蒼龍院家の嫁
居室は移された。 蒼龍院家の妻がだけが使える豪奢な部屋だ。 野茨と皐月に挨拶する間も与えられなかった。 その日は皆の混乱が酷く、 『初陽の儀』 をもう一度する事になったと聞く。
せめて私が緋袴であったのならまだ良かったのだと思う。 きっと私は沢山の人に憎まれた事だろう。
東の宮と呼ばれる私の部屋は、 生活の全てがそこで賄えるようになっている。 それよりも最たるものは蒼龍院家に繋がる門があると言う事だ。 私が為さねばならない事は二つ。 蒼龍院家の子を産む事と、 斬妖刀がより強く力を出せるように専用の石を使って守護宝珠をつくる事―― 正直逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
その気持ちが伝わっているのかどうかは分からないけれど、 東の宮の前には逃亡を防ぐかのように人が配置されていた。 あれからから一週間、 私は禊を終えてこの部屋へと戻って来ていた。
肉食を断ち、 朝夕祝詞を唱え、 独房のような石造りの室の中で滝に打たれ身を清める。 それを全部こなして、 私は今夜嫁ぐのだ。
禊が終わった後、 嫁ぐまでは他者との会話は忌避される。 今私は鏡の前で、 顔に薄い白い布を垂らした紫袴の人たちに嫁入りの衣装を着せられ、 紅を刷かれている最中だ。 無言のまま黙々と作業をされるのは正直辛い。 白布があるせいで誰が誰だかも分からず、 不安だけが押し寄せる。
何を間違ったの? どうしてこうなってしまったの? そんな考えだけがグルグルと頭を支配していた。
助けて欲しい―― そう思っても、 助けてくれる者もなく…… ここに売られたからには結婚する事なぞ無いだろうとそう思っていたのに……。
私の値が『幾ら』 であったのかは知らない。 けれどもその『幾ら』 かが、 今私を縛り付けているのだ。 もし、 私が浅葱や緋の袴で蓄えがあったのなら師匠方に私の身代を聞いて何としても払っただろう。 そうすれば、 将来例えここに帰って来る事になったとしても、 この結婚を拒否して束の間の自由を謳歌する事できるのだから。
けれど、 それはもう叶わない。 この嫁入りに際して、 蒼龍院家は莫大な―― 少なくとも貧乏人が一生かかっても払いきることが出来ないだけの結納金と言う名の落籍費用を晶技館へと治めたはずだからだ。 つまりは私は逃げられないのである。
鬱々とそんな事を考えていたら、 支度が終わってしまったらしい。 鏡の中には白粉を塗られ、 紅を刷いた見知らぬ女がいて余計に気持ちは落ち込んだ。 結われた髪に豪奢な着物―― 飾られた髪飾りは重いと感じる程で、 つの隠しから出た繊細な金色の簪がシャラシャラと音を立てて揺れていた。 重たいのは、 様々な石で作られた簪で代々の蒼龍院家の花嫁が着けてきたという物。 花や折鶴、 南天の実等も全て石で出来た豪奢なものだ。
裾を引きずる白無垢は、 良く見れば金糸で刺繍が施されており、 手触りは今まで触った事も無いような柔らかさ。 全て絹で出来ているのであろうことが想像できた。
―― これが夢なら良かったのに。
見知らぬ相手に嫁ぐ事―― それは良くある話であるけれど、 雲の上の人としか思えない四方院家の嫁になるなんて荷が重すぎる。 ましてや、 後継ぎを産まなければいけないのだし。
これが間違いならいいのに―― そう思いながら、 紫袴の人に手を引かれ、 鮮やかな蒼に塗られた鳥居に似た門に導かれた。 入るように促されて唾を飲む。 ここから先は一人だ。 この期に及んで私には何の覚悟もできてはいなかった。 けれど、 私に結納金を返せる訳も無く諦めの心地で私は門の中へと入って行った。
一瞬目の前が暗くなり、 現れたのは門と同じ蒼色に欄干が塗られた橋。 それが見通す事の出来ない暗闇の中淡い光を放ち私が行くべき先を示す。 その先に、 二つの灯りが見えた。 晶技館の家から蒼龍院の家の距離はもっとあったはずだ。 けれど、 この門の中の橋は不思議な力によって空間が捻じ曲げられているのだと言う。
―― やっぱり怖い。 私はまだ自分の腕が一人前だとも思えないし――。 話せば降りる事ができないかしら……。 緋炎袴のお姉さま達の中から選びなおして下さいって……。
考えれば、 それが一番良いように思えた。 少し冷静に考えれば『緋袴も浅葱袴の娘の中にもいなかったとおおせだ』 と言われた以上、 無理だと言う事が分かるはずであるのにこの時の私は余程冷静でいられなかったのだと思う。
のろのろと歩いて行けば、 灯りの正体は提灯で白木のツルリとした口の無い面をかぶった娘が、 礼をして私の手を取った。 おかっぱ頭の娘たちは私の胸の辺りまでしか背がない。 案内された蒼の門を抜けた時、 眩しさに目を瞬かせる。
「よく来たね、 『次のゆらら』 」
そう言って私に声をかけたのは、 見覚えのある男で―― そう言えば『また今度』 と言われたのだったなと呆けた頭で考えた。 まるで、 人形かとも思う顔は健在で…… でも、 この前よりかは親しみやすいような雰囲気に更に驚く。 姿は白の軍服だ。 軍服と言っても祭礼用のものだろう。
立ち姿はすらりとしていて姿勢も良く、 私の顔は男の胸の辺りに来る身長差だ。 そうして見れば、 自分とは不釣り合いとしか思えない見栄えの良さだった。
「―― 随分と驚くんだね。 てっきり君には察しがついていると思ったけれど。 ―― その口は閉じた方が良いのじゃないか? 阿呆に見えるぞ」
そう言われて、 慌てて口を閉じる。 何故、 思い当たらなかったのか――。 冷静じゃないからだ。
今も混乱していて、 とてもじゃないけれど落ち着ける気がしない。
「禊の後、 僕が声をかけた時点で会話が忌避された状況は終了している…… 別にもう話しても構わないよ? 」
「あ―― お願いします。 私では役不足です。 緋炎のお姉さまの中からどうかお選びなおし下さい」
私のその言葉に、 その場が氷ついた。 白木の面を付けた娘達がアワアワと挙動不審になった。
男は、 冷気を纏ってニコリと微笑む。
「その発言は―― 君が無知であると言う事で水に流そう。 本当に、 君は度し難いな…… 普通、 嬉々として嫁にくるだろうに―― あぁ、 緋龍院の所の嫁も変わり者だったな……―― 何度も言うのは好かない。 無知なお前にもう一度だけ教えてやる。 緋袴の娘達のなかに蒼龍院の家に相応しいものはいなかった。 この事実は変えようも無い。 あの時にも言ったはずだよ『僕のゆらら』 ―― 僕は悪意に敏感なんだ」
水に流すと言ったのに、 男からは静かな怒りが伝わって来る。 頤を掴まれて、 そう冷やかに微笑まれればまるで蛇に睨まれた蛙の心地を味わう事ができた。
「ふむ。 顔合わせは済んだ。 一花、 二葉…… これの化粧を落とせ。 見栄えは良いかもしれないが、 厚塗りの化粧は俺の好みではない」
「「心得ました若様。 お着物は―― 黒引き振袖になさいますか」」
鈴を転がすような声が二つ。 寸分たがわぬタイミングで娘達の口から放たれる。
「いや、 今日はいい。 一族に対してのお披露目の式は後日、 これが我が家の作法を終えてからするからその時に着せる。 蒼の小袖があったろう」
「「あぁ、 婚家の色に染まって頂くと―― 若様は随分とお嫁様の事が気に入られたのですね」」
男の言葉に、 クスクスと娘達が笑った。 分からない…… 出会ってから今までのどこに気に入られる要素があったろうか。 初回で喧嘩を売って、 不快な思いをさせて…… 今回だって冷静になれないまま怒らせるような事を言ったのだ。 どうしてそれで気に入られる事がある?
「煩いぞ。 余計な事はいい―― とにかく、 風呂に放りこめ」
「「ではお嫁様―― こちらにどうぞ」」
不機嫌そうにする男とは裏腹に、 娘達は楽しそうに笑うと、 私の手を引き湯殿へと導いた。
※※※
風呂上がり、 楽しそうに笑う娘達に小袖を着せられて、 私は嘆息した。 小袖とは言っても夜着に近い。 肌触りが良いものの通常の着物より薄い拵えに心もとない気分になる。
丁寧に、 丁寧に染められたのだろう。 その蒼い着物は下に行くほどより濃く、 上に行くほど白に近い色になっている。 裾の方にはふんだんに使われた銀糸と金糸の刺繍が色どりを加えていて、 落ち着いた紫の細長い帯には金糸の刺繍。 通常の帯とは違う柔らかい帯は胸下左側で花のような形を作られ、 あまった部分はそのまま下に流される。 帯を前に結ぶ事はまずないので不思議に思いながら見ていると、 二人にニコリと微笑まれた。
意味深な笑顔に落ち着かなくなって、 先程の風呂の中のやり取りを思い出す。
一人で入る事を許されなかった風呂は、 玻璃ガラスを使った鳥かごのような天井で…… 洗い場の磨かれた黒い石の張られた床は、 奇麗すぎてまるで鏡のよう。 湯船は洞窟風呂と呼ばれる珍しいもので、 洗い場の奥にぽっかりと口を開けた天然の洞窟の奥からは滾々と乳白色の温泉が湧きだしている。
『初めまして、 お嫁様。 私は一花と申します』
『初めまして、 お嫁様。 私は二葉と申します』
白木の面を外した二人の娘はそう言って微笑んだ。 どうやら双子だったらしい。 一花と言った娘は桜色の瞳で、 二葉と言った娘は若葉色の瞳をしていた。 それ以外は二人とも、 まったく見分けがつかない位にそっくりだ。
『あ、 初めまして一花さん、 二葉さん…… 私はゆすらと―― 』
そう挨拶した私の言葉を制して、 一花さんが言葉を続ける。
『いけませんわ、 お嫁様! 私達のことは一花、 二葉とお呼び下さい』
『いけませんわ、 お嫁様! お嫁様は『若様のゆらら様』 です。 まぁでも使用人達は正式にお披露目された後は若奥様とお呼びする事になると思いますけれど』
『あら、 二葉―― その名は諱、 若様とご家族以外呼んじゃいけないのよ? 』
『あら、 いやだ。 つい口にしてしまったわ。 お許し下さいお嫁様―― 若様に知られたら折檻されてしまうかも』
『いいえ、 首をお落としになるかもしれなくてよ? 』
立板に水とはこの事。 双子ならではの阿吽の呼吸でそう言われ私はただ目を白黒させた。
『えぇ? そんな物騒な―― 』
流石に打ち首なんてありえないだろうと苦笑してそう言えば、 やけに真剣な顔をした二人が首を振る。
『嫌ですわ。 冗談ではありませんのよお嫁様。 お貴族様の名前は特殊なのです。 例えば、 松乃木 照葉 元治 と言う方がいたとしますでしょ? 松乃木は『名字』、 照葉が『名乗り』 通称みたいな感じでしょうかね…… そして元治が『諱』と申しまして、 諱は秘された名―― 気軽に他人が呼んで良いものではないのです』
二葉がそう言って目を伏せた。
『若様が、 私達の前でその名を呼ばれたのは一応信頼していただいているからですわ。 後は、 この蒼龍院家のお嫁様は不思議と代々同じ諱の方なので、 使用人達も皆知ってはいるのです。 ですが知っているからと言って軽々しく呼ぶ事は蒼龍院家への侮辱と同じ。 うっかりでは許されない事なのです』
一花が哀しそうにそう話す。
『お手打ちにあっても文句の言えない事なのです。 申し訳ありませんお嫁様―― 』
二葉が深々と土下座をしたので、 私は慌てて抱き起した。 貴族の習慣にそんなものがあったなんて……。 私には馬鹿馬鹿しい習慣のようにしか思えなかったけれど、 そこはそれ。 郷に入っては郷に従えという言葉もある。 けれど、 私が知らなかったような事で二葉が断罪されるような事は嫌だった。
『そうなの―― 貴族って面倒なのね…… 若様には黙っていれば分からないわ。 さっきの事は無かった事にしましょうか』
取り合えず、 今回はこれで済ませてしまいたい。 嫁いでそうそう、 自分に関する事で打ち首になる娘が出るなんて縁起でもないし、 それを抱えて生きて行くには重すぎる。
『いけません。 お嫁様、 それでは規律がなりたちません』
『そうです、 お嫁様。 私は知っていたのですから、 重罪です』
そう、 言い募る二人に苦笑して私はさらに言葉を続けた。
『けれど、 私は知らなかったわ。 知らない仕来たりを教えて貰った事で相殺にしましょ。 そうでないと私の寝覚めが悪いもの。 だから、 次は無しって事で今回だけは、 ね? 』
私の言葉に、 一花と二葉が顔を見合わせた後、 蕩けるような笑みを浮かべる。
『お嫁様は―― 甘いですねぇ。 でも嫌いではありません。 二葉を許して下さり感謝いたします』
『お嫁様は―― 優しいですねぇ。 少し心配です。 ですが有難う存じます』
その感謝は本当のものだったけれど、 その笑みを見て二人が私を試したのだと理解した。
合格出来たのかは分からない。 けれどこの双子…… 一筋縄ではいかない性格なのかもしれない。
『ところでお嫁様? お嫁様まで若様とお呼びする必要はないのですよ? 』
『そうです、 お嫁様―― 諱を呼べとは言いませんから、 ぜひぜひお名前で呼んで差し上げて下さいな。 若様もきっと喜びます』
そう言われて私は固まってしまった。
『―― あのね…… 呆れないでね? 私、 若様の名前を知らないんだけれど』
その言葉に今度は双子が固まる。 半ば呆れたような顔をして、 一花と二葉が言いにくそうに口を開く。
『―― 驚きました―― お嫁様は蒼龍院家の若様に興味がおありでなかった? 』
『驚きました―― お嫁様は、 若様の事がお好みで無い? 』
多分、 彼女達の言う事が正しいのだろう。 蒼龍院家と言えばこの国で指折りの貴族。 そこの後継ぎと結婚したい娘は山といるはず。 しかも今の世は『ぷろまいど』 が普及してきていて好きな殿方のそれを大事に持っている娘もいると聞く。 まぁ高価なので上流階級の娘でなければそもそも持ってはいないだろうけれど。 『ぷろまいど』 を持てないにしても、 普通は人気のある殿方の名前くらいは知っているもの―― だと思う。
『…… 四方院のお家の何処にも自分に縁がある事だとは思ってなくて―― 正直に言うと若様はちょっとニガテ―― かも』
最初の印象が強すぎて、 少しだけ苦手意識があるんです。 正直にそう告げれば一花と二葉が顔を見合わせて首をかしげた。
『困りましたね―― 若様も若様ですね。 一度も自己紹介していないとか』
『困りました―― 若様―― 一応有名ですからね。 自分の名を知らない方が居るとは思わなかったのやも―― あぁ、 お名前は若様本人からお聞き下さい』
ついでに諱も教えて貰って下さい―― そう言われて嘆息する。 当人が私が名を知ってると思う位に有名なのか……。 技術を磨く事に熱心で、 そういう話題を流して聞いていた自分を初めて後悔した瞬間だった。
先程のやり取り―― そんな事を思い出して、 赤面した。 結婚相手の名前を知らないとか恥ずかしい。
「お嫁様、 まだお熱いですか」
「お風呂上がりですからね、 お嫁様」
一花と二葉がに代わる代わるそう言われて、 自分の顔がそんなに赤くなっているのかと正直余計に恥ずかしくなってしまった。
「もう少しで終わりますから辛抱して下さいね」
「もう少しで終わりますから我慢して下さいね」
よもや、 私が先程の会話を思い出して恥ずかしがっているとは思わないからだろう…… 二人は申し訳なさそうに私にそう言った。
「…… なんていうか不思議な小袖ね。 着せ方も独特だし」
少し、 居た堪れない気持ちになったので、 話しかける事で恥ずかしいという気持ちを紛らわす事にして、 私は二人に声をかける。
「お嫁様はそういう事に興味がおありで? 意味は色々ですわよ。 染めの色が違うのは婚家の色に染まりますと言う事を現わしていますし」
「刺繍に蝶々が入っているのは、 慶事が続きますように―― つまり早くお子様を授かりますようにと言う意味で―― あぁでも、 お披露目の式の時には蝶々は駄目なんですよ? 婚姻がそう何度も何度もあるのは良くない事ですからね」
きゃらきゃらと嬉しそうに二人が教えてくれた。 どうやら二人とも御多分にもれず、 女の子らしい着物や刺繍の話が好きらしい。 その様子が微笑ましくて、 私も恥ずかしいという気持ちを忘れる事ができたようだ。
「前で帯を結ぶのは、 解きやすくするためです」
さらり、 と一花が秘め事を教えるように囁いて―― 私は思わず固まった。 何故―― 解きやすく?
そう考えた所で、 今の自分が置かれた状況を遅ればせながら思い出す。
「そうですね。 初夜ですし―― あらどうしました? お嫁様、 お顔が真っ青―― 」
二葉がそう言って笑った後、 硬直した私を見上げて小首を傾げた。 初夜という直接的な言葉が出て来て、 よりいっそう血の気が引くのが分かる……。
「あらどうしましょう、 お嫁様―― 土気色になって来てますわよ…… お顔」
一花がそう言って同じように小首をかしげると、 物憂げに眉を顰めた。
「困りましたねぇ―― やっぱり」
「そうですねぇ―― やっぱり」
一花と二葉が顔を見合わせると、 何か思いついたような顔をする。 私としては今の自分の状況にいっぱいいっぱいで、 それを聞けるような状態ではない。 初夜―― それは何かマズイ。 どうしよう、 何とか避ける方法は……?
「「あれしかないですかねぇ」」
だから、 二人が何とも言えない顔で浮かべた笑みも、 同時に言って私を見上げたと言う事もまったく気付きはしなかったのだ。
旦那様はツンデレ予定です…… ツンって言うか割と笑顔で毒舌な人…… ですかね。
個人的には一花と二葉の掛けあいが好きです。 ゆららは旦那さまをはじめ、 この双子にも振り回されそうな予感……。
帝都妖異譚なのに『妖』 の『あ』 の字も当分出てこなさそうです。 派手な戦闘は無い予定ですが、 『妖』 はその内出て来る予定です。