそうだった。
「お兄さま、是非いらしてくださいね」とヨッシー。
「はい、バン出します」とオレ。
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実はミクッツの「エンジェル」ライブ前から、ルミッコといっしょに7月の校内ライブで披露する趣向を準備していた。ミクッツの「1/2」、マイの弾き語りの「愛の才能」、そしてルミッコとミクッツメンバーのコラボで「DNA」の「川本真琴メドレー」。
校内ライブに来賓として来られる、スタジオ「ソヌス」の戸松さんの奥様との思い出のアーティストが川本真琴さん。いろいろと便宜を図ってくださる戸松さんへのお礼を込めた趣向。
「DNA」の編成はルミッコのバック演奏で、ミカがボーカル。ヨッシーはサイドボーカル。そしてわたしは、中学吹部以来のタンバリン。
7月17日「海の日」の校内ライブは、大成功だったと思う。戸松さんはご夫妻でいらして、本当に喜んでおられた。
そしてわたしたちにも嬉しい「趣向」が。「エンジェル」で29日に本年度のフェアウェルライブをするルミッコのステージに、わたしたちのサポート出演で「DNA」を演奏するように、との指示が戸松さんからあったらしい。今度はマイも、ルミッコの2本に加えた3本目のギターで参加。
わたしたちは観客のつもりでチケット買っていたけれど、「関係者」になったのでチケット不要で入れることになった。4人それぞれお世話になった人、大事な人にチケットを渡す。
わたしは、日頃の感謝と「脱シスコン」への思いをこめて、アニキに渡した。