1.天使、現れる
大学生になってすぐに始めたコンビニのバイトの、2週目の火曜日だった。
天使が現れた。
身長は妹のタエコより少し低いくらい。186cmのオレと身長差は30cmというところか。オレを見上げる彼女のそのつぶらな黒い瞳に、見下ろす形になるオレのほうがドギマギしてしまった。
ナポリタンスパゲティーをレジカウンターに置いたボブカットのその子は、私立ルミナス女子高校の制服姿。
「あ、あたためますか?」
「お願いします」
バーコードをスキャナで読ませ、振り向いて業務用の1500Wのレンジの扉を開け、中にナポリタンを入れて扉を閉め、ボタンを押す。レンジのファンの音が鳴り始める。
「399円です」
長財布を開いて、小銭ポケットから100円玉を4枚出して丁寧にトレーに並べる。
「400円、お預かりします」
レジを操作してお釣りの1円を取り出す。
「1円、お、お返しになります」と言いながら、彼女の右手に触れるか触れないくらいで、落ちないように注意して1円玉を渡す。
「レシートは...いかがいたしますか?」
「いただきます」
レシートをとって彼女の右手に置く。
彼女の背中の肩甲骨のあたりに、羽根が生えていないか確かめた。さすがに生えてなかった。
「チーン」とレンジの音がする。熱々のナポリタンを取り出して、茶色のレジ袋に入れる。
「お待たせしました」と言いながら彼女に渡そうとする。
「あのー」と彼女。
「フォークいただけませんか?」
「あ、失礼しました」
うろたえ気味のオレは、フォークと一緒に割りばしまで入れてしまった。
「割りばしは、結構です」
そういうと彼女はニッコリと笑った。
春まだ浅く上着が恋しい夜、チャイムが鳴って開いた自動扉を通って、店外へ出る彼女の背中に、大きな声で挨拶した。
「あ、ありがとうございました」
「どうしたの、ウチダくん。ちょっと可愛い女の子が来たくらいでヘロヘロになってたら、つとまらないよ」
オフィスから見ていた店長に言われた。
可愛い子ならだれでも、というほどオレもウブじゃない。
あの子は特別。
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「なあ、タエコ。ルミ女のお嬢様が夜9時半にひとりでコンビニに来るなんて、どう思う?」とアニキ。
「塾帰り? それかバイト帰りじゃね? バンドのメンバーにも放課後バイトやってる子いる」とわたし。
「でも、ナポリタンスパゲティーをひとつ買って、あたためて持って帰ったんだぜ。家で一人で晩飯かい?」
「両親仕事で遅いとか」
国立天歌大学に入ったばかりのアニキ、内田恵一と2歳違いのわたしは高校2年生。私立ルミナス女子高校、通称「ルミ女」の国立コースに高校から通い、軽音部の「ミクッツ」というバンドでドラムスをやっている、
10歳以上歳が離れた上の兄とは滅多に話をしないけれど、歳の近いアニキとはよく話をする。市立南中時代、クラスや吹部で孤立していじめに遭っていたわたしの数少ない救いの一つが、アニキと話をすることだったのは間違いない。そのことはどれだけ感謝してもし切れない。
けれど、その「天使」のことを妹のわたしに話すあたり、大学生にもなった男子としてどうかと思う。このシスコン気味のアニキを、何とかしてあげるのが「恩返し」ということなのかな。
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平日週2回、そして日曜日はほぼ毎週、わたしは、天歌駅前商店街にあるバーガーショップ「JUJU」でアルバイトをしている。月、水、金そして土曜は、たいていバンド「ミクッツ」のリハーサルがあるから、シフトに入るのは火曜と木曜の夕方6時から9時、そして日曜の開店から夕方まで。
父親が2年前にリストラに遭い、苦しい家計の中からルミ女の学費を出してもらっている。だからわたしは、周囲にほとんどバイトをする友達のいない中で、アルバイトをしてる。
「JUJU」は「ジュージュー」と読む。店名の由来はパティの焼ける音、と同時に「JUICY & JUMBO」の略だという。その名の通り、看板メニューのクラシックバーガーは特大サイズ。女の子でクラシックバーガーセットを完食できる子がいるとすれば、わたしの周囲ではバンドの仲間のタエコあたりかな?
バンドのリハーサルの後は、ほぼ毎回JUJUに来て、自慢のポテトとドリンクで長話する。だからわたしは、一週間ほぼ毎日JUJUに来ていることになる。うち4日はお客さんとして、3日は従業員として。
「いや~、吉野さんには、ほんといろんな形でお世話になってるねえ」とオーナーの半澤さんにいつも言われる。
みんなから「店長」と慕われている半澤さんは、私やバンドのメンバーにいろいろと気遣ってくださる。
父は時給のいい夜間のバイトに入っている。母の勤め先の飲食店は夜11時頃までが書き入れ時。わたしが夜9時にバイトをあがって、バスで天歌市西部の住宅街の家に帰ると、誰もいない。だからバス停から自宅への途中にあるコンビニで、晩御飯を買ってひとりで食べる。バンドのリハーサルの後はたいていJUJUでポテトを食べるので、帰宅してからはなにも食べないことが多い。
食後は、少し休んでから勉強にとりかかる。
母親は仕事を終えて帰ってくると、ひとことわたしに声をかけて寝てしまう。シャワーを浴びてわたしが寝るのは、たいてい午前1時か2時。
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国立大生でバイトに励んでいるというと、苦学生と思うかもしれない。
実はそうではない。
オレの家、内田家は、天歌市で有数の企業グループである「栄優食品流通」グループのオーナー。自分で言うのもなんだけど、市内でも屈指の資産家だ。
「栄優食品」の創業者である祖父の恵之介は、当年とって82歳。グループの名誉会長で事業の一線からは退いている。息子であるオレの父の恵治と母の愛優が二人三脚でグループの事業を運営している。そして30歳になった兄の恵務が両親の下で経営幹部たるべく修行をしている。
家事を仕切っているのは祖母の知子。2年前に兄と結婚して専業主婦になった真弓美姉さんと二人で切り盛りしている。
会社経営からは身を退いているけれど、家庭内のことについては、祖父の恵之介が絶大な権限を持っている。
孫の教育方針然り。
兄の恵務は県立天歌高校を卒業すると、東京の私立トップ校のSH大学へ進学した。大学の4年間、学費、教科書代、部屋代、水道光熱費は出してもらい、食事は食料の現物支給があったが、それ以外はすべて「自分で稼ぐように」とのことで、兄は、塾講師、警備員、配達員、コンビニスタッフなどいろいろなバイトを経験した。「大学生にもなったものに、小遣いはやれん」のだそうだ。
そしてオレ。自宅から通う天大こと天歌大学の学費、教科書代は出してもらい、学校で必要となるノートPCは買ってもらったけれど、車は、家業の手伝いができるように、と有無をいわさずバンをあてがわれた。小遣いが出ないのは兄と変わりない。学校のカフェテリアの昼食代も出してもらえない。
そこでバイトに励むことになるのだが、天歌市近辺では「天大現役合格生プレミアム」で塾講師の時給がいいのだけれど、「ラクして稼ぐのは週一回まで」との祖父のお達しがあり、それだけではとても足りない。
結局、平日夜間週3回、だいたい火、木、金曜にコンビニのバイトに入っている。夜8時から11時の3時間シフト。自宅は天歌駅から南へ歩いて10分ほどだが、近所だと知り合いと顔を合わすのがいやなので、家から離れた天歌市西部の住宅街の店で働いている。
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わたしは、周囲に合わせるのが極端に苦手な性格。
市立南中に入って、ものすごい息苦しさを感じた。だからクラスでも、パーカッションをやりたくて入った吹部でも、周囲からは距離を置くようにしていた。
話し方もぶっきらぼう。そのうえ家が資産家だという話が伝わった。
格好の標的だったと思う。LINE外しに始まり、こちらを向いて何かしゃべっているな、と思って視線を向けると、全員一斉に視線をそらす。その繰り返し。持ち物もよく見当たらなくなった。じいさんが買ってくれた高級ボールペンがなくなって、必死に探したらトイレのごみ箱に捨てられていたこともあった。
わたしの感じた息苦しさのことを「同調圧力」というのだと、後になって知った。
学校でそんなことになっているなんて、家族には話せなかった。唯一、アニキを除いて。アニキはときどき涙を流しながら話すわたしのことを「うん、うん」と言って聞いてくれた。ただ聞いてくれるだけのことが、どれだけ救いになったか。
階段の踊り場から、転がり落ちて右足首を捻挫したことがあった。定かではないけれど、背中を誰かに押されたような気がした。他の家族ではなく、アニキに連絡した。アニキは、部活を休んで保健室まで迎えに来て、おんぶして連れて帰ってくれた。
じいさんにねだって、ドラムセットを買ってもらった。家ではドラムスの練習と、もともとゲーム好きだったので、ゲームにめりこむようになった。勉強はほとんどしなかった。それでも成績はいつもトップクラス。
中学3年になった。父親、恵務お兄さまやアニキの後輩となるべく、県立天歌高校、通称「天高」を受けるか、それとも母親や真弓美お姉さんの後輩となるべく、ルミナス女子高を受けるか、という成績。
「これ以上『同調圧力』に苦しめられるのはいやだ」とアニキに相談した。アニキによれば、進学校とはいえ公立の天高は、そういう面がないとは言えない。中学の同級生から聞いたところでは、ルミ女も一般コースではいじめの類があるけれど、国立コースや特進コースではあまり聞いたことがないとのこと。
わたしは、高校受験の最初にルミ女の国立・特進コース選抜試験を受けた。結果は国立コースに合格。そのままルミ女に入学した。
入ってみると、アニキの話のとおり。「ぶっきらぼうな同級生」を国立コースのクラスメイトはそのまま受け入れてくれた。
高校でもドラムスがやりたくて、最初に覗いた軽音部で、ギターの坂上麻衣に声をかけられ、ベース兼ボーカルの鷹司美紅、キーボードの吉野未来と4人組のバンド「ミクッツ」として活動を始めることになった。
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わたしが高校2年になって、いつも行くコンビニのスタッフに新しい人が加わった。
大学生のアルバイトだろうか、背が高くてがっしりとした男性。バイト帰りの火曜、木曜に行くと、いつもこの人がパスタやお弁当をあたためてくれる。
月曜日に文房具を買いに行ったときは、この人はいなかった。金曜日に小腹が空いたのでケーキを買ったときは、この人がいた。水曜日にも見かけなかったので、平日は火曜、木曜、金曜のシフトなのかな。
レジでの仕草がいつもぎこちない感じ。最初の頃は「慣れないからかな」と思っていたけれど、しばらくしてもその感じが完全になくなることはなかった。
決して悪い印象じゃない。誠実さが伝わってくる。
そして、とても優しい目をした人だ。
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火曜、木曜にしか現れない天使が、4月下旬の金曜日に現れた。
不意のご来店に、いつも以上にどぎまぎした。
生暖かい風の吹く雨降りの日だった。ふだんは背中にバックパック姿なのだけれど、その日はバックパックを前にかけ、背中に、なにか四角くて長いものをいれた黒のソフトケースを背負っていた。
今日はパスタでもお弁当でもなく、ケーキひとつだった。
「あたためま...せんよね?」とオレ。
「ええ、そのままで」
彼女は、ニコニコしながらそう返答した。
ソフトケースで頭部が半ば隠れた彼女の後姿に「ありがとうございました」と声をかけた。
自動ドアを通って彼女が外に出るのを見ながら「なんてバカなこと言ったんだろう」と、恥ずかしさが込み上げてきた。
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「金曜なのに現れた」とアニキが言った。
「天使?」ゲームのモニターを見ながらわたし。
「ああ。黒いケースに入れた、なにか長方形のものを背負っていた」
ひょっとして、と思ったわたしはアニキに聞いた。
「その子の身長はどれくらい?」
「お前より少し小さいくらい」
「いつも火曜と木曜に、パスタやお弁当買ってくの、何時ころ?」
「9時半ころ」
「コンビニあるのどこだっけ」
「D町。天歌駅からずっと西に行ったあたり」
どうやらそうらしい。ゲームを中断してアニキに向いて言う。
「アニキ、天使にコンビニ以外で会いたくね?」
「ええっ?」
「5月14日の土曜日、ルミ女の文化祭に来て」