第五十四歩 【優しさの価値は】
これがこの物語の主人公なのです……
俺は谷の底へとどんどん吸い込まれていく。
暗い谷底をスマホのライトで照らすと靄が帯の様に広がっているのが見えた。
「あれが滞留している魔粒子って奴か? とりあえず――〝フロート〟」
コタロウもフロートを使えるようになっていたが、俺も密かに練習はしていた。
フロートは適正もそうだが、魔力の調節が難しくそう扱えるものではない。
数日にわたって結構、時間を費やしたがジャンプの滞空時間を遅くする程度が精一杯だった。
まぁ、それでも落下を防げるって意味ではかなり重宝しそうである。
適度の減速した辺りで俺は魔粒子の靄に突入する。
その瞬間にフロートの魔法が乱れ、くるくると回りながら谷底に墜落した。
「痛ってぇ! 魔粒子の中では魔法も使えなくなるのか……気を付けないとな」
魔粒子の靄は5m程度の厚みらしく、谷底に落ちれば命があっても脱出が困難という理由が分かった。
俺は身体に付いた砂を払いながら立ち上がり、周りを見渡す。
辺りは靄に包まれていて視界はゼロに等しい。
この状況では見つけるのは絶望的というものだ――俺以外はな。
「待ってろよ。絶対見つけてやる!」
俺は〝繋がる言葉〟を発動させると耳を澄ます。
俺の力なら本来聞こえない声でも、考えている思考でも聴きとることが出来る。
能力の効果範囲は俺の声が届く距離――この谷底であれば反響してかなり遠くまで届くはずだ。
「ニーズ……俺で悪いけど声を聴かせてくれ」
俺は祈る様に目を閉じると全神経を集中する。
現時点で理解したこのスキルの特性それは〝声に込められた意思を理解する事〟。
俺が声に込められた意思を聞こうとすればするほどこのスキルの効果は高まる。
思えば、初めてミディにあったときの声もミディが生きるために必死に届けた声だったから俺は理解できたのだろう。
なら、ニーズが発している声だってきっと――
俺が集中してスキルを高めていくと俺の耳を覆っていた風の音が徐々に消えていく。
「ニーズ、お前の声を聞かせてくれ――」
辺りが静寂に包まれ、自分の心臓の鼓動さえ俺の耳には届かなくなったその時だった――
『誰か!』
耳に響く声。
俺はその声に導かれ走り出す。
※
光が届かぬ谷底。
魔粒子が常に滞留し、魔力を糧に生きている者の自由を奪うその場所でニーズは自分の運命を案じていた。
「うぅう……痛いよ。身体も動かないし、翼もダメだ」
皆の前では強がっているニーズだが、人間の齢にするとまだ12歳程度の子供。
命の危機を前にいつもの不遜な態度が嘘の様に泣きじゃくる。
その泣き声は谷に響き渡るが、吹き抜ける風の音に掻き消され、上までは届かなかった。
グルルルル!
泣き声に混じる呻り声にニーズは重たい首を持ち上げる。
魔粒子の靄で煙る先に見えたのは、ホムンクルスの残骸を貪る龍とは似て非なる者。
魔物:レッサードラゴンである。
魔物である奴らは何故か高濃度の魔粒子の中でも動きが鈍らない。
普段ならば取るに足らない存在だが身動きが取れない今のニーズにとっては恐怖の対象でしかなかった。
ホムンクルスの残骸から魔力を喰らい尽くしたレッサードラゴンがニーズへと目を向ける。
この谷底に捕食対象が落ちてくることなど稀であり、生物の行動パターンをトレースして生まれる魔物にとってもこれはまたとない機会なのだ。
しかも相手が手負いともなれば血の匂いに刻まれた本能が疼くというもの。
レッサードラゴンはヨダレを垂らしながらニーズにゆっくりと近づく。
「い、嫌だ! 来るな! だ、誰か、助けてぇ!」
ニーズはまさに迫る死を目前にして大きく取り乱す。
その叫びは虚しく谷の風へと消えていくかに思えた――
ビクンッ!
レッサードラゴンが何かに反応し、足を止める。
しばらく靄の奥を見つめた魔物たちは耐えきれなくなった様に踵を返し去っていく。
思考をしないレッサードラゴンがこのような反応を見せるという事は明らかに上位の存在が現れた時以外にない。
ニーズは恐る恐る靄の方へと振り返った。
「一体、次は何が来るっていうんだよぉ」
恐怖でくしゃくしゃになった顔で靄を見つめるニーズの目に黒い人影が映る。
「ニーズ! 大丈夫か?」
死を覚悟していたニーズに掛けられたのは優しい声。
力が無いと決めつけていたルイという異界人だった。
「ひどい怪我じゃないか! 今、回復してやるからな」
ルイは急いでニーズに駆け寄るとニーズの身体へ回復薬を掛ける。
回復薬の魔力は靄で拡散してしまい本来の効果を得られなかったが、ニーズは苦痛が和らぐのを感じていた。
しかし、思考がクリアになっていくのと同時に恐怖と疑念がニーズの心に渦巻く。
今まで散々、目の敵にして無礼な態度を取り続けていた自分を助けるために危険な谷底まで来た異界人。
ニーズはその真意が理解できなかったのだ。
「この靄の中では回復薬も使えないのか……とりあえずこの谷を脱出しなくちゃいけないな」
ルイはそう言うと、持っていた蔦の一部を使ってニーズを背中に背負う。
「もう少しだけ辛抱しろよ! 谷から出たらすぐに回復させたやるからな!」
屈託もなくそう告げるルイの背中にニーズはしがみついた。
「な、なんで? 何でここまで?」
やっと口が利けるようになったニーズは疑問をルイにぶつけた。
するとルイはニーズの顔を見た後でその疑問に答えた。
「子供を助けるのに理由なんかないさ。強いて言えば……自分が助けたいからかなぁ?」
「でも、俺。酷い事ばっかり……」
今までの態度が嘘の様に気弱なニーズを見て、ルイはハハハと笑う。
「別に気にしてないよ。俺に力が無いのは本当の事だしさ。でも、そんな俺でも君を助けに来れた……俺は今、それが嬉しくてたまらないんだ」
誇らしげなルイの横顔を見て、ニーズの疑念が消えていく。
ルイが蔦を使って谷の岩肌を登り始めた頃にはニーズの目から大粒の涙が零れ落ちていた。
「うぅう……」
自分の背中にしがみ付いて泣き出すニーズ。
ルイは息を切らして崖を登りながら彼の顔を覗き込んだ。
「弱い俺からこんなこと言われたくは無いと思うけどさ……よく頑張ったな。もう大丈夫だ!」
ルイはそう言うと蔦を握る手にぎゅっと力を込め、歯を食いしばる。
魔粒子の靄の中からルイ達が出る頃にはニーズは泣き疲れて眠ってしまっていた。