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京阪石山坂本線の唐橋前駅を発車したところだった。冷たい風が一瞬で車内から熱を奪い、そして人工的な風が車内に熱を送る。
次の終点石山寺駅が私の家の最寄り駅である。最寄り駅とはいってもそこから自転車で三十分はかかる。要は家の近くまで電車が通っていないだけなのだ。
この話を職場の同僚にすると毎回驚かれる。会社は大阪にあり、ほとんどの人が地元大阪から通っているからだろう。しかし大阪にも山はあるし、当然最寄駅まで私よりももっとかかるという人もいるはずだ。あんた達は自分の住んでいる府のことを知ら無さ過ぎるのではないか、と言いたくなる。もっとも私自身、北の方なんてまったく土地勘はないのだが。
一つため息をつく。
「ねえ、外川君の家って駅から遠いの?」
「徒歩七分ぐらいかな。走ったら三分ぐらいだけど」
「いいなあ、近くて。半分こにしてほしいな」
靖也はニコッと笑い「できたらそうしてあげたいよ」と答えた。
外川靖也と付き合って、二年が経つ。年の差は七つ。彼はまだ高校生だ。この話も同僚には驚かれる。私にしたらほっといてくれとしか言えないが、私自身もとても驚いているから愛想笑いで済ましてしまう。
『デートどこ行くの? そんな若い子と?』だとか『お金払ってるのってあんたでしょ?』だとか、よく聞かれるけれどそんなことはどうだっていい。彼の頭の良さに惹かれたのだ。それさえあれば、他にどんなマイナス面があったところで相殺される。私は頭の悪い男、というより人が大嫌いだから。
頭の良さというのは、何も論理的であるとか、学業成績が優秀であるとかとは別の次元にあると私は思う。いかに相手にレベルを合わせられるか、その合わせることができる人の数の多さこそが一つの指標になるのではないかと思う。その点靖也が合わせられなかった人を見たことがない。
そう、つまり靖也は本音で話さない。私が相談を持ちかけると必ず完璧な回答をくれる。口調も親身になって、落ち着き払っている。でも、私はわかる。それが本音でないことぐらい。
――終点、石山寺です。忘れ物にはご注意ください――
「あー寒い!」
突き刺さる風に私は思わず肩をいからせる。
「冬だから当たり前でしょ。こういう当たり前の会話、不毛だからあまりしないでおこうって前に言ったよね?」
「あ、でた。意地悪なやつ」
「意地悪というよりかは意地張るってやつかな」
「もっと寒くさせないでよ」
「それが狙いだからな」
彼はハハハと笑い、バリアーを張るようなポーズをとっていた私の肩に手を回した。私は今日の疲れがすべて消えていくのを感じた。
冷たく感じていた風も、柔らかく、そしてなだらかに私を包んでいた。
「そろそろ教えて欲しいんだけど」
靖也はわざと声を低くして言った。普通ならば、何か私が抱えているやましいことを指摘されるのでは? と焦ってしまう場面だが、彼がこういう空気を醸し出してきた時は、違う。
「え……? 何……を?」私はわざと動揺してみせる。
「なんでこんなとこに引っ越したかってこと」
「ああ、そのこと」
安堵溢れる声色で返事をした私の声帯とは裏腹に、心臓はいつも以上に早い周期で鼓動していた。
なるほど、そのパターンもあるのか。心の中で軽く自分に舌打ちをした。
「ここらへんが死に場所かな、その直感を信じただけよ」
「直感ね。そうか、直感か。実際に直感ってのは七割正しいって言われれるしね。僕としては、ある仮定が成り立っていればという前提あってのことだと思うけどね」
私はいつもなら楽しめる靖也の話だが、半分も耳に入ってこなかった。
やっぱりそうだ。すべて気づいてるんだ。気づいていながら、核心には触れないんだ。蚊に刺されたところはあまり掻くな、掻いたら余計痒くなるからと、そういった教育を受けて育ったに違いない。
それでも、私は掻いてしまう。いけないと言われたら、やりたくなる。そんな子供の頃の癖を思い出した。
死に場所―ー
一体、誰の死に場所だろう?
彼はその考えに至る前に、本当の答えにたどり着いた。
もう、チャンスは少ない。ここで訊かなければ一生後悔するかもしれない。
「ねえ」
「ん?」
「靖也はさ、何のために生きてるの?」
彼は一つため息をついた。私の肩に回していた手をほどき、その手を彼の顎につけ、考え始めた。時々、うーんとかそっかーと声が漏れる。
私は待った。実際にどのくらい時間が経ったのか定かではないが、私の中では一時間ぐらい待ったのではないかと思えるぐらい長かった。
ようやく彼が口を開いた。あまり聞いたことのない、低い声だった。
「多分だけど、僕は自分を殺すために生きていると思うな。きっと生きていく中で一番キツイのって、人間関係だと思うんだね。人によっては、人が面白い、人と話すことがストレス発散なんて言うけれど、僕に言わせればありえないよね。それはあくまで逃げだ。本来、人間ってのはいちゃいけない存在なんだよね。きっと地球で一番邪魔だと思われてるのが人間で、地球だって人間がいなくなればと思ってるだろうね。でも、この瞬間にも人は生まれるし、その逆に当然死んでいく。でさ、話変わるけど殺人とか起こるでしょ? あれって神様が作った地球を救うために作った人なんだよね。地球にとったら嬉しいだろうね。嫌な奴が消えていくんだから。その解釈が正しいと仮定して、それが正しかったと証明できたらだけど、最期には自分で自分を殺すことになると思うよ」
その答えは本音だろうか。私は、彼にとって本音を言えるレベルに達していたのだろうか。いや、少なくとも本音ではないように思う。
彼にとって本当に心をさらけ出せる人はいるのだろうか。ずっと私がそうあって欲しいと心のどこかでは思っていたけれど、絶対に違う、ということも心のどこかにはあった。それがいつしかブレンドされて、冬の空のような灰色を形成していたようだ。
「私はね」こぼれそうになる涙をこらえて私は言った。
「今日靖也を殺そうと思ってるの」
「うん」
「でも、無理って分かったの」
「うん」
「一人になんてなれないよ」
「うん。誰でもそうだと思うよ」
「だから靖也。一緒に死んでくれない?」
靖也の返事は聞かなくてもわかった。結局ここで死ぬのは、どうやら私だけになりそうだ。もう涙は出そうにない。
私が死んだら、誰か泣いてくれるかな?
別に泣いてほしいだなんて思わないけれど。
結局私にとって人生ってなんだったんだろう。その答えを知るために生まれてきた。そんなことを中学の卒業文集で書いた気がする。随分ませていたんだな、と思う反面、やっぱり恥ずかしい。今度生まれ変わったとしたら、一生残るようなものには、もっと慎重になろう。
でも何が残って何が残らないなんて、絶対にわからない。
そんなの死ぬタイミングによって大きく変わるし。
「岬、僕は――」
靖也が何か言おうとしていた。でも、もう何も、聞こえなかった。
最後に耳に届く音は、私の名前がいい。しかも彼から届いた音。
最期ぐらいわがままを通してもいいよね、外川君。