2.天使、舞台に立つ
わたしは、ルミ女に入ったときは一般コースだった。家計に負担をかけないよう、特待生資格狙いで受験した国立・特進コース選抜試験。風邪をひいたのとプレッシャーで見事に失敗し、「一般コース入学資格付与」で終わってしまった。天高はじめ他の高校の受験でも失敗。ルミ女の一般コースしか残っていなかった。
ルミ女では1年次から2年次、2年次から3年次になるタイミングで、学年末試験の成績によって上のコースに上がれる制度がある。入学してわたしは必死で勉強した。バンドの仲間以外とはほとんどつき合うこともなく、バンドとバイト以外の時間はひたすら勉強に励んだ。
1年の学年末試験では国立コース生30人を除く210人の中で9位。5人拡大される国立コースの枠にあと一歩のところで、2年次は特進コースに編入された。
ミクッツの仲間は、リーダーのマイとタエコが1年から国立コース。ミクが1年、2年とも特進コース。
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オレがバイトを平日にしかやれないのには理由がある。
天大の法学部を受験すると言ったとき、祖父から言われた。
「大学出たら、なにをするつもりだ」
「弁護士になりたい。そのために法科大学院へ行きたい」とオレは答えた。
「では、うちの会社に入る気はないのだな」と祖父。
「わかった。ただし条件がある」
祖父が言った「条件」とは、内田家の男子として、家業の原点である配送の仕事を経験すること。具体的には、大学生の間、土休日は遊軍として緊急の配送の依頼に対応すること。
かくしてオレは、大学合格発表から入学までの短期間で運転免許をとらされ、入学と同時にバンをあてがわれた。土休日は自宅に待機し、連絡が入ったらバンに乗って自宅の隣の中央配送センターに行き、配送ミスなどで緊急に届けなければいけない品物を載せて、届け先へと向かった。
そうそう頻繁に緊急配送が入るわけではない。1日せいぜい1~2回。それでも朝食後から夕食前まで、ずっと拘束される。空いている時間に勉強ができるのは悪いことではない。しかしバイト代は出ない。労働法的には...とも考えるが、祖父の言うことは家庭内では絶対。見かねた祖母が、配送1回ごとに1000円のお駄賃を内緒で渡してくれる。
天使が金曜日に現れた話をしたら、タエコから、5月14日の土曜日にルミ女文化祭に来るように言われた。
「けどな、おれ土日は身柄拘束状態だし」とオレ。
「わかった。じいさんに私から話しておく」とタエコ。
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「あの、おじいさま...」
じいさんは居間でお茶を飲みながら新聞に目を通していた。
「おお、どうした、多恵子」と目を細めてじいさん。
「折り入っておじいさまに、お願いが...」
「しゃちほこ張らんでいいから、言ってみなさい」
「兄上のことですが...」
「恵一か?」
「5月14日の土曜日、うちの文化祭でバンドの演奏があって...」
「ほう」
「ぜひ、兄上に見に来てほしくて...」
「なんだ。そんなことか。恵一に、その日は自由にしていいと言ってやりなさい」
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ミクッツを結成した当時、バンド経験があったのは、リーダーでギターのマイだけだった。彼女はルミナス中学の軽音部で、特定のバンドに所属しないで、ときどき高校のバンドからもお声がかかる客演専門のプレイヤーとして腕を磨いた。
ルミナス女子高校の軽音部には「ルミッコ」という軽音部創設時代から続くバンドがあって、マイはオーディションを受けるように誘われていたらしい。辞退したマイは、バンド未経験、楽器未経験、そして音楽未経験の3人のメンバーとともに、バンドを一から創り上げる道を選んだ。
ドラムスのタエコは、テクは相当なものだったけれど、ステージに立ったのは吹部で、バンドは未経験。
ベースでボーカルのミクは、ルミナス中学の合唱部でソプラノ。けれど楽器経験はなく、ベース初心者。
そしてわたしは、中学入学祝いに買ってもらってそのままにしていた電子キーボードを、弾いてみたくなって軽音部に行ったら、マイから誘われて加入した。だから楽器どころか音楽もまったくの初心者。
結成からほぼ1年。2年生5月の文化祭時点で、レパートリーは3曲になり、どうやらバンドとしても形になってきた。
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柔道部で、一応硬派だったオレは、天高時代は一度もルミ女の文化祭に行くことはなかった。
5月14日の土曜日、五月晴れの空の下、オレは生まれて初めてルミ女に足を入れた。
旧制中学にルーツを持つ天高ほどではないにせよ、伝統ある名門校。最近建った校舎と歴史を感じさせる建物が混在している。洗練された雰囲気は、T県でも有数のお嬢様学校ならではだろうか。
クリーム色のワンピースがルミ女の制服。ルミナス中学の制服はセーラー服スタイル。合わせて制服姿が4割くらいだろうか。残りは、ルミ女の父兄、ルミ女を目指す公立中学生、そして天高などの男子高校生が同じくらいの割合と思われた。
周囲より一段と背が高く、男子一人で校内を歩いているオレは、文字通り「浮いている」状態。軽音部のステージが2時からということで余裕をもって1時に着いていたが、どうにも身の置き所が無く、30分前に講堂に入って、後ろから3列目の真ん中あたりのパイプ椅子に腰かけ開演を待った。
2時開演。最初に演奏した1年生のバンドが終わると、次はいよいよミクッツのステージ。
ベースでボーカルの子は端正な顔立ちに腰まで伸びた髪が印象的。ギターの子はボーイッシュなルックスで、セミロングの髪を後ろでくくっている。この子がリーダーだと聞いていた。ショートカットのタエコはさすがにドラマー姿が堂に入っている。
そして、キーボードを置いた台の後ろ、ボーカル用マイクを前にしたボブカットの彼女がいた。
講堂のステージのまばゆい照明の下、輝くその顔。ふだん見るコンビニ店内の蛍光灯の光の下とはちがう、けれど見紛うことのない天使がそこにいた。
全部で3曲演奏したうち、彼女は2曲目と3曲目でサイドボーカルとして歌い、たまにソロパートをとることがあった。ふだんレジ越しに聞く天使の声が、ステージ上ではこういうふうに響くんだと感心した。
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軽音部のステージに上ったバンドは4つ。2時開演で3時半頃に終演した。
アニキには「終わったら、講堂の入口で待っているように」と言っておいた。
機材を部室に運んだりして、すべて終わった頃には4時近くになっていた。
アニキは講堂の入口で、辛抱強く待っていた。
「ゴメン。お待たせ」と言うと、バンドの3人に紹介した。
「わたしのアニキ。名前はケイイチ」
「はじめまして。リーダーの坂上 麻衣です」とマイ。
「いつも妹がお世話になっています」とアニキ。
「よろしく! 鷹司 美紅で~す」
「鷹司って...ひょっとして?」
「お察しのとおり、エヘ」っと言って、握った右手をおでこの右上に持ってくる、ミクお決まりのポーズ。
「そしてこちらが...」とわたしが言いかけると、彼女は口を開いた。
「いつもお世話になっています」
「こ、こちらこそ、毎度どうも...」とアニキ。
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「おやおや? これはなにやら、ただならぬ雰囲気かな?」とニコニコしながらミク。
「そんなんじゃなくて...うちの近所の...」とわたし。
「ヨッシーの家の近くのコンビニで、アニキがバイトしてる」とタエコ。
「ちゃんとお会いするのは、今日が初めてですよね」と言って一呼吸おいてから自己紹介する。
「吉野 未来です。よろしく」
「こちらこそ...よろしく」とお兄さま。、
「なーんだ。そういうことか」と言ってミクが続ける。
「私と同じ『ミク』なんで、彼女は『ヨッシー』と呼ばれているのさ」
「まだ時間あるし、いっしょにちょっと回ってかね?」とタエコがお兄さまに言う。
「お邪魔じゃない?」
「そんな。ぜひ、ご一緒してください」とマイ。
お兄さまのすぐ左側に、ベースのケースを肩にかけた、身長164cmと4人の中で一番背の高いミクが並ぶ。日本でも有数のお家柄の一族だけれど、誰とでもすぐ仲良くなってしまう天賦の才を持っているミクは、さっそくいろいろと学内のご案内を始めた。
ミクの左に、ギターのケースを肩にかけたマイ。ときどきミクの補足説明やジョークのフォローをしている。
お兄さまのすぐ右側にタエコ。そしてその右にキーボードを背負ったわたしが並ぶ。
ミクと比べても背の高さが際立つお兄さま。ご案内がひととおり終わると、ミクがお兄さまについてあれやこれやと聞き出している。
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鷹司 美紅さんは不思議な子で、彼女のペースでどんどんいろんなことを喋らされてしまう。
「へえ~、天大の法学部なんだ。末は判事か弁護士か」
「へえ~、天高からストレートで天大なんだ。天歌エリート一直線!」
「へえ~、高校まで柔道されてたんだ。階級は?...90キロ級。それで背が高くていらっしゃるんだ」
「へえ~、得意技は大内刈りと袈裟固め。合わせ技一本!」
「へえ~、柔術と法律で、史上最強のボディーガードじゃん!」
...
1時間ほどすると、ルミ女文化祭の初日は終わりとなった。
「このあと、メンバーで反省会するんですが、よろしかったらご一緒しませんか?」とリーダーの麻衣さんが言った。
5人で歩いてきて、ちょうど校門をくぐったところ。
「ヨッシーがバイトしてる、バーガーショップのJUJUだよ。ポテトが絶品!」と美紅さんが言った、
いろいろな意味で疲れたオレは言った。
「お誘いありがとう。でも、今日はこれで失礼します。また、ライブがあったら声かけてください」
「今日は本当にありがとうございました」と礼をしながら麻衣さん。
「ありがとうございました」と言ってペコリとお辞儀する美紅さん。
「じゃあ」とタエコ。
ヨッシーこと未来さんは、はにかむような笑みを浮かべて、無言で会釈をくれた。
校門からそのまま南に駅の方に向かおうとする4人と離れるように、オレは左手、天高の校門の方へ向かった。
家に帰るには少し遠回りになるけれど、バンドの演奏と文化祭の喧騒で高まった熱気を、ひとりで歩いて冷ましたかった。
その後も、未来さんとはコンビニを訪れる天使と店員の関係が続いた。
「あたためますか?」「はい、お願いします」
ただ、後ろに並んでいる人がいないときは、短く、近況報告や世間話をするようになった。
そしてオレは彼女のことを「ヨッシー」と呼ぶようになった。
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大変なことになった。ミクがミクッツを脱退せざるを得なくなった。
「親戚の家からルミ女に通うって言ったんだけれど、父上が許さなかったのさ」
ミクが高2の2学期から転校する。お父さまのお仕事の都合で、遠くへ引っ越すことになるという。
「後任どうする?」とわたし、
「けれど、ベースができてメインボーカルがとれる現在フリーの即戦力、となると、私の知ってる限りでは思い浮かばない」とマイ。
「私たち、どうなっちゃうの?」とヨッシー。
「とりあえず7月の学内ライブまで1ヶ月、取りかかってる新曲を完成させよう」とマイ。
学内ライブは毎年7月の中旬に、ルミナス中・高合同で行われる。ほんの数ヶ月前までは、これがミクのラストステージになるとは思ってもいなかった。
8月に入るとミクは引っ越してしまった。しばらくは、録音したミクのパートの音源を流しながらリハーサルするしかなかった。
夏休み終わりの1週間、夏期講習の後半がある。その初日の前の日、ミクから後任候補の情報がLINEで入った。
わたしたちは、夏期講習後半の初日が終わったあと、特進コースのその人、森宮美香のところに押しかけて、放課後のリハーサルを見てもらった。躊躇する彼女に、マイが半ば無理やり音源と譜面を渡して、一度合わせてみよう、と勧誘した。
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三人で強引にミカを勧誘してから、二週間ほど経った。
二学期が始まって最初の水曜日、放課後の音楽室でのリハーサルで、初めてミカのベースとボーカルで4人で合わせた。
曲は、春から取り組んできた、川本真琴さんの「1/2」。
旧メンバーが3ヶ月かけてやっとそこそこ演奏できるようになった難曲。けれど、中学のとき吹部でベースを少しだけやった経験しかなくて、ボーカルはまったく初めてのミカは、2週間に満たない練習で、ほぼ問題なくついてこられるところまでに仕上げてきた。
その出来のすごさに、マイは思わず大笑いして「合格。あとはあなたの気持ち次第」とミカに言った。
「ね、一緒にやろうよ」とわたしは言い、「存亡は君の双肩に」とタエコが言った。
ミカは「合奏してみて、実はとても気持ち良かった。ぜひ一緒にやりたい」と言った。
こうして、ミクッツ2代目のベース兼メインボーカルが決まった。
このへんのいきさつを、わたしはコンビニに行くたびにタエコのお兄さまに報告していた。
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ミクッツ存亡の危機のいきさつについては、コンビニでヨッシーから少しずつ、そして家ではタエコから詳しく聞いていた。
「ミカは、本当にミクッツの救世主なんです」と、つぶらな瞳のヨッシーが、カウンター越しに言う。
天使が「救世主」と口にすると、えも言われぬ説得力がある。