3.天使を運搬する
わたしは、上の兄のことを「お兄さま」と呼ぶ。表も裏もなく、そう呼ぶ。
一方、ケイイチ兄のことは「アニキ」と呼ぶ。
ただし、「アニキ」の代わりに「兄上」と呼ぶときがある。
なにか折り入ってお願いをするときだ。
「兄上」とわたし。
「で、今度は何のたのみかな?」とアニキ。そのへんは彼もよくわかっている。
「ミクッツのライブを、駅前のAUショッピングモールでやることになった。屋外ライブなのでドラムスも運ばなきゃならないし、時間がタイトで、メンバーと各自の楽器も運ぶ手段がいる」
「要するに、オレにバンを出してくれってことだな。いつだい?」
「10月29日土曜日。12時半まで学校で講習があって、2時頃にはステージ上で準備しなきゃならない」
「本当にタイトだな。まあオレはいいけど、土曜日だから、じいさんの了承はお前からとってくれ」
このへんもアニキはよくわかっている。じいさんは、わたしの言うことならたいていのことは、首を縦に振る。「駆け落ちする」とでも言わない限り、「ノー」とは言わないだろう。
案の定、じいさんは10月29日土曜日のアニキとバンを、終日解放した。
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10月29日のミカのデビューライブは、天候には恵まれたが、慌ただしいスケジュール。
タエコのお兄さまがバンを出して、わたしたちと楽器を運んでくれた。ステージセッティングと撤収も、がっしりした体格の男性が手伝ってくれたおかげで、とてもスムーズにいった。頼もしかった。
2曲のステージは結構盛り上がり、ミカのデビューをまずまずの演奏で終えたあと、ミクッツの4人とタエコのお兄さまはAUショッピングモールのフードコートにいた。
3時近くになって、みんなお腹ペコペコ。
「なんでも好きなもの食べていいよ。ご馳走するから」というお兄さまのお言葉に甘えて、和食、洋食、中華みんな思い思いの料理をとってきて「いただきます」。
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AUショッピングモールでの昼間のライブのことを聞いた祖母は、オレに「食事のときに使え」と言って「株主優待割引証」を貸してくれた。
内田家が経営する「栄優食品流通」グループは、AUショッピングモールも経営している。だから祖母が持っている「株主優待割引証」を提示すると、モール内の飲食は半額になる。
5人×1000円=5000円の小遣い、とならないのが我が家。男子を厳しく育てる内田家としては「株主優待割引証」が精一杯の厚意なのだろう。
ライブ後のフードコート。食事をしながら、オレは新規加入したミカさんに正式に紹介してもらった。
セミロングの髪をナチュラルに垂らした、物静かな雰囲気の美人だが、初のライブを終えて興奮しているのか、饒舌だった。
食事が終わり、みんなに代金を渡してレシートを回収する。店に行って「割引証」を見せ、割引分の半額を返金してもらった。
一軒だけ「後付け割引」に難色を示した店があった。仕方なく自分の身分を明かすと、態度がガラリと変わった。びっくりするぐらいだった。
「内田家の印籠」に頼ることは、これからは慎しもう、と心に誓った。。
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ショッピングモールのライブを境にして、ミクッツのライブの回数が増えた。
12月の天皇誕生日に、天大医学部付属病院のホールのクリスマスコンサート。3曲演奏。
年が明けて2月最後の土曜日に、去年も参加した天歌市民文化祭。2曲演奏。
3月の春分の日に、またも付属病院ホールで今度はスプリングコンサート。3曲演奏。
3回のうち2回、付属病院のホールでのライブについては、病院の事務でホールの責任者の人が、ショッピングモールでの演奏を気に入って、声をかけてくださるようになったらしい。
どのライブ会場も、ドラムスや機材は用意されているので運ぶ必要はない。
それでもアニキは、バンを運転してメンバーと楽器を運ぶ役を買って出た。
ひとつの理由は「身柄拘束」から解放されるため。ふだんは呼び捨てのわたしに向かって「タエコさん」と言って、じいさんへの取り成しを頼んでくる・
そしてもう一つの理由は...
がんばれアニキ!
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タエコのお兄さまは、ショッピングモールのあと3回あった学外ライブに、いつもバンを出してくださった。
ご自宅からタエコを乗せて、最初に市の東部、マイの家へ向かい、マイとギターをピックアップする。その後西へ向かって、わたしとキーボードをピックアップする。少し戻ってミカの家に寄り、ミカとベースをピックアップする。
演奏開始前にセッティングのお手伝いをしてくださる。ホールの通路で演奏を聴きながら待機して、演奏が終わると、また撤収のお手伝い。
ライブの後は、反省会をいつもJUJUでやるのだけれど、誘ってもお兄さまはいらっしゃらない。メンバーの家族が家にいることを確認して、楽器だけバンで届けると先にお家に帰られる。
2月の天歌市民文化祭の後、嬉しいことが続いた。
まずは、学年末試験結果と3年のクラス分け。わたしは学年5位で国立コース編入。しかも、念願の特待生資格がついた。同じく特進コースだったミカも国立コースに編入され、ミクッツ全員が国立コースとなった。
次に、ミクッツがライブカフェ「エンジェル」でワンマイライブをさせていただくことになった。アマチュアバンドでは、ルミッコのレベルの実力がないと立てないステージ。キャンセルが入っての代役だけれど、とても嬉しい。
そして、父親の再就職先が決まった。いままでの経験を生かせる営業の仕事とのこと。本当によかった。
相変わらずお兄さまとは、コンビニのレジ越しの短い会話のみ。嬉しかったことをじっくり話したり、大学のことを聞かせてもらったり、もっとお話をしたいんだけど...
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4月になってオレは大学2年になり、タエコたちは高校3年、受験生の仲間入りをしたが、夏まではバンド活動を第一にするつもりらしく、練習に精を出している。
ミクッツにすごいことがあったという。6月10日に、天歌駅近くのライブカフェ「エンジェル」でワンマンライブをすることが決まったらしい。プロやセミプロのミュージシャンも多数出演して、天歌近辺のアマチュアバンドが、1曲だけでもそのステージに立つことを夢見る格式のある店なのだそうだ。
ライブに合わせて新曲に取り組まなければならず、とはいえ「勉強そっちのけ」というわけにもいかないので、タエコを除く3人は、読書時間やバイトの時間、そして睡眠時間を削って頑張っているという。
ヨッシーは、火曜日にコンビニ来店時間が早くなった。バイトを木曜だけにしたのだという。火曜日は放課後図書室で粘って、下校時間後はJUJUでドリンク一杯でさらに粘って勉強したあと、8時過ぎ頃に来店するようになった。
一方、タエコの生活パターンは...まったくと言っていいほど変わらない。
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せっかくライブごとに顔を合わせる機会を作っているのに、煮え切らないアニキ。
5月の文化祭で一計を案じることとした。
5月13日。五月晴れの土曜日、軽音部のステージが終わり、片付けの後、わたしたち4人は講堂の入口へ向かった。
待っているアニキに「もうちょっと待ってて」とわたしが声をかけ、4人は別の男子のところへ向かう。少しその人と立ち話をすると、ミカとその人が二人で文化祭の雑踏の中に消える。残りの3人は「お待たせしました」と言ってアニキのところへ。
アニキとヨッシー、マイ、わたしの4人でしばらく学内を回る。頃合いを見て、わたしはマイを促してさりげなく姿を消す。事前にマイには話をしておいた。
「二人はそういう仲なの?」とマイ。
「シスコンのアニキを、なんとかするのだ」とわたし。
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「二人になっちゃいましたね」とわたし。文化祭の人混みの中、いっしょに回っていたマイとタエコとはぐれてしまった。
「そのようですね」とお兄さま。
「どこかで少し、休みませんか?」とキーボードを背負ったわたし。
「そうだね。そうしよう」とお兄さま。
模擬店の喫茶に入って、奥の席につく。お兄さまはブラックコーヒー。わたしはオレンジジュース。
しばらく今日の演奏のことについて話す。
「さっきの人は、ミカさんの彼氏?」とお兄さま。
「ええと...」ミカから事情を聞かされているわたしは、一瞬言い淀む。
「中学のときからの知り合いで、いま闘病中だそうです。恋人じゃない、とは言ってますが、ときどき入院する彼を、支えてあげているようです」
「そう」
「病気のことがあるから『恋人』を名乗らないのだと思います。お互いに大事な人。特別な関係性」
「美男、美女で、とてもお似合いに見えたけれど」
お兄さまとわたしは、どういうふうに見えているんだろう。
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模擬店の喫茶店で、ヨッシーと話す。
考えてみれば、コンビニのレジ越しに話す以外で、二人差し向かいで話すのは、今日が初めてだ。
ヨッシーの嬉しかった話のうち、ひとつめ。国立コースになったこと。
「ほんとによく頑張りましたね。しかも特待生資格とは」とオレは改めて労いの言葉をかける。
「嬉しかったです。入学以来目指してましたから」と心底嬉しそうにヨッシー。
「文系でしたっけ? 志望は決まってるのかな」
「自宅から通える国公立、が条件なので、天大か、県立T大学で、学部はまだ決めてません」
「天大法学部で、ボクの後輩になる、というのは?」
少し考えてからヨッシーが言う。
「公民で政経をとってるんですけれど、結構苦手で。政経苦手だと、合格したとしても法学部は厳しいですよね?」
「まあ、必ずしもそういうわけではないけれど。受験までにはまだ半年以上あるし」
「それから、大学出た後どうするか、ぜんぜんイメージがなくて」
「それは大事だよね」
「お兄さまは、どうして弁護士志望なんですか?」
ヨッシーが少し身を乗り出して、つぶらな瞳をキラキラさせてオレに聞いた。
ちょうどそのとき、校内放送で音楽が流れ、文化祭初日が終わりになったことが告げられる。
「なんか、中途半端になっちゃったね」
「あのー、来週末の日曜日、天高の文化祭の軽音のステージを見に、みんなで行くことにしてるんです。よかったら...ご一緒しませんか」
「え、お邪魔じゃないですか」
「ぜんぜん。みんな喜ぶと思います」
「...それじゃあ、予定が合えば」
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「あの、タエコさん」とアニキ。
「わかってるよ。ヨッシーからLINEがあった。次の日曜のことだろ?」
例によってじいさんに取り成した。
アニキのお相手はミカを除いた3人になるはずだったのが、ミカの「大事な人」が入院してしまって、4人でお相手することになった。朝10時にルミ女の校門前で集合して、歩いて天高に向かう。
旧天歌藩の藩校にルーツをもつ県立天歌高校は、歴史と伝統を感じさせる重厚な佇まい。校内はほとんどが私服で、天高の制服姿はたまに見かけるくらい。アニキによれば文化祭の日は生徒も私服OKで、委員をやっていたり、催し物の関係で制服を着る生徒以外は、ほとんど私服で参加するらしい。
晴れ上がった空のもと、クラス展示や催しを回り、模擬店で焼きそばやたこ焼き、クレープを食べた後、12時半頃に講堂に入る。軽音楽部のステージは1時から。
演奏したバンドは6つ。ガールズバンドが1つに、男女混成が2つ。3つが男子オンリーのバンド。男子ならではのパワーと切れはさすがだと思うし、勉強になる。けれどバンドとしてのレベルはどこも、ルミ女が誇るルミッコには敵わない。
3時少し前に軽音楽部のステージが終わり、講堂の外に出た。
「そう言えば」とわたしが言う。
「ヨッシーはアニキと、話の続きがあるんだよね」
「ああ...」とアニキ。
「じゃあ、わたしたちはあちらへ」とわたしはマイとミカを連れて、その場を後にする。
振り向きざまに、アニキに激励の視線を送る。