晶の巫女
細工師の朝は、 禊から始まる。 外―― 一般の細工師達と違い私達は神職でもあるからだ。 晶の巫女と呼ばれるその名から分かるように晶技館の細工師は女しかなれない。
私は潜水用の丈の短い着物を着てから小さな滝のある池に入った。 冬なので水は冷たく凍えそうだ。
布地は少ないとは言え、 張り付いた着物が纏わりついて余計に寒さを感じさせた。
「うぅ。 冷ったぁ」
私達細工師は見習いの灰袴から始まり、 実際に石に触って修行出来る白袴、 一人前と認められお客を相手に細工をする事を認められる浅葱袴、 優秀な細工師だけが身に着ける事を許される緋袴、 優秀な細工の技能を持ち、 お抱えの細工師になるか―― 四家…… 蒼龍院、 白龍院、 緋龍院、 黒龍院の家の当主の妻になった者だけが身につける緋炎袴、 そして引退した細工師、 師匠達が身に着ける紫袴
色の名で呼ばれるその身分は実質的に紫の位が一番高い。 しかし、 細工師としての最高峰はやはり緋炎だろう。 誰もが憧れそこを目指すと言っても過言ではない。 ましてや、 お貴族さまと結婚出来れば人生薔薇色だと皆が言う。 私は分不相応だと思っているので、 大きな夢を膨らませて緋袴になれればいいなぁと思っているけれど。
そして自分が売られた時の身代を返した後、 いつか外の世界に出たいと思っている。 外に出てしまえば、 細工の技は意味が無くなってしまうけれど。 何故なら一般の細工師というのは男の職人しかいないからだ。 晶技館しか知らない私は、 一般常識も分からないから苦労すると思う。 現に、 外の世界と折り合わず紫袴として戻ってきた師匠もいたはずだ。 それでも、 かすかな郷愁位はあるのだ。 せめて両親の墓に参りたいという……。
―― 売られた年から早六年。 今の私の位は白だ。 遅い? とんでもない。 これでも早い方である。
灰色十年という言葉があるように、 見習い期間は大体十年。 それを六年で終えたのだ。
頑張ったとは言え、 細工師という仕事は私の性に合っていたらしい。 才もそこそこあったようで白袴を貰ったばかりだけれど、 浅葱の袴もすぐだろうと言われる位には師匠方の覚えも良い。
流石に灰の位のまま人生を終える娘はいないけれど、 実力が伴わず白の位のまま上位の細工師の助手で終わる事は少なくない。 そんな中、 そう言って貰える事は正直有難かった。 多少のやっかみはあるものの、 ここでの生活は概ね平和に過ごしている。
「ゆすら、 今から潜るの? 」
「はい。 雛菊姉さま」
結晶池のほとりで、 潜水用の着物から水を絞っている雛菊姉さまに会った。 今はまだ、 日も昇らぬ四の刻。 まだ誰も来てないだろうと思ったから驚いた。 雛菊姉さまはもうひと潜りしてきた所らしい。 腰に着けたカゴの中から石の結晶が覗いている。
雛菊姉さまは緋の位の細工師で、 緋炎袴に最も近いと言われてる人の一人だ。 そのくせ偉そうな所も無く気さくに私みたいな白袴にも話かけてくれる。
「今日は随分と早いのね」
「はい。 時刻によって採れる石の効果が変化するようなので今日はこの時間に」
石は、 月や陽、 季節や時刻によって性質が変わる。
今はそれを調べていて、 潜る時刻やその他の条件を確認しに来たのだ。 教本に載ってる事だけれど、 実際に確認した方が分かる事もあるから。 ついでに良い石があれば採取しようと思ってもいるのだけれど。
「研究熱心ねぇ。 私、 白の頃にはそんなコトやってみようとか思わなかったわよ」
「気になると、 落ち着かないんです」
私が苦笑してそういえば、 雛菊姉さまは艶やかに微笑んだ。 洗練されたその姿からは、 元貴族だという噂が真実なんだろうと伺えた。 雛菊姉さまなら、 本当にお貴族様の嫁になれるんじゃないかしら。 だってとても奇麗なんだもの。 黒髪に、 少し紫がかった青い目。 唇は紅を刷いたように赤く、 出るとこ出て引き締まる所は引き締まってるその体は正直羨ましい。
対して私は、 艶やかではあるものの強情な黒髪に、 目の色は、 日に当たらないと黒にしか見えない青鈍色。 唇は寒さで青褪めて比較するのもおこがましい。
私は貧相な自分の胸に手を当てて思わずため息をついた。
「やぁね。 どうしたの? 」
「いえ、 雛菊姉さまの胸が羨ましいなぁって」
そんな事を思わず呟いたら大笑いされた。
「まったく、 深刻な顔をして溜息なんかつくから何かと思ったら! そんなコト? だったら、 私はゆすらの引き締まったお尻が羨ましいわ」
「えぇ―― まさか」
クスクスと笑う雛菊姉さまに不満そうにそう言い返す。 「馬鹿ねぇ」 と言われても私なんかのお尻を羨ましいとか冗談にしか聞こえない。
「冗談なんかじゃないわよ? 他人の家の庭の方が良く見えるっていうでしょ? 羨ましいって思うトコロは人それぞれ違うのよ。 ふふ。 頑張って潜って来なさいな。 私は石を清めて対話して細工にかかるから」
じゃあね、 と笑いながら雛菊姉さまは歩いて行ってしまった。 一人残された私はもう一度溜息をつくと結晶池に向き直った。 池という癖に、 小さな湖位の大きさのあるこの場所は中心部分に小さなお社の建った小島があり、 晶技館の敷地のほぼ真ん中に存在する。 その形は円形で潜れば底がどこかも分からない位に深い。
この結晶池の壁面には結晶化した石が木のように生えているのだ。
種類も様々、 効用も様々。 広くはお守り、 装飾品になるものから、 妖を屠る事のできる斬妖刀につける特殊なものまで幅広く採取できる。
下の方に潜れば潜る程、 強い石で希少価値も高くなるのだけれど何処まで潜れるかは細工師の才が関係してくる。 才が無ければ浅いところまでしか潜れないのだ。 師匠はそれを石との親和性が高いか低いかの差だという。 努力によってある程度どうにかなる事もあるけれど、 基本的には産まれ持った資質がモノを言うらしいので両親には感謝している。 何故両親かって? その才は遺伝する事が多いからだ。
私は結晶池にかかった朱塗りの橋を渡ると、 中ほどにある小島の小さなお社に膝をついて祈りを捧げる。 そして立ち上がると小舟を繋ぎとめたモヤイ綱を外して船を漕いだ。
「さて、 潜りますか」
軽く運動した後、 腰から下げた籠を確かめて池に飛び込む。 ゴポゴポと音を立てて潜っていく。 さっきまで聞こえていた風の音や、 木の葉の音は聞こえない。耳に響く空気の音以外は無音だ。
ゴツゴツした壁面には淡く輝く石達。 石がの光が反射しあい結晶池の中は、 手が見える位には夜でも明るい。 私は一息つくと周囲を見回しながら先に進んだ。 やっぱり、 光の色も少し違う。 私は珊瑚のように細い結晶に近づいた。 恋愛のお守りとして人気の桜石は今の時刻だと効果は落ちるみたいだ。
対して、 隣に生えてる厄を身代わりしてくれる灰生石は効果が少し増している。
『面白いなぁ』
そう呟いてより深く潜る。 結晶池の中の水は普通の水じゃない。 ほんの少しだけトロミがあって口にすれば甘いその「神水」 は肺の奥まで入れれば呼吸ができるのだ。 だから、 水中で会話をする事だってできる。 最初は抵抗があってなかなか肺まで水を入れる事が出来なかった。 埒が明かないと師匠達に突き落とされて、 棒で小突かれ沈められた時は死んだと思ったし……。
神水の中で息ができるのなら、 どんなに深くでも潜れると思ってたしねぇ。 実際は違ったのだけど。
結晶池の中には階層があるんだ。 目に見える物では無いけれど、 階層を超える時は薄い膜を破るような感触があるのでそれと分かる。 階層は、 百を超えると言うけれどまだ最奥まで到達した人を私は知らない。 この階層がまた面白い。 私達細工師は「石に呼ばれる」 と良く話す。―― どういう事かと言うと、 石には各々の波長があり、 それに共鳴できる者―― その石と親和性の高い者のみがその階層に行けるのだ。 それ以上に潜ろうとすれば、 たちまち息苦しくなりそれ以上潜れない。 「石に呼ばれてない」 のだ。
『さてと…… 』
ゆるりと周りを見回してから、 私は下の方へと目線を向けた。
雛菊姉さまにはあぁ言ったけれど、 私の今日の本当の目的はさっき説明した事だけじゃない。 嘘はは言ってないけれど、 話してない事があるのだ。
見習いの頃、 ここへ初めて潜った時にその話をしたら友人には笑われたし、 位が上のお姉さま達には馬鹿にされた。 そこまで、 潜れもしないのに何をいってるの…… と。
遠く深い水底から―― 私を呼ぶ声がする。
『私の事を呼ぶくせに―― どうしてそこまで行かせてくれないの…… 』
私が今潜れる階層は、 五十六階層。 声を求めて潜るうち、 今の代の細工師の中でも一、二を争う程に深く潜れるようになった。 それでも、 未だあの声の元へは届かない。
先々代の時には、 百層まで潜れたツワモノがいたらしいので、 その人ならば声の主を見た事があったかもしれないと思う。
―― 『コヨ、 コヨ。 来よ、 来よ』
―― 『玉響、 ゆらゆら―― いくつもの―― 』
―― 『来よ、 来よ―― ゆらら、 ゆらゆらと』
来たれと呼ばれる不思議な声は、 私にしか聞こえず耳を澄まさないと分からない微かな声――。
もしそれが、 「ゆらら」 と言わなければ、 私は気のせいだと思い込もうとしたかもしれない。
ゆららは、 私が親からもらった本当の名。 桜桃はここに来た時に付けられた名前。
もしかしたら、 違うのかもしれない……。 私の名前なんかじゃないのかも。 けれど、 ここでその名が呼ばれた事が嬉しくて、 私は今日も潜るのだ。
―― 三層、 五層 ―― 二十層。
一気に潜って、 深度を深める。 潜るにつれ、 石は輝きを増し、 力強く大きくなって行く。
―― 三十層、 四十五層 ―― 五 十六 層――
問題は、 ここからだ。 五十七階層目の膜をそっと触る。 微かな抵抗感―― 溺れそうになるのは怖い。 息苦しいのも。 けれど、 それよりも知りたいと言う好奇心と新たな階層に挑む高揚感が私を包んだ。 会いたい。 知りたい。 私を呼ぶ声の主を。
『何故呼ぶの―― ゆららと―― 』
―― 教えて、 私を呼ぶのなら―― 『私を、 先に通して』
勢い良く、 身を躍らせて階層に分け入る。 抵抗が強い―― 苦しい―― けど、 まだ行ける。
同期の友人や、 他のお姉さま方―― お師匠様に見られたら、 きっと馬鹿だと言われるだろう。
石に呼ばれたのなら、 こんなに抵抗感を感じる事は無い。 ある日突然、 今まで越えられなかったのが嘘のようにするりと潜れるようになるからだ。
無理に潜ろうとすれば危険だというのに、 それをこんな時間にたった一人でやる自分は馬鹿だと思う。
けれど
日に日に焦燥感が増すのだ。 やるべき事をやっていないと言うような罪悪感。 誰かに無言で責められているかのような後ろめたい気持ち――。
『ぐ…… 』
苦しい苦しい苦しい。 誰かに助けて欲しい。 あぁでも、 今日は特に心が騒ぐ。
生存本能に逆らって、 私の身体は深く深く潜ろうとする。 呼吸が出来ない。 目の前が真っ白になって今自分が何処に居るかも分からない。
―― あぁ、 それでも……。
行かないと、 行かないと、 行かないと。
それだけが、 私の身体を動かした。 そして、 プツリと音がして―― 一つ階層を越えたのだ。
※※※
暫く気を失っていたらしい。 上を見上げれば、 まだ入り口は暗い。 それほど時間は経ってないようだ。 驚く事に、 やや苦しいものの呼吸は出来た。 けれど、 全身の倦怠感が酷い。
いっそここで眠るか引き返してしまいたかったけれど、 呼ぶ声はより大きく私の身体に響いた。 重い身体を無理やりに動かして、 次の階層に向かう。 こんな事を繰り返していたら、 次こそ私は死ぬかもしれない―― 馬鹿げたこの試みに苦笑する。
『え……? 』
次の階層は、 あっさりと越えられた。 まるでさっきまで苦しんでいたのが嘘のように。
次も、 その次も―― あっさりと層を潜り抜け、 気付けば七十層を越えていて。 まるで、 夢を見ているようだ。 今まで、 潜れなかった所へ急に潜れるようになった事はあった。 けれども、 その時ですら精々五階層まで…… こんなに何十という階層を飛ばして潜った事はない。
しかも、 潜るにつれて、 どんどん呼吸が楽になって行くのだ……。 この不可思議な現象に、 私は困惑したけれど…… それでも、 潜る事はやめなかった。
気付けば―― 百十二階層―― その先の階層は、 見えるのに硬くてとても越えられそうも無かった。
『次の、 ゆららはお前か―― 』
その―― 声に、 私は後ろを振り向く。 大きな岩の塊だ。 いや―― そう見えるほどに大きな結晶だった。 色とりどりのそれの一つ、 その石の中でそのひとは淡く微笑んで私を見ている。
『おや、 お前は私の声が聞こえるの―― 初めまして、 次のゆらら。 私は最初のゆらら』
『は―― え? 』
長く、 美しい―― ぬばたまの。 夜を想わせる黒髪に、 その結晶を想わせる藍色の瞳。
薄く透けたその人は、 するりと石から抜け出すと、 私の顔を見て大輪の薔薇が綻ぶように笑った。
『今度の子は、 また可愛らしい事―― 』
『―― え 』
まるで覗き込むようにそう言われて混乱する。 まるで以前から知っている人かのような気安さで傍まで来たその人は、 まるで幽霊のようにも思えたけれど恐怖を感じる事は無く私は夢を見ているのかと頬を抓った。 私のその様子を見て『最初のゆらら』 と名乗ったその人がクスクスと笑う。
『ふふふ。 驚いているね。 ここに来れられるのは、 ゆらら、 の名を持つ者だけなんだよ。 『あれ』 が夫を引き継いでから大分時間が経ってしまったからね。 正直、 どうしたものかと思ったけれど―― 新しいゆららが来てくれて良かった』
『―― それが私が呼ばれた理由ですか? 最初のゆらら? あなたは…… 何なんですか? 』
呼ばれた理由を説明されても、 正直に言えば良く分からなかった。 のらりくらりと肝心な事を言う気がないのか…… 『あれ』 が誰なのかとか―― 引き継がれた『夫』 っていうのはどういう事なのかとか―― それが私にどう関わって来るのかと聞きたい事は沢山あったのだけれど、 その問いかけはさせて貰えなかった。
『とにかく、 ここに来れるゆららが欲しくてね。 私は―― そうだな。 石の精霊だとでも思ってくれたまえ。 ふふ。 ここに来れたのなら、 次のゆらら、 君の運命は決まった。 ここから先はなるようになるだろう。 さぁ、 せっかく来たんだ―― 私の欠片を取ってお行き』
『詳しい事は教えては貰えないと? 』
言う事だけ言ってさっさと帰れと言う…… 『最初のゆらら』 は随分と気儘な性格をしているらしい。
呼ばれたからこそ、 あれだけ苦労して潜って来たのに―― と怒っても良さそうなものだったけれど、 何故かそうは思えない不思議な魅力が彼女にはあった。
『教えてしまってはツマラナイからね』
片目を瞑ってそう言う『最初のゆらら』 に諦めの溜息をついて、 上を見上げる。
そろそろ、 陽が昇る刻限のはず。 朝の六の刻には巫女が集まって祈る『初陽の儀』 がある。 戻らなければマズイので、 私は最初のゆららの欠片を採るとその事を話して暇を告げた。
『次のゆららが見つかったから、 私は少ぅし眠る。 ひと月寝れば起きるから、 その頃またおいで? 』
それまではここには来られないよと釘を刺されて私は頷いた。 『私の欠片、 ちゃんと素敵な細工にしてくれると嬉しいな』 そう言って、 最初のゆららは石の中に入る―― そして滲むように消え去った。
『―― 分かりました。 最初のゆらら。 ではまた―― 』
来ます。 そう言って、 私は上へ向かって泳ぎ始めた。
『ゆらら』と呼ばれていた娘は『ゆすら』 となり、 そしてまた『ゆらら』 と呼ばれるように。
『最初のゆらら』 は何故『次のゆらら』 を呼んだのか? その辺が明らかになるのはもう少し先かと。