番外編3 ゆうきの一大決心
スマートフォンのアラームの音で少し浅めだった眠りから現実世界へ引き戻させる。ふと横に目を向けると自分のものではない枕が一つ残っていて、そこには誰もいなかった。少し億劫ながらも、スマートフォンを手にとってアラームをオフにする。
"2021年10月29日(金)6:30"
そんな表示がされたディスプレイを見つめ、今年もこの日が来たのだと少し感慨深い気持ちになる。わたし…いや、オレ自身は嫌いではなかったこの世界へ戻ってきたのだと。
洗面所で顔を洗って軽く口をゆすぎリビングに行くと、エプロンをつけてテキパキと動いている彩が目に入る。
「あ、悠樹おはよ」
そんな彩は特にオレに目を向けることなく朝の挨拶をしてくる。
「…おはよ」
"いつものこと"だから、そんなことは気にもせずオレからも挨拶を返しつつ、コーヒーメーカーを操作する。彩が少し早めに起きて弁当作りと朝食を作ってくれるのは"いつものこと"で、オレがコーヒーを煎れてテーブル周りを準備するのも"いつものこと"だ。毎年同じだからその辺はよくわかっている。
しかし、そんな"いつも通り"の光景の中、気になるものを見つけた。
"絶対合格できる数学Ⅲ"
"難関国立大によく出る物理"
"三橋大学医学部過去問題集"
約1年前までは必死に睨めっこしていたものと同じ類の本が数冊積まれていた。
「昨日も遅くまで勉強してたの?」
「あ?あぁ……2時くらいかな」
「はぁ…ほどほどにしときなさいよ」
彩からの突然の質問に本来自分のものではない記憶を漁り、辛うじて会話を成立させる。
年に一度、誕生日の翌日だけ発生する入れ替わりが起こると、"運命の管理人"によるお節介なのか、オレとゆうきの記憶が統合される。いや、オレにとってはゆうきの持っている独自の記憶が補填されるというイメージの方が近いか。多分、ゆうきも同じだと思う。
実際のところ丸々1年分の記憶が抜けていてはたった一日とはいえ、まともな生活が送れるわけがなく、その日一日周囲からおかしくなったと思われかねない。そういった点でこの配慮は非常にありがたいのだが、他人の記憶は実感がない。どういったものを見聞き体験してどう感じたかまですべてわかるが、自分のものである感覚がないので、なんとも奇妙な感覚だ。
少しするとすぐに朝食が出来上がり、彩と揃って食べ始める。
「唯は?」
「ぐっすり。ホントあの子は手がかからないわ」
ゆうきの記憶によると、昨年の9月に生まれた娘の唯は夜鳴きもせず、体調を崩すこともなく順調に育っていた。その分彩の手もかからず、少し物足りないくらいだと彩も苦笑いしていた事があるくらいだ。
「誰に似たんだろうね」
「どう考えてもあんたでしょ」
オレの問いかけに、彩は笑いながら即答する。これもゆうきの記憶からだが、彩は生まれてから1年ちょっとは夜鳴きが多くてずいぶんと苦労したという話を彩の母親から聞いたようだ。逆にオレは大人しくほとんど手がかからなくて、別の意味で心配したくらいだという話もオレの母親から聞いたようだ。実はオレもこれは初耳だったりする。
「ふええ……ふええええん!!」
彩とのそんな話を聞いていたのかというタイミングで寝室から子どもの泣き声が聞こえてくる。
「ふふ、噂をすれば」
「だね」
彩はすぐに寝室に行き、唯を抱いて戻ってくると慣れた手つきで食事を与え始める。ちょうど朝食をとり始める頃にぐずり始めるのも"いつも通り"で、今回も空腹だったようだ。彩は唯がいやいやするまで食べさせると、また寝かし付ける。その頃にはオレの食事はほぼ終わっていて、時計を見るとそれなりにいい時間になっていた。
「ごめん彩、あとお願いしていい?」
「あ、もうこんな時間か。いいよ、まかせて」
オレの言葉に彩も時計を見ると、状況を理解して後片付けを引き受けてくれた。基本的には片付けくらいはオレがやる事が多いようだが、頼めば快く引き受けてくれる。当然オレが朝食作りを変わる事も珍しくない。現代型の火事分業をお互い損得感情なしでやれているのは、今も良い夫婦関係を続けてられる要因の一つなのだろう。
身の回りの支度を整えて、家を出る前に改めて彩に声をかける。
「悪い、先出るね」
「あ、待って!」
この日は珍しく、彩から声が掛かった。まだ電車の時間には余裕はあってすぐに出なければいけないほどではなく、大人しくリビングの入り口で待つ。
「今日はお付き合いの予定あるの?」
「ん?ないよ」
お付き合いとは同僚だったり、上司だったり、後輩だったり色々なパターンがあるが、大抵の場合は予め予定など入っていない。ほぼすべてがその場のノリで決めるからだ。
「大事な話がしたいの。今日はまっすぐ帰ってきて」
「大事な話」などと言われると少し構えてしまうが、了承の意を返して家を出た。
東京郊外にある2LDKの賃貸マンション。それがオレ、というよりゆうき一家の暮らす家だ。職場までは電車で1時間前後といったところで、家賃が6桁オーバーという事を考えるとかなりいい所に住んでいる。共働きで、彩も弁護士として男顔負けどころかそれよりはるかに稼ぎがある事を考慮すれば、同世代の家庭と比べるとかなり裕福な方なのだろう。そろそろ持ち家を購入することも考えているようだ。
1時間と少し電車に揺られて会社に着く。
オレの仕事は営業補佐の企画職だ。基本的に直接営業活動をすることはないが、顧客からの要望や営業の意見を取り入れて様々な企画提案することが主な業務内容だ。場合によっては当然営業と一緒に顧客訪問する事もあれば、社内で関係部署と営業の代わりに連携をとる事も少なくない。
この日は打ち合わせや外出の予定もなく、黙々と書類作成に当てられる日のようで、ゆうきの記憶を頼りに淡々と書類作成を進めていく。何の邪魔もなく進められるという事はさすがにありえず、頻繁に横槍が入って中断させられつつも、ゆうきが予定していた分は夕方には完成させられた。
(あいつ、オレがやること前提で面倒なの残しといたな)
そんな愚痴めいたことを思いながらも、この日は定時過ぎには上がらせてもらった。幸か不幸か、この日は"お誘い"もなく、出掛けに彩に言われた通りまっすぐ帰ることに障害はなかった。
彩から帰りが少し遅れそうと言う連絡が入ったため、唯を保育園に迎えにいって帰宅すると彩はまだ帰っていなかった。
あまり遅くなりたくなかった事もあって、夕食の準備を進めて作り終わろうかという頃になって彩が帰ってきた。
「年に一回、悠樹の誕生日の次の日だけは悠樹の料理美味しいのよね」
彩はそんな事を言うが、あれから4年だ。もう彩も気付いているのかもしれない。「大事な話」というのももしかしたらその事なのだろうか。
「もう仕事辞めて勉強に専念したら?」
夕食も終えて、唯を寝かし付け落ち着いたところで彩が切り出した。
ゆうきの記憶があるし、朝見つけた本の小山で状況はわかっていた。ゆうきは30代にして医学部受験を考えているのだ。普通に考えれば無理とは言わないまでも、かなり茨の道である事は言うまでもない。しかし、オレたちには記憶の共有というチート機能がついている。オレが必死で勉強した知識や記憶はゆうきにも引き継がれているはずで、多少のブランクがあるが少し復習すればそれなりにモノになるはずだ。
「いや、大丈夫だよ。それにダメだった場合、惨めだし」
彩への申し訳無さが半分、少しは苦労しろというゆうきへの反発が半分。言い訳は適当だ。オレなら来年の受験でどこかしらの国公立大に合格する自信がある。同じ知識と記憶を持つゆうきにしてもできないはずはない。理系的な閃きは継続的なトレーニングがものをいうため、そこは頭を鍛え直す必要はあるものの、自分の事だしそれくらいは苦労しろという話だ。
「あたし文系だったから数学とか物理とか付き合えないのよ?」
「うん。まぁ、ビックリさせるから見ててよ」
「あんたも文系だったのにその自信はどこから来るやら…」
彩はオレが苦笑いする様子を胡乱げな目で見るとため息をついた。
「それならそれでもいいわ。でも医大入ったらちゃんと養ってあげるからね!」
彩のその言葉は男からすれば所謂ヒモになるようで情けなくなるが、ゆうきはそれでも医者になりたかったのだろう。オレだったら多分ムリだが、生まれが女だったゆうきにはそこまで堪えていないのかもしれない。
「はは、少し情けないけど、お願いすることになるかな」
「うん!まかせて!」
満面の笑みの彩は、なぜか嬉しそうだった。
その晩は甘い夜になった。あっちの世界に行ったばかりの頃はあれほど男女差に違和感を覚えたのに今ではすぐに順応できる。戻っても後遺症はない。目いっぱい彩と愛し合い、お互いが疲れ果てたところで眠りに落ちていく。
(また来年ね)
そう心の中で言いながら彩の髪を撫でていると、少しづつ意識が遠のいていった。
携帯電話のアラーム音が室内に響く中、少しづつ意識が浮上してくる。まだ寝ていたいという意識が強いが、あまりダラダラ寝ているとその後の行動に支障が出る。意を決してベッドボードに置かれた折り畳み式の携帯電話を手に取ってアラームを消すと、メールや着信の確認のために携帯電話を開く。
"2010年10月30日(土)6:30"
そんな大きな表示があるものの、メールや着信は無いようだ。携帯電話を元の場所に戻すと、それまで携帯を握っていた左手を目の前にかざしてみる。指は細く、肌は色白で全体的に華奢で小さい。それでもここ数年で見慣れたオレの、いやわたしの手。
布団から抜け出し部屋のカーテンを開けると、薄っすらと日が差している。今日も良い天気のようだ。
特別な一日が終わって、また新しい一日が始まった。




